第十二章 虹のかかる先、未来へ

 換気に開けられている二階の窓から入った風が、遮光カーテンをゆらゆらと揺らしていた。ときどき捲れて覗く空はからりと澄んで、羊のように並んだ雲が規則正しく横切っている。


『次は、2年2組です』


 おじいちゃんの家の書斎にあるピアノを守っているのとも似た分厚い緞帳どんちょうの横をすり抜けて、板張りのステージにたどり着く。あまり馴染みのない体育館が、今日ばかりは余計に余所行きの顔をして見えた。気がつかないうちに息を詰めていて、慌てて吸えば余計に心臓が大きな音を立てる。

 私が立つのは、ひな壇を並べた一番前、ピアノのすぐ隣。体は制服で遮られているからあまり感じられないけれど、頬や顔全体が、足元や二階の奥から差す照明でもうもうと熱い。

 授業でもサリエリ先生の特別レッスンでも、たくさん練習してきた。だから今になって心配することも不安な場所もないのに、たくさんの人の目が集まっていると思うだけで怖くて、本当は今すぐにも逃げ出したい。

 でも、今日だけはそうはいかない。誰が見ていてもそうじゃなくても、今までの成果をちゃんと見せたいから。きっと先生は私が失敗しても悲しんだり失望したりはしないけれど、きっと少しでも上手くできたほうが、もっと喜んでくれるだろうから。

 ……とは、分かっているのに、足が震えて仕方ない。

 校内の合唱コンクールは全学年・クラス対抗で、歌うのは課題曲と自由曲で二曲。そのうちの二つめ、自由曲の最後のほうにソプラノのソロパートがある。たった一小節だけれど大仕事。つまり、この緊張は最後の最後まで続くということ。

 課題曲は他のクラスに負けじとまとまって、声もよく揃っているように聞こえた。

 本当は何も考えずに合唱に集中すればいい。どこかに両親も来てくれているはず。分かってはいるけれど、ついつい客席を見渡してしまう。

 おかげで観客席の中央の中頃、わざわざ見に来てくれた奏くんの姿を見つけることができた。

 今日の奏くんは録画係。撮影したものを後日、書斎にいる先生に届けてくれる約束になっている。

 けれど、私の目に入ってきたのは従兄だけではなくて、ちょうど右隣の空いた席。

(……あれ?)

 鞄を置いた座席がぼんやり霞んで見えるのが、スポットライトの逆光だと思ったのは一小節の間だけ。目を離せないでいるとどうやら霞は人の輪郭をしていて、瞬きを続けるうちに、それが前の席の人の影でもないことに気がつく。その面影にはとても覚えがあった。合唱に合わせて頷いたり静かに目を閉じたりしている。

(まさか、鞄の中に入っているのは……?)

 そうと分かった途端にその人と目が合って、今度こそ、私に向かってにこにこと頷き返してくれる。気がついたらしい奏くんも一緒に。

 おかげで、いつの間にか太鼓のように騒がしかった心臓が、ピアノの音色のようになめらかに落ち着きを取り戻していく。


 課題曲と自由曲の間は、一度足を閉じて、指揮者役の生徒が右手を上げたのに合わせてもう一度、肩幅で足を踏みしめる。

 震えは指の先から抜け落ちて、頬の熱さも今は気にならない。


 自由曲の題名は、虹。

 静かな前奏の後に、クラスの皆が一斉に息を吸うのが聞こえた気がした。


 歌詞はすっかり覚えて、息継ぎの場所も強弱も、声だってよく出せている。

 大勢の人の視線、スポットライトの眩しさ。それよりも綺麗に重なった歌声とピアノの伴奏がまとまって、ひとつの音になったような心地がして。

 なにより、いちばん届けたいひとに届けられる、直接その目と耳に――ううん、実際の目と耳ではないのだろうけれど、心に伝えることができるなら。


 顔を上げれば、もう一度目が合った。

 遠くても、もうすぐだねと頷いてくれたのが分かった。


 余韻の中、そっとピアノの演奏が途切れる。

 その内側でひとり息を吸う。

 一音目を歌に乗せた瞬間から、大勢の人の目が、意識が集まってくる。


「僕らの出会いを 誰かが別れと呼んでも」


 たった一瞬、それでも充分に長く、大切なソロパート。

 またすぐに多くの音に吸い込まれて、視線は元通り、私たちのクラス全体を見渡すようになる。

 その中で二人だけ残る、もしかしたら四人。私をじっと見守ってくれている。

 はじめての参加にして大舞台で最後に待っていたのは、誰よりも大きい拍手と、どうせ誰にも分からないからと堂々と発した大声での賛辞の言葉だった。

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