第2話

 強豪・多摩川野球クラブとの一戦、九回のマウンドには内海貴斗うつみたかとが立っていた。

 先頭は今日ホームランを放っている石山。初球はインコース高めへのストレート、これを石山は全く反応せずに見送る。2球目はアウトコース低めへ入ってくるスライダーを見逃しストライク。そして3球目、インコース低めのストレートに全く反応できずに三球三振。

 続く二人の打者も三振に打ち取り、ラビアンズは勝利を収めた。仲間とハイタッチを交わした内海は観客席に近付き、満面の笑みを浮かべて手を振った。

 手術はあっという間に終わった。左脳と右脳の分離という恐ろしい響きを持つ手術であったが、手術後もこれと言って体の異変は感じず、以前と変わらぬ日常生活を送ることができた。内海は騙されたのではないかという思いが日に日に強くなっていた。

 しかしその疑念を手術後初のピッチングが吹き飛ばした。相変わらず雑念は生じていたものの、それがピッチングに影響を与えることがなくなっていた。際どいコースを突き、バットを振ることさえ許さないほどの快投が続いた。内海は己のピッチングに酔いしれ、ようやく500万円が安い買い物であったと確信することができた。

 内海が大車輪の活躍をしていたある日のこと、監督の羽和原はわはらに呼ばれた。内海の復活にこれまで半信半疑だった羽和原もついに認めたのだろう。

「おう内海、最近調子いいじゃねえか」

「ありがとうございます」

「まあ、俺が我慢して使い続けたおかげだな。ガハハハハ」

 羽和原は心の底から喜んでいるようで、下品な笑い声を辺りに響かせた。相変わらず恩着せがましいやつだなと思いながらも、嫌な気持ちはしなかったので愛想笑いを浮かべた。

 次の瞬間――突如、羽和原が仰向けになって倒れた。

 何が起こったのか分からなかった――が、なぜか内海の左手が前に突き出ていた。

「貴様ー! 何しやがる!」

 羽和原は立ち上がると、右の頬を抑え、内海を鬼の形相で睨んだ。

「え? 俺は何も……」

 内海にはまだ状況が理解できなかった。騒ぎを聞きつけたチームメイトが集まってきた。

「内海! お前何やってんだ!」チームメートの怒声が耳に響く。

「俺は……何をしたんだ?」

「何言ってやがる。お前が監督を殴ったんだろ」

「俺が……監督を?」

「内海……貴様が俺のことをどう思っていたのかがはっきり分かったよ」羽和原は顔を真っ赤にして睨みながら言った。

 そして――再び羽和原が倒れた。今度はその瞬間をはっきり見ることができた。内海が羽和原を殴った――いや、内海の左手が勝手に動いて羽和原に拳を浴びせたのだ。

 茫然自失となった。意に反して大変なことをやらかしてしまった。そしてやらかしたのは間違いなく自分だった。内海はチームメートに抑えられ、どこかへ連れて行かれたが、その後どうなったかは覚えていなかった。


 野球チームと会社をクビになっていた。揉め事を公にしたくないということもあって警察への被害届こそ出されなかったものの、内海は仕事と野球という人生のすべてを失った。内海は毎日、行くあてもなく街をさまよっていたが、疲れてくると決まって球場近くの公園のベンチに座っていた。

 その日も内海は公園のベンチで、何をするわけでもなくただうつむいて座っていた。

「内海さん」

 不意に声をかけられて見上げると、そこには栗山の姿があった。

「あ、どうも……」

 内海は気まずさからすぐにでもその場を立ち去りたい気分だったが、その気力さえも失せていた。

「心配しましたよ……」

「ごめん……せっかく応援してもらったのにこんなことになっちゃって」

「いえ……そんな……」

「俺はもうお終いだけど、もしよかったらチームのことは応援し続けてほしい……」

「諦めないでください」

「え?」

「またいつか野球できますよ。そのためにはまずお仕事でしょ。一緒に探してあげますよ」

「そんな……」内海は栗山の思いがけない申し出に戸惑った。「君にまで迷惑かける訳にはいかないよ」

「大丈夫です。私、こう見えても結構顔が広いんですよ」

「栗山さん……」

 内海は栗山に対して特別な感情を抱いていることに気が付いた。いや、この気持は以前からずっと持っていたものだったのかもしれない。それが今、どんな感情であるかがはっきりとしてきた。

「さぁ、行きましょう。こんなところにいても何も始まりませんよ」

 栗山は爽やかな笑顔を向けて、内海に手を差し伸べた。内海の表情からも暗さが消え、ようやく行動する活力を取り戻して立ち上がったその瞬間だった――。

「きゃあ!」

 内海は栗山を押し倒していた。左手が、悲鳴を上げて倒れた栗山の衣服を引き剥がそうとする。

「何するんですか」

「いや……これは……」

 内海の左手は栗山の上着を引き裂いた。あの時と同じだということは疑いようがなかった。羽和原を殴り倒した時と同じように、左手が勝手に動いてしまう……止められない!

 左手はさらに栗山の下着にまで手を出そうとしていた。内海は自分の右手で必死になって左手を抑えた。

「この野郎! 勝手に動くな」

 その光景は傍から見ると何とも滑稽であったが、当の本人からしてみたらこれ以上ない緊迫した事態だ。内海がひとりでもがいている隙に栗山が立ち上がり、内海の頬に平手打ちを食らわせた。

 栗山は引き裂かれた上着を手にして、何も言わずにその場を立ち去った。左手はようやく落ち着きを取り戻したが、内海はその場にうずくまってしばらく動くことができなかった。絶望感に打ちひしがれ、嗚咽した。希望を取り戻しかけた矢先に何なんだこれは……。もう、自分には何も残っていない。本当に何もかもを失ってしまった。

 しかし内海の絶望はすぐに激しい怒りへと変わった。もう疑いようがなかった――あの手術が全ての元凶であると。左右脳分離手術のせいで自分は奈落の底へと突き落とされた。内海は手術を斡旋した葛田くずたをすぐにでも殺してやりたい衝動に駆られた。


 三度目の呼び出し音のあと、葛田が電話に出た。

「はい、葛田でございます」

「……内海です」

「これは内海さん、ご無沙汰しております。どうかなされましたか?」

 以前と変わらず人を食ったような喋り方は、内海の怒りをさらに増幅させた。

「おいあんた! ふざけるな! 左手が勝手に動くなんて聞いてないぞ」

「はぁ。何か不都合がありましたか?」

 内海はこれまでの経緯を説明した。

「チームはクビ、会社もクビ、おまけに助けようとしてくれた人まで怒らせてしまって……どうしてくれるんだ!」

「どうと言われましても……我々はただ手術をしただけですので」

「こんな副作用が起こるなんて聞いていなかったぞ」

「ちょっと待ってください」にわかに葛田の声色が変わった。「副作用ではございませんよ。これはれっきとしたあなたの意思ですよ」

「そんなわけないだろ。手が勝手に動いたんだぞ」

「脳からの命令――すなわちあなたの意思がなければ手は勝手になど動きません」

「なんだと?」

「よく考えてご覧なさい。あなたの左手が為したことは、本当にあなたの意思とは無関係だったのでしょうか」

 内海はギクリとした。羽和原を殴りたいという欲望が全く無かったのかと言われれば――答えはノーだ。心の奥底にはこいつのことが嫌いだ、痛い目にあわせてやりたいという思いが確かにあった。同様に栗山を押し倒したいという気持ちも――自分は男だから当然あったのかもしれない――いや、あった。理性的な判断をするという重要な役割を、左脳はしてくれていたのだ。左脳という理性を失って、本来は表に出てくるはずのない欲望がダイレクトに行動を引き起こしてしまったのだ。内海は急激にこみあげてくる恥ずかしさに耐えながら反論した。

「たとえ少しでもそう思っていたとしても、それがすぐに行動に現れるなんて……そんな馬鹿なことがあるか」

「内海さん……今回のことは全て、他でもないあなたの『意思』が起こしたことなんですよ。その結果の責任を他人に押し付けるのはいかがなものなんでしょうかね」

 再び反論する言葉は見つからなかった。

「……分かった。確かに俺の責任なのかもしれない。だがもう耐えられない。元に戻してくれ」内海は観念して言った。

「元に戻す手術でございますか……できることはできるのですが、その……」葛田の声は再びビジネスマンらしい調子に戻った。「一億円ほどかかるのですよ。分離する手術と違って大変難易度の高い手術でございまして……」

「一億……」

 内海は言葉を失い、電話を床に落としてしまった。

「もしもし、内海さん……内海さん……」

 受話器から葛田の声が虚しく響いていた。


 夕闇の中を重々しい足取りで歩いていた。遠くでは無機質な街の明かりが徐々にその明るさを増して輝き、今いる場所と街とを隔てる川からはかすかな潮の匂いが感じられた。

 一億円など払えるはずがなかった。内海は川に架かる橋を渡りながら、己の身の不幸を呪った。何もかも失い、もう失うものなどなにもない、それでも失い続ける人生が続くのだろう。

 気が付くと、内海は橋の手すりの上に立っていた。

 手すりの上に乗ってから十秒もしないうちに、内海は飛び降りた。

 これでいいんだ、これが一番楽な方法なんだと自分に言い聞かせた。

 死ぬときはどんな感覚がするのだろうか、痛いのだろうか、しばらくもがき苦しむのだろうか、ひょっとしたら快楽を味わえるのだろうか――思いを巡らせた。

 ――ん?

 内海は飛び降りてから数秒経っても死んでいないことに気付いた。苦しくもなんともない。それどころか川へ落ちてさえもいない――。

 目を開き、上を見上げた。

 左手がしっかりと手すりをつかんでいた。

 宙吊りになった内海は自分がまだ生きているということを改めて実感した。

「そうか、俺はまだ死にたくなかったのか」

 自分をどん底にまで突き落とした張本人。その左手に対して初めて愛おしさを感じた。

「じゃあ、俺ももう少しだけ生きてみるか……」

 内海は歩道に這い上がり、仰向けになって空を見上げた。雲ひとつない空に星が輝いていた。

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黄金の左腕 知多山ちいた @cheetah17

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