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「”ひらめき”の可視化?」


 革張りのソファに座り、可愛らしい猫のキャラクター柄の入ったマグカップでコーヒーを飲む幼馴染みに、チカヤは聞き返した。

 チカヤは、Q大学大学院に通う修士課程2年生。二回りほどサイズの大きなTシャツはもはや七分丈。両膝に大穴を開けたジーンズを履き、白髪の多い髪は寝癖を整えていない。一見、寝起きのようにも見えるが、ここは彼の家ではない。彼らが居るのは、大学のとある研究室。それもチカヤとっては他学部の研究室である。

 チカヤの対面に座るアヤノは、クスクスと笑った。

「信じていないって、顔ね」

 髪の先へ近づくにつれ穏やかな曲線を描く亜麻色の髪。きちんと洗濯された白いロングスカートのワンピースは、胸元に赤いリボン。チカヤと対照的な清潔感のある装いの彼女は、現在大学4年生。

「そんなこと、唐突に言われてもねぇ」

 彼の全くと言っていいほど信じていない様子に、アヤノは唇を尖らせた。

「理論上は可能なはずよ」

 チカヤは首から下げ古びたメモリーチップを弄った。彼が幼い頃から持ち歩いている、一種のお守りのようなもの。正直、いつから持ち歩いているのか、記憶は曖昧だ。彼は視線をアヤノから、視界に表示させていた資料へ移した。体内に埋め込んだナノマシンを通じ、アヤノから受け取った卒業研究に関する資料。

 アヤノの卒業研究の課題は、思考の可視化。体内に埋め込まれたナノマシンを用いて、人が考える過程を目で見えるカタチにすること。彼女は、人の思考の中でも”ひらめき”というものに着目した。

 思考の可視化は今話題の研究分野である。チカヤがしているように、視界に資料を表示させることも、またそれに書き込みを入れることも、それらの研究がもたらしたナノマシン技術の産物といえる。

 だが、それらはあくまで、人の思考や動作を補助するためのものに過ぎない。

「そもそも、”ひらめき”なんて曖昧なもの、本当に認識できるのか?」

「チカヤの疑問も分かるわ。いくら理論を連ねても、工学である以上は実験的に観測できなければ意味はないわ」

 アヤノはマグカップをテーブルに置き、身振りを交えながら語り始めた。

「だからね、私は”ひらめき”を『深層に眠る未知覚の智』と捉えることにしたの。つまりね、”ひらめき”っていうのは、何もない無から生まれるものじゃないってこと。ってね」

 身振りを交えるたび、彼女の亜麻色の髪が揺れた。彼女の甘い香りが漂ってきた。

 チカヤは、彼女が決して見当はずれなことを言っているとは思えなかった。人の脳の働きは電気信号のやりとりで成立している。ある種の電気信号によって作られた情報が、記憶であり、知識である。

 もし本当に、何もないところから知識が生まれるのだとすれば、それは無の世界から何かが生まれたことになる。だが、チカヤは経験的にそれは偽であると思っている。何かを思いつく直前、彼の中をくすぶる何かが常に存在する。

 だから、彼女の言うとおり、意味付けされていない無価値な情報に意味を与えることを”ひらめき”なり、”発見”なりと呼ぶ方が腑に落ちる。

「俺はそこを否定したいわけじゃない。主観を言えば、アヤノの言っていることは正しいと思う。でも、君はそれをどうやって測定するつもりなんだい?」

 チカヤは素朴な疑問を口にした。いくら筋のとった理論や主張であっても、それを裏付ける実証がなければ意味がない。

 さらに、彼は追い打ちをかけるように言った。

「仮にできたとしても、そんな都合よく”ひらめき”をもった人になんて出会わないだろう?」

 アヤノは今、形のないものを見ようとしている。”ひらめき”など、形どころか定義すらあやふやなものだ。

 もっとも言ってしまえば、いつ巡り合えるかも分からない希望のようなもの。

 彼女は本当にそれを観測できると思っているのか。チカヤには到底、無理なことのように思えた。

「だから、こうしてチカヤに相談しているじゃない」

 アヤノは、まるで開き直ったかのように言った。チカヤは思わず、苦笑いを浮かべた。「そんなこと頼られても困るよ」

「最後にやるのは私よ? 意見をくれるくらいはいいんじゃない?」

 アヤノはそう言うが、現状、ほぼ丸投げも同然だった。彼女が思っているほど、チカヤも優秀ではない。ましてや専門外のことなど、話を聞く分には楽しいが、実際に意見を出せるほどの知識があるわけでもない。

 チカヤは残っていたコーヒーを全て飲み干した。すでに冷えてしまっており、酸化したコーヒー特有の酸味が口のなかに広がった。

「チカヤも研究に行き詰まっているんでしょう? 話くらいなら聞くわよ」

 アヤノが意地悪く笑みを浮かべた。


−−うぅっ……


 チカヤはぴくりと反応を示した。こういうとき、アヤノは妙に痛いところをつく。

 実際、チカヤも修士論文をまとめる必要がある。だが、研究で行き詰まっていた。だからこうして、自分の研究とは関係のない研究室を訪れて気分転換をしていた。

 彼の現実逃避をアヤノは見逃さなかった。とはいえ、アヤノ自身。チカヤの研究にアドヴァイスを与えられるとは思っていない。

「仮にそうだとしても、アヤノには相談しないから安心して」

 アヤノは彼から視線を逸らした。チカヤに対する劣等感がない、といえば嘘になる。だが、彼が優秀であるという事実は認めていた。だから、冗談を言うように「まぁ相談されても、まともに答えられないからいいわよ」と返した。

「冗談はおいておくとして、実験を手伝ってくれない?」

 アヤノは別の資料をチカヤに送った。”ひらめき”を観測するために彼女が編み出した実験手法。”ひらめき”は初めから人の脳の中にある。だが、それを人が知覚できていないだけ。すなわち、脳の反応を観測すれば良いだけのこと。幸いなことに、未知覚のものと知覚しているものとでは、脳における反応が異なる。

「手伝うのは構わないよ。とはいえ、俺が都合よく”ひらめく”とは限らない」

 チカヤは頭をかいた。

 アヤノは”ひらめき”を単純に捉えすぎている。チカヤにはそのように思えた。確かに、”ひらめく”ための情報は初めから脳にあるかもしれない。だが、その情報に意味を持たせること、その情報に気がつくことがどれほど大変なのか、彼女は分かっていない。

 頭の良い人間はなんだって思いつく。

 アヤノの相談は、チカヤにはそのように受け取れた。チカヤは彼女の思っているほど、優秀ではない。

「もう少し、計画を練った方がいいんじゃない? ほら、何をひらめかせるのか、指定しておいた方が観測もしやすいと思うし」


「二人とも難しく考えすぎなんじゃない?」


 そのとき、研究室の奥から声がした。

 近づいてきたのは、一人の女性。丁寧に編まれたひとふさの髪は栗色。胸元を大胆に開けたシャツは淡い赤色。しなやかな足を包むロングブーツは黒色。

 整った顔立ちに優しそうな瞳。形のきれいな耳には、大きな三日月のイヤリング。

「学部生の研究なんて、誰も期待していないんだから気楽にやっちゃいなよ」

 彼女はそう言うと、チカヤの隣に腰を下ろした。

「マミさんも来ていたんですね」

「まぁね。家に居てもやることないし。彼氏には振られるし。あたしに残された憩いの場は研究室ここだけよ」

 何かを嘆き悲しむようにマミは言った。

 マミはこの研究室の最古参。現在は博士課程に通う。

「期待されてないからといって、いい加減なことするわけにもいかないじゃないですか?」

 マミの登場にアヤノは拗ねたように唇を尖らせた。

「アヤノちゃんの気持ちもわかるわ。アヤノちゃんのような真面目ちゃんは、手を抜くのが苦手だものねぇ。でも、手を抜いてみたり、手当たり次第に手を動かしてみたりすることもときには重要よ」

 アヤノはむすっと頬を膨らませた。

「先輩は手当たり次第に男に手を出しているだけじゃないですか」

「男も、実験も、初めが肝心。踏み出すことが肝心。と、いうことでさっさと試しちゃいなさいよ」

 マミは登場と共にこの場の空気を飲み込んでしまった。彼女は一度立ち上がると、自分のマグカップにコーヒーを注いできた。真っ赤なマグカップをテーブルに置き、まっすぐにアヤノの目を見た。

「もう、準備はできているのでしょう?」

 マミの問いかけにアヤノは静かに頷いた。

 彼女の言う通り、実験に必要な準備は整っている。懸念事項は”ひらめき”の題材。問題を解かせようと思っていたが、それでは単純に問題を解く際の思考を観測しているだけだ。

「なら、チカヤくんの出番ね」

 マミはチカヤの方を向いた。突然、話を振られたチカヤは「は?」という、間抜けな声を出してしまった。

「チカヤくんが今欲しているのは、”ひらめき”でしょう?」

 魔性を秘めた彼女の表情にチカヤは思わず言葉を失った。

 マミの指摘はあながち間違いではない。今のチカヤは研究に行き詰まっている。だが、それは全く手がつけられない、というわけではない。分かりそうで分からない。まるで、喉元まで出掛かった幼い頃の記憶が思い出せないような、そんな感覚。

 もし、”ひらめき”というものが得られるのであれば。そんな甘い考えを頼りにチカヤはこの場を訪れた。

「否定しない、ってことは本当みたいね」

 マミは微笑むと、チカヤの頬を人差し指で突いた。

「アヤノちゃん、彼にリンクを送ってあげて」


 −−ポンッ。


 チカヤの体内に埋め込まれたナノマシンがメセージの受信を知らせた。送り主は目の前にいるアヤノ。メッセージを表示させると、本文はなくただ1つのアドレスが記されているだけだった。これを押せば実験が始まるであろうことはわかった。

「なんですか? これ」

 チカヤは首を傾げた。すぐさまボタンを押すことを躊躇った。

「いうなれば、”ひらめき”の追体験」

 黙ったままのアヤノに代り、マミが説明をする。

「チカヤくんの言う通り、”ひらめき”なんて曖昧なものだわ。簡単に観測することもできない。そこで、”ひらめき”を観測することをやめて、被験者に”ひらめき”を追体験してもらうことにしたの。

 ほら、アヤノちゃんが言っていたでしょう? ”ひらめき”とは、『深層に眠る未知覚の智』。知っていることなのに知覚していないだけだって。じゃぁ、知識はどこに眠るのか。それは記憶でしょう?」

 マミがコーヒーを口にした。彼女の説明を聞きながら、チカヤは適当に相槌を打った。

 確かに、”ひらめき”が初めから知っていることであるならば、それは既に記憶の中に存在する。チカヤは記憶というものにアクセスして、知識を得ている。考えるということも、究極的にはそうなのかもしれない。

「チカヤくんは<記憶の宮殿>って言葉を聞いたことがある?」

「確か、誰もが持っている記憶の保管場所でしたっけ」

「そうそう。さっきアヤノちゃんが送ったのは、君の<記憶の宮殿>へのリンク。正確には、チカヤくんのナノマシンが持つ記憶情報を元に創り出した仮想空間だけどね。既に忘れた記憶から、これから知る記憶が詰まっていると思うわ」

 チカヤは最後の言葉に首を傾げた。「これから知る記憶?」

 マミは小さく笑った。「つまり、”ひらめき”なり、”発見”なり、と呼ばれるものよ。それが未知覚の智であるならば、<記憶の宮殿そこ>にあってもおかしくないでしょう?」

 にわかには信じ難かった。自らの体内を巡るナノマシンが、それを知っているのであれば、もっと解りやすい形で表現してくれても良いはず。今の彼らは体内のナノマシンと、彼ら自身で1つの人と呼べる存在であるから。

 しかし、チカヤの疑問にアヤノとマミは首を横に振った。

「私たちが知らないことは、ナノマシンも知らない」

 観測できても表現できない。能動的な処理を行えないナノマシンは、使用者が知っている以上のことを処理することはできない。それが分かっているから、人は知識を自らの手で知る必要がある。人が一度でも能動的に得た知識や記憶はナノマシンに指示することで再び呼び起こすことができる。

「つまり、俺が抱えている悩みの解決策をナノマシンが認知していても、俺が認知するまでは教えてくれないってことですか?」

「そういうこと。機械も万能じゃないのよ」

 マミは残っていたコーヒーを全て飲み干してしまった。

「動作は保証するわ。ただし、”ひらめき”が得られるかどうかはチカヤくん次第よ」

 チカヤは溜息をひとつ吐いた。家で考え込んでも思い付かないと思った。気分転換に、遊びに来ただけだった。初めから駄目元だ。暇潰しには丁度良い。


「わかりましたよ」


 そう言うと、チカヤはメッセージに表示されたアドレスをクリックした。

 刹那。チカヤの意識は研究室とは別の、どこか遠いところへと飛ばされた。

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