3

「懐かしいな」チカヤは思わず言葉を漏らしてしまった。

 そこは先程までの研究室とは似ても似つかない場所。薄暗いトンネルの中。辺りを照らす電球が数メートル間隔で天井に設置されている。年季の入ったコンクリートの壁はひび割れ、場所よっては地下水が染み出している。壁に絵が描かれた落書きは上手く読み取れない。

 まるで、チカヤが小学生の頃にはまっていたインプラントゲームで見かけた地下通路の情景と同じであった。独特の湿ったような匂いも、ゲームの中で体感した覚えがある。懐かしさのあまり、チカヤの足取りが軽くなってしまった。記憶を頼りに、通路を奥へと進んだ。チカヤの記憶違いがなければ、隠しアイテムがあると話題になった地下通路である。


 こぉん、こぉん、こぉん。


 たった一人で歩く足音が、地下通路の中で寂しく響く。しばらく歩くと、そこがゲームのものとは違うことがわかった。壁に描かれていたものは、彼の記憶。小学生の時のもの、中学生の時のもの。様々な記憶の断片が壁画となって描かれている。

 チカヤはその中のひとつに触れた。

 小学校の運動会の時のもの。炎天下の中、ひたすらに走った記憶が彼の脳の中へ流れ込んできた。忘れてしまった思い出も、ここでは触れるだけで思い起こすことができる。非常に便利な空間だな、とチカヤは思った。そして、こんな風に研究のアイデアも浮かべば良いのに、と悪態を吐いた。

 しばらく歩くと、開けた空間に出た。無機質な柱が数本立ち並ぶだけの場所。チカヤはその場所に見覚えがあった。ゲームにおける隠しアイテムが眠る空間。ゆっくりと、記憶を辿っていくと……


 一番奥の左から数えて3つ目の柱


 その場所を鮮明に覚えていた。まるで行き慣れた場所であるかのように、自然とチカヤの体が動いていた。

「なんだよ……これ……」

 思わずそんな言葉が漏れてしまった。壁には無数の数式が書き殴られていた。チカヤの記憶にあるものから、そうでないものまで。まるで知識の宝庫だ。知りたいと思っていたことが、事細かに描かれている。

 だが、残念なことにそれらにまとまりはない。線形代数かと思いきや、途中から微分幾何が始まっていた。まるで、割れたステンドグラスのようだ、とチカヤは思った。そこには、断片的な記憶や知識が描かれていた。おそらく、チカヤの中にある知識がまとまり、形になる以前のものが描かれているだけ。


 とん、とん、とん−−


 そのとき、軽い足音が聞こえた。小さな人影が彼に近づいた。

「お兄さん、ここで何をしているの?」

 幼い声にチカヤは振り返った。背丈はチカヤの腰ほどの少年が、物珍しそうな視線を送っていた。「どうして、君がここに?」

 チカヤは率直な疑問を投げかけた。

 マミ曰く、彼が居る場所はチカヤの<記憶の宮殿>。その模造品である。そんな場所に小学生が迷い込んでくるとは思えなかった。

「勉強がつまんなくて、抜け出してきたんだ」

 退屈そうな顔を浮かべて少年は言った。彼の言葉にチカヤは思わず苦笑した。そういえば、自分にもそんな日々があったような気がした。学校の授業がつまらなくて、居眠りしたこともあれば、教室を抜け出したこともあった。

「君は勉強が嫌いなんだね」

「お兄さんは、勉強が好きなの?」少年は首を傾げた。

「そうだね。好きじゃなかったら、こんな時代に続けていないよ」

 嘘ではない。学術研究は面白いが、身にならないという。加えて、ナノマシン技術の向上と共に

学習の意味も変わりつつある。チカヤが進学するのも、単なる学問への興味から。今も、チカヤはワクワクしていた。この壁一面に描かれた数式の数々を早く持ち帰って検証したい衝動が抑えられない。

 とはいえ、まだ幼い彼を放っておくことは、チカヤの良心が許さなかった。

 チカヤは少年に目線を合わせて話を続けた。「でも、僕もずっと好きだったわけじゃないよ。君くらいの頃は、勉強よりもゲームの方が好きだった」

「お兄さんも?」少年が首を傾げたので、チカヤははっきりと頷いた。「そうだよ」

「じゃぁ、どうして勉強が好きになったの?」

 きっかけは曖昧な記憶の中に埋もれてしまった。強いて挙げるとすれば、小学生の頃に参加したサマースクールだろうか。ゲームに没頭するチカヤに呆れて、母親に連れてこられた覚えがある。確か、そのときもチカヤは授業を抜け出して大学の中を探検していたような気がする。

「ちょうど、君ぐらいの頃にサマースクールに参加したんだよ。きっかけはそのときかな」

 さすがに、ありのままを話すことはやめた。こんな小さな子に真似をされてはたまらない。自分の犯した過ちを次の代に繰り返させるのは、愚か者のすることだ。

「僕もサマースクールに参加したよ? でも、つまんなかった」少年は唇を尖らせた。

 きっと、この少年は優秀なのだろう。チカヤはそんなことを思った。優秀な子供からすると、小学生向けのサマースクールなど、ちんけな子供だましにしか感じられない。

「それは君が優秀だからじゃないかな。既に知っていることを何度も言われるのは、つまらないからね。勉強の本当の楽しさは、知らないことを知れることだからね」

「ふぅん。お兄さんにも、分からないことがあるの?」

 チカヤは思わず笑ってしまった。そして、何度も首を縦に振った。「世の中、分からないことばかりだよ」

 少年はチカヤから壁面へと視線を移した。乱雑に書き殴られた様々な数式を見上げ、少年は驚いたような表情を浮かべた。

「これはなに?」

 尋ねられて、チカヤは反応に困った。

 まるで、ぐちゃぐちゃな思考途中の人の頭の中を覗き込むようなそれらを、彼にわかるように説明することは至難の技に思えた。ましてや、ここはチカヤの記憶の中。本人がまとめ切れていないことを説明することはできない。

「僕にもわからない。でも、これは……」

 研究のヒントだ。と、言おうとして口を噤んだ。本当にそうだろうか、という疑問がチカヤの言葉を押し留めた。

 気が付けば、少年も柱の数式を眺めていた。ひとつひとつ、意味を理解しようとしているのか、じっくりと眺めていた。きっと、少年は勉強に興味がある。ただ、学校で習う内容が退屈なだけなのだろう。

「ねぇ、どうして'1'と'0'しか出ていないの?」

 少年の問いに、チカヤは歩み寄ってから答えた。

「それはBoole代数だからね。分かりやすくいうと、計算結果が偶数か、奇数か、以外に興味がないのさ」

 これで分かっただろうか。いささかの疑問が残る。

「お兄さんは、こういうことを勉強しているの」

「まぁ、そういうところかな」

 チカヤは少年が指差した数式を眺めた。

 その数式を見て、チカヤは驚いた。昨夜まで分からなかったことがそこに綴られていた。「そっか、そっか、そういうことか」と、何度も一人で呟いていた。

 それはあまりにも単純で、むしろそれに気が付かなかったことを恥ずかしく思う。「どうして、こんな単純なことに気が付かなかったんだ? 誰だよ、これを書いた人は」

 君だよ。マミがこの場に居たら、そうやって即答しそうだ。

 靄のかかっていた思考が急にクリアになる。割れたステンドグラスのように散りばめられていた数式が、そのカタチを整えていく。チカヤの中で思考がまとまっていく感じが伝わっていく。

「これって、そんなにすごいものなの?」少年が首を傾げた。

「すごい、なんてものじゃないさ。これひとつで、ここ数日の悩みが全て解消されたよ」

 チカヤは何度も繰り返し、柱に描かれた数式を眺めた。そして、別の場所の通式も眺めた。ある数式がチカヤの目に止まった。それは昨日、チカヤが書き殴っていた数式の数々だった。だが、例の数式を知った以上、これはもう不要だ。そう思った途端、その数式は壁の奥へ沈むように消えた。

「お兄さんは、学者さんか何かなの?」

「それを目指している者だよ」少年の問いに、チカヤは適当に答えた。

「僕にもなれるかな」

 その問いを聞き、チカヤの中の疑問が確信へと変わった。

 チカヤは過去にもここに訪れたことがある。それは幼い日のとある夜にみた夢の中でのことだ。あのときに見たよりも、数式が鮮明に描かれていた。ということは、それだけチカヤが成長した証だ。

「そうだな、ここに書いてある数式を全て理解できるようになれば、学者になれるよ」

 意地悪く、チカヤは過去の自分にそう言った。

「無理だよ。僕のじゃ、お兄さんみたいに壁の数式を記録していくことなんて出来ない」

 チカヤの耳に少年の声は聞こえてなかった。彼は壁面に絵が描かれた数式を、ゆっくりと眺めていった。舐めるようにそのひとつひとつを観察し、あるものを探していた。しばらくして、チカヤは探していたものを見つけた。

 修士論文の結果だ。チカヤの思考は確かにそこへたどり着いていた。

 チカヤは震えた。数日間の悩みが、この場に来て一瞬で解決した。ここは彼の思考の中であり、この壁面の数式の全て、彼が考えたもの。あるいは、彼の記憶にある知識。そして、チカヤはある違和感に気付いた。

 数式が変わっていく。ステンドグラスが再び割れたのだ。壁面の数式が崩れ、壁の奥へと沈んでいく。そして新しいステンドグラスが生まれた。割れた、それらは原型すら分からない。

 だが、アテはあった。これがなんであるのか。

 これらは結果から生まれた新たな課題。

 このステンドグラスは未来のチカヤが作ったものだ。今のチカヤでは元に戻せない。

 1つの結果は、また1つの……いや、それ以上のステンドグラスを生む。この世界のステンドグラスの原型は誰にもわからない。永遠に完成することのないステンドグラスが、チカヤたちの世界を構成する。

 チカヤはそれを復元することに魅入られた。

 あの日、チカヤはまだ勉強に興味を抱く前だった。だが、ここへ来てチカヤは授かった。このステンドグラスを直す楽しさを。

 それを未来の自分から授かった。

 そして、今の自分は過去の自分へ授けるものがある。

 チカヤは首から下げたメモリーチップを外した。もう、これは彼に必要なものではない。次へとつなぐべきものだ。

「持っていくといい」チカヤは少年にそれを差し出した。

 彼は恐る恐るそれを受け取った。「いいの?」

「あぁ、いいとも。ここにある数式を全て記録しておいた。次に会うときまでに、この中身を理解することだな」

 結論から言えば、当時のチカヤとの約束を果たした。そして、今チカヤは新たな約束をすることになる。過去の自分と、そして今は見えない、未来の自分との。次に彼が訪れるとき、彼の目に映るこの数式の数々を理解しなければならない。

 そうでもなければ、チカヤは新たな発見を得ることはできない。不思議と、そんな気がした。

「うん。わかった」

 少年はメモリーチップを固く握りしめた。快活そうな笑顔を見て、チカヤは”あぁ”と思った。当時の自分はこんな目をしていたのか。楽しいものを見つけた輝かしい瞳に、チカヤの口元が緩んだ。背中にどうしようもない痒みが走る。

 なるほどな。

 チカヤは心の中で納得した。今の自分は過去の自分を支える存在であり、そして未来の自分を支える存在である、と。

 最後にチカヤは少年の背中を押した。

「さぁ、そろそろ戻った方がいい。お母さんが心配しているよ」

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割れたステンドグラス 天音川そら @10t

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