黄金の左腕

知多山ちいた

第1話

 九回裏、ツーアウトランナー満塁、マウンドには内海貴斗うつみたかとが上がっていた。点差はわずかに一点、バッターは今日ここまで二安打の四番、筒井。一本出れば逆転サヨナラ、かといってフォアボールを出すわけにもいかない緊迫した場面だった。

 カウントはツーボールワンストライク。何としてもストライクを入れたい場面だ。コントロールの良さに定評があるので、筒井の苦手なコースに投げてカウントを稼ぎたいところである。

 キャッチャーはインコース低めに構えている。セットポジションから投げようとした瞬間、筒井の頭の中に邪念がよぎった。

 ――打たれたらどうする。

 ボールはワンバウンドしてキャッチャーのミットに収まった。スリーボールワンストライク。もうストライクを入れるしかない。筒井はこのカウントでバットを振ってくるような選手ではない。次は確実にストライク……ストライクだ!

 先程よりもやや真ん中寄りにキャッチャーは構えている。投球動作に入った。腕はちゃんと振れている。これならストライクを取れる。フルカウントからが勝負だ――そう思ってボールを手から離す瞬間だった。

 ――打たれたらどうする。歩かせてもまだ同点だぞ。

 内海を再び邪念が襲った。自分の意識の奥底から襲ってくる思考――それが手元を狂わせた。

 フォアボール――同点に追いつかれ内海はうなだれた。もはやこの流れを止められるだけの強さを内海は持ち合わせていなかった。次のバッターにサヨナラタイムリーを打たれ、天を仰いだ。


 社会人野球チーム「東調布ラビアンズ」は創部30年の伝統あるチームであり、プロ野球選手も数名排出したことがある名門としても知られていた。ラビアンズに所属する内海貴斗はクローザーを任されていて、ストレートはMAX140キロ台前半であったものの、多彩な変化球をコーナーに投げ分けられる抜群の制球力を持っており、プロのスカウトも注目する逸材であった。

 その内海がここ数試合、人が変わったように調子を落としていた。リリーフの失敗を繰り返し、チームメートからの信頼も失いつつあった。

 ラビアンズの監督、羽和原健一はわはらけんいちはついに耐えられなくなり、内海を監督室に呼んだ。

「おい内海、どうした? 何だ最近のピッチングは」口調は穏やかであるものの怒気を含んでいた。

「すみません……」

「我慢して使ってやってんだから、少しは応えてくれてもいいんじゃねえかな?」

 羽和原は細長い目を精一杯横に伸ばして微笑んでいるが、それが皮肉の笑みだということは一目瞭然だった。

 内海はこの監督のことが嫌いであった。妙に恩着せがましいところがあり、選手が活躍するのは自分のおかげ、だが選手が失敗するのは選手の責任と思っている節があったからだ。

 しかしここ最近の成績では何も言い返すことができず、ひたすら頭を垂れて謝ることしかできなかった。

「次やったら配置転換を考えるからな」羽和原は急に神妙な顔つきになってぶっきらぼうに言った。

「覚悟してます」

 監督との面談を終えると、ロッカールームで着替えを済ませ、帰宅の途についた。


 球場内の通路を歩いていると、二十代半ばと思われる地味な服装をした女性が近づいてきた。黒髪を肩まで伸ばし、ラビアンズのタオルを首にかけている。

「内海さん、お疲れ様です」女性は内海に声をかけた。

「栗山さん……今日も来てくれていたんだ」

 栗山杏くりやまあんは内海と同じ会社の社員で、ほぼ毎試合応援に駆けつけてくれる熱心なファンでもあった。内海とは社内での交流はなかったものの、遠方の球場にも応援に駆けつけてくれたため、お互いに知る仲となっていた。

「残念でしたね、今日は」栗山が言った。

「……」

「あ、ごめんなさい」

「いや、こちらこそごめん。不甲斐ないピッチングばかりして」

「大丈夫ですよ。次こそはきっと抑えられます」

「ははは……」内海は苦笑した。「なんでだろうなぁ……全然思うようにいかないよ……」

「でも、球速はいつもどおり出ていましたし、コントロールもそんなに乱れていませんでしたよ。相手の調子がよかっただけじゃ……」

「そうなんだろうけど、俺が打たれたのは事実だよ。これが俺本来の実力かもしれない。もう引退かな」内海は半分笑いながら自虐的な言葉を口にした。

「そんなことないです! 内海さんはそんな……」

「ごめんごめん。頑張るよ」せっかく応援してくれているのに悲観的な言葉ばかり発するのはまずいと気付き、内海は話を切り上げようとした。「じゃあ、俺は帰るから。お疲れ様」

「お疲れ様です」

 内海は照明が落ちてすっかり暗くなった球場の周りをぐるりと回って駅の方角へと歩いていった。いつまでも栗山の視線が背中を突き刺しているような感覚がした。


 球場から駅までの道は、閑静な住宅街を貫いていた。帰宅途中のサラリーマンと時々すれ違うが、街灯はまばらで辺りは暗く、顔を識別することは難しかった。いつも通る道であったが、不気味なほどの静まり返りには馴染めなかった。

 内海は20メートルほど前方に人が立ち止まっているのに気付いた。どうしてこんなところで立ち止まっているんだろうと訝しみながらも、内海は歩き続けた。次第にその人物の姿が近付いてくる。至近距離まで近寄ると、赤色のコートに黒のシルクハットという奇妙な出で立ちをしている人物であるということが明らかになった。

「内海さんですね」

 心臓が止まりかけた。不審人物がいるだけならまだしも、声をかけてきて、なおかつ自分のことを知っているとは予想だにしていなかった。無視しようかとも思ったが、あからさまに不審人物扱いするのもどうかと思い、返事をした。

「はい」

「突然申し訳ございません。私、葛田正義くずたまさよしと申すものでございます。内海さんの日頃のご活躍、拝見しております」

「ありがとうございます」内海は不信感を滲み出した声で言った。「どういったご用件でしょうか」

「内海さん、あなたは素晴らしい実力をお持ちなのに、ここ最近は力を発揮できていないとお見受けします。私、そのことに大変心を痛めております」

「そりゃどうも、すみません」

「いったい何が原因なんでしょうね」

「さあ、分かりませんね」

「それはよくありませんね。原因をしっかり究明しないと」

 最初は軽くいなそうと思っていた内海だったが、相手がしつこく食い下がってきたので次第にイライラが募ってきた。ただのおせっかいなファンなのか、自分を冷やかそうとしているだけなのか、相手の目的も分からなかった。

「あなたには関係ないでしょ」

「私には分かります」葛田はこれまでのへりくだった態度からは一転、自信満々な表情を浮かべて言った。「ずばり内海さん、あなたの不振の原因は心の病でしょう。肉体的には何の問題もないのに『気持ち』が邪魔をして思うような投球ができない。そうではありませんか?」

 内海は自分が今まで感じていた問題をずばり指摘されて面食らった。たしかにその通りだった。しかしそれは外から見ても分かるほどあからさまだったということか。

 葛田という男に対する内海の不信感は消えつつあった。

「その通りだよ。でもどうしようもないんだよ、心の問題なんて。俺は元々そういう人間なんだから」

「『どうしようもない』なんてことはありません」

「あなた、メンタルトレーニングの人か何か? それだったら無駄だよ。だってもう……」

「いえいえ、人間の心をトレーニングなんかでどうにかできるという発想は間違いです」葛田は言った。「内海さん、人間の心が生まれる場所はどこだか分かりますか?」

「は?」

「そう、脳です。人の心を変えるには脳の構造を変えるしかないのです」

 不信感が再び大きくなった。

「そりゃそうかもしれないが、だったら何なんだ? まさか脳を改造しろとでも言うのか?」

「まあまあ、最後まで聞いてください」葛田は微笑を浮かべながら言った。「人間の脳には左脳と右脳があります。一般的にに左脳は計算や言語など論理的思考を担い、右脳は直感や芸術など抽象的な思考を担うと言われています。ところで右脳と左脳が全く別の判断をした場合はどうなるのでしょうか。実は最終的な判断を下すのは左脳で、右脳が下した判断は左脳というフィルターを通って我々の行動に反映されるというわけです。内海さん、あなたはサウスポーでしたよね?」

「そうだが」

「左手は右脳がコントロールしているのです。あなたの右脳は天才的です。寸分違わずコントロールできる能力はその証明です。ところがどうでしょう。そんなあなたの右脳の働きを左脳が邪魔しています。あなたの左脳は、ここで打たれてはいけないとか、ここは絶対ストライクを入れなければいけないといったあらゆる雑念を発生させ、結果としてあなたの投球の質は著しく低下するのです」

「ふむう」内海は葛田の言ったことが腑に落ちて、思わず声を発した。

「どうですか? ご納得いただけましたか?」

「よく分かったが、だからどうだと言うんだ? 右脳とか左脳とか言われても、結局自分でどうにもならないことに変わりはないじゃないか」

「右脳と左脳の繋がりを断つんです」葛田が鋭い眼光を内海に向けた。

「は?」内海は思いがけない言葉に目を丸くした。

「右脳と左脳の繋がりさえ断ってしまえば、右脳の意思決定が投球にそのまま反映されます」

「ちょっと待ってくれ。何を言ってるんだ、あんたは」

「内海さん、現代のテクノロージーを甘く見てはいけません。右脳と左脳の分離なんてのは今の時代、盲腸の手術よりも簡単にできるんですよ」

「しかしそんな話を聞いたことは……」

「現代の天才たちの多くはこの手術を受けています。あまり表沙汰になっていないのは、そうですね……天才は複数いらないということでしょうか」

 葛田は左右脳分離手術を受けた著名人のリストを内海に見せた。そこには内海もよく知っている有名音楽家やスポーツ選手の名前がずらりと並んでいた。

「この手術は、我々が天才と見込んだ人物にのみ、極秘に提案しているものでございます。天才が左脳の雑念に苦しむのは社会的な損失ですからね。内海さん、あなたも我々が天才と認定した一人です」

 内海は完全に言葉を失っていたが、同時に希望が胸の中から湧いてくるのも感じていた。もしこれで元の力を取り戻すことができればプロへの道が再び開けるかもしれない。

「それで、料金は?」

「今なら特別料金で、500万円でお受けいたします」

「それぐらいなら……」

「ご決心していただけましたね。ありがとうございます」

 内海は葛田と連絡先を交換し、再び会って手術の詳しい説明を受けることを約束した。葛田は一礼すると、踵を返して闇の中に消えていった。

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