【短編】貌

田中ビリー

【短編】貌

 目の前に女がいる、艶めいた長い髪が腰まで届いている、執拗なまでに櫛を通したのだろう、毛先のゆるいカーブまでは磨いた刃物のように鈍く光を跳ね返している。

 細く高い鼻梁、春に舞う蝶を思わせる睫毛、視線がぶつかるとその水晶体には私が映し出される。生命として完全に敗北していることを私は思い知らされる。


 私は目の前の女を眺め続ける。見ていたいとは思わないが、なぜか目を離すことができない。

 いつから眺めているのか、時間の感覚が曖昧になっていた。

 女は時折、目をふせ、そして私に視線を送る。表情は変わらない。だが、一秒にも満たない僅かな瞬間、女の口角が持ち上がる、頑なに合わされていた上下の唇に隙間ができる。


 重い扉をこじ開けた向こうにあるのは虫食い穴のようで、そこから羽を背負い始めた小虫が溢れ出てきそうな幻覚にとらわれた。


 女は私を見てはいない。私と私の背後にある変色した壁、その中間にある空白を見ている。そしてまた目を閉じる。何度繰り返したところでそれが変わるわけでもないが、それでも私がそれを続けるように、女もそれを続けている。

傍から見れば出来の悪いロールシャッハ・テストのように思うかもしれない、私と女は対になっている。


 私は目の前の女を知らない。何も知らない。だが、私にはわかる。

 美しい女だ、だがその美しさは度重なる改良の末に手に入れた後天的で人工的なものだ、バグを見つけるたびにアップデートを繰り返すゲームやパソコンのソフトのようなものだ。


 大脳は単なるシステムだ、人間が機械であることはそれを要としたものが人間であることからも自明に過ぎる。

 性能に差はあれ、私も目の前の女も、人間であり機械なのだ。


 だからだろう、私たちは自分以外に興味を持たない。どれほど言葉と智恵を重ねてもそれは変えることができない。


 女は退屈そうにさえ見えない。手にしたものと手放したものを見比べることも感傷的になることもない。だが盲目的に未来を見ているわけでもない。そんな好都合がないことを既に知ってしまった大人なのだ、無邪気な子供ではないからだ。



 女は過去を眺めている。切り刻んだフィルムを不器用にテープで繋ぎ合わせたように既に終わった物事を反芻し、再び切り刻み、火を点け、無きものにしようと試みる。

 冷笑を浮かべ、冷徹な視線でもって、冷酷なまでに冷静に。

 記憶ある限りのすべてを書き換えようと決めている。そこにあるのは虫食い穴を見つけ、それを塞ぎ、虫そのものを駆逐する機械となる。その所業は害虫と大差なく、益虫とも言い難い。


 よく見れば、女の貌には無数の穴が見てとれた。穴はみるみる大きくなり、目を、鼻を、口を、頬を、漆黒へと塗り替えてゆく。

 私は思わず悲鳴をあげた。女もやはり私と同時に悲鳴をあげた。


 もう戻ることはない。一時間ばかりの嗚咽の後、顔をあげると女はやはりそこにいた。開いていたはずの穴は塞がっている、跡形もなく塞がっている。微かに浮かべた笑みにどうにか優雅さを保とうと試みる。


 私は気づく。

 眼前には誰もいない。あるのは鏡だけだった。

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