記憶喪失と甘さ

 これから飲み会という雰囲気の人々が行き交う金曜の夜、待ち合わせ場所に着いてから俺はようやく気付いた。

これって告白には絶好の機会なんじゃないだろうか。だって、これから飲み屋ってきっと個室だし。二人っきりだし。酒も入るし。この機を逃したら次はないってくらいじゃないだろうか。

 駅前で静かにガッツポーズを決める怪しい人になっていたので、とりあえず拳を下ろす。それにしても西岡さん遅いな。

 待ちぼうけしている俺の携帯がメールの受信を告げる。ポケットから出してみると、案の定西岡さんからだった。開いて内容を確認する。

 どうやら急な用事が入って遅れるらしい。飲み屋には予約してあるので先に入っていて欲しい、とのこと。告白の決意をした途端にこれか。まあ、どうせシラフじゃ告白なんてできそうにないし、先にちょっと飲んでしまおうか。

 社会人になって精神的にも大人になったと思ってたけど、こういう所は中学生とあんまり変わらないなあなんて思いつつ、飲み屋の方向へ足を向ける。西岡さんがメールに添付してくれた地図によれば、ここから五分ほどで着くらしい。


 *


 よし、落ち着いて記憶を辿ってみよう。

 昨日は西岡さんのおごりで飲み屋に行った。もちろん少しは払うつもりだったけど。待ち合わせをしたら、西岡さんから遅れる旨のメールが来た。予約がしてあったから先に店に入った。俺は西岡さんに告白するつもりだったけどシラフでは無理そうだったので、彼女が来る前に少しアルコールを摂取した。それから西岡さんが来た。さらに酒を飲んだ。それから、それから――

 ――どうして、知らない部屋で西岡さんと寝ているんだろう。

 服は着ている。西岡さんも着ている。間違いは無かったと思っていいだろう。でも、同じベッドで寝ている。しかも俺は彼女に腕枕なんぞしている。すごく嬉しいけど、限りなくグレーな雰囲気だ。

「に、にしおかさーん?」

 そーっと起こしてみる。

「んー……」

 もぞもぞと動いて、うっすらと目を開けた。

「おあようございます……」

「お、おはようございます」

 特に動揺している気配は見られない。それが逆に怖い。お互い泥酔していて記憶が無かった、とかだったらどんなによかったか。

「いま、何時ですか」

「え? えーと」

 部屋を見回すと、テレビの上に時計がかかっている。

「十時を過ぎたところですね」

「じゅうじ……」

 何故か俺にすり寄ってきた。嬉しい。嬉しいけど何でそんな近いの?

「あの、西岡さん?」

「まだねむいです……」

 二度寝したいってことだろうか。今日は土曜日のはずだし、こんな訳の分からない状況じゃなければいくらでも寝かせてあげたいところだけど。

 でも起こしてどうしよう。昨日何があったか聞くべきだろうか。怖いけど。

「わたべさん……」

 服を掴まれた。頭を俺の胸に埋めてくる。何だこの状況。恋人か。超嬉しい。

「昨日は嬉しかったです……」

 え?

「でもちょっと、恥ずかしかったです……」

 え、待て。待て待て待て。何それどういうことだ? 嬉しかったけど恥ずかしかったって、つまり。

「ヘタレとか言ってごめんなさい。わたべさん、積極的でした」

「いや、あの、なんというか」

 間違えちゃったのか、俺!

「すみませ、ん?」

 西岡さんはようやく顔を上げて俺を見た。

「いやあの、酔った勢いとはいえ、というか」

 混乱と申し訳なさと、西岡さんがくっついてるという嬉しさで言葉が文章にならない。

「わ、忘れて下さい? みたいな」

 西岡さんが首を傾げる。それから、にやりと笑った。

「あんなことしておいて、忘れろって言うんですか?」

「え、あ」

 あんなことって、何。何その怖い言葉。

「嬉しかったけど、すっごく恥ずかしかったのに」

「す、すみません」

 背中に腕を回して、抱きついてくる。いやいやそれは。それはちょっとどうかと思うよ。色々こう、当たったりするし。

「責任、取って下さい」

「え?」

 責任っていうとまさか賠償金か。そんな金は無いのに。

「け、結婚、とか?」

 渾身のボケにいい反応は得られなかった。西岡さんは目を丸くして俺をじっと見つめる。いたたまれなさすぎる。

「……すみません」

 謝ってみたら、西岡さんが吹き出した。くすくす笑いながら、俺の頬をぺちぺち叩く。

「渡部さん、昨日何をしたか忘れちゃったんですか?」

「うっ」

 とても見覚えのある笑顔を浮かべなさる。絶対分かってる。俺が忘れてるって分かってやがる。

 俺が答えられずにいると、また身体を密着させる。

「嬉しかったんですよ」

 掠れた声が囁く。

「昨日も、同窓会の日にキスしてくれたことも」

「お、覚えてたんですか?」

 すみません、と困ったような笑顔で謝られる。それじゃ怒れないじゃないか。

「渡部さんも少し酔ってたから。私が好きとか言っちゃったから、勢いだったのかなって」

 顔を伏せてもう一度、すみません、とようやく聞き取れる程の声で謝罪する。その頭にそっと手を乗せて、髪を撫でてみる。

「勢いだけど、勢いじゃありません」

 少しの間があって、はい、と返事があった。

「西岡さんが好きだから、したんです。酔ってなかったら、しなかったかもしんないですけど」

 今度は何も返事がない。少し迷ってから、細い身体をゆっくりと抱き寄せた。

「好き、です」

 折れそうな身体を抱く腕に、少し力を込めてみる。彼女の、俺の服を掴む手にも僅かに力がこもった。か細い声が耳に届く。

「知って、ます。昨日も聞きました」

「へ?」

 顔はこちらを向かないまま、上目に俺を見る。

「好きだって、言ってくれました。キスもしてくれました」

 何で忘れたんだ俺の馬鹿! いっぺん死んでこい!

「なのに渡部さん、忘れてるし」

「す、すみません」

「ひどいです」

「すみません!」

 謝る以外にどうにもできない。というか本当に馬鹿だな俺!

「忘れないで下さい」

「えーっと、努力します!」

 全く思い出せなくてごめんなさいマジで。

「もう、忘れないで下さいね?」

 さっきとは少し違うニュアンスの言葉を、聞き返そうとする前に、彼女の指が俺の唇に触れた。

「渡部さん、」

 薄い唇が開いて、囁くように言葉を紡ぐ。

 頭の芯まで響くその言葉を。その後の、目眩がするような甘さも。

「好きです」

 これからずっと、忘れる訳がない。

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大学院生と業者さん 時雨ハル @sigurehal

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