第十一章 秋色と遠い日の空

 ガラスごしに見渡せる校庭は一面太陽に照らされていて、少しずつ低くなる朝夕の気温が嘘のようにうららかな温かさが見て取れた。

 青色の空、薄くなったウロコ雲。垣根の穴を擦り抜けるトラ猫は、この辺りでよく見かける子のような気がした。けれど彼がどこか、日の当たる特等席でお昼寝を始めるのを確かめることもできないまま、私は必死になって両足を突っ張って、ピアノの一番近い場所に立っている。

 後奏が終わってみんなが足を閉じて、指揮をしていた先生が、ゆっくりと一度頷く。

「ソプラノさんの音が響きませんね」

 もう少し声が出てもいいかもね、と付け加えて優しく微笑む。

 間違いなく、先生が指摘したのは終盤のソロパートのこと。女声と男声ひとりずつでたった一フレーズだけの。

 伴奏をしている、クラスで一番ピアノの上手い彼は小学生だった頃から有名で、どうやらコンクールでも上位に名前が並ぶくらいの腕前らしい。だから、心配事があるとしたら私自身。

 辺りでは同じ制服に身を包んだクラスメイトたちがそわそわと周囲を見渡している。けれどそれだって私の気にしすぎで――分かっているのに、どうしても顔が上げられない。

 今日は少しだけ、保健室に寄ってから帰ろう。

 先生はそれ以上言わずに、壁の時計を見上げて、もう一度頷いた。

「では、最後に一度通して終わりにしましょう」



「……この、うらぶれた言葉っていうのは、どういう意味なんだろう」

 せめて歌詞の意味を知りたいと眺める自由曲の楽譜は、何度も折りたたんだせいでずいぶんとくたびれ度合いが目立ってきていた。書き込みのおかげで色合いだってカラフル。校内の合唱コンクールまであと二週間もない。音程や歌詞は覚えることが出来たけれど、どうしても追いつかないのが声量だった。

 声の出し方はサリエリ先生に教わったから分かっているはずなのに、どうしても人前で、しかもたった一人でソプラノを歌うなんて、やっぱり私にはまだハードルが高かったんじゃないかと日に日に自信がなくなっていく。

「こんにちは」

 書斎のドアを開ければ、窓辺に乗り出してサリエリ先生が外を眺めている。少しずつ秋の終わりを目指す庭の景色は、夏のみどり色から赤や黄色に変わっていた。垣根の外のポプラもずいぶん葉が減って、風に揺れる輪郭が鮮やかな黄色をまとっている。

「練習は上手く行っているかな」

「なんとか……それで、ごめんなさい。今日は、どこにも寄ってくる時間がなくて」

「いいよ、それくらい。会いに来てくれるだけで充分さ」

 そもそも今日は水曜日でもないのだからね、と約束のおやつもない私でも残念がる様子でもない。

 もしかしたら先生だって、強がっているだけかもしれないけれど。

 明後日は、ちゃんとおやつを忘れないようにしよう。


「それで、今日は課題曲の方を見せてもらえるんだったね」

 もうそわそわとピアノの前に移動している先生の影で気がつく。

 もしかして、おやつがなくてもそれほど落ち込んでいる様子じゃないのは、こっちが楽しみだったという話じゃないだろうか。

 予感はテーブルの上に広げた譜面を眺めている先生の横顔で確実なものになる。

「へえ、なるほど。このサビはパッヘルベルのカノンじゃないか。作曲も作詞もこの国の人間なんだろう? バリエーションめいたことをする音楽家はこの時代にも居るんだねえ」

 しかもスキャットなんだねと、ふわふわ浮きながら腕を組んで熱心に頷いている。

 やっぱり先生って、幽霊なのに案外たくましいというか、なんていうんだっけ、こういうの。

「……ええっと、転んでもただでは起きない?」

「おーい、アーサー、パッヘルベルの『カノン』をかけてくれないか」

 ふいに先生が、誰かの名前を呼びながら書斎のどこかへ向けて声をかけた。まさか私の知らない幽霊友達が?と内心怯えていると、少しの時間を置いて本当に音楽が流れ始めたのだからもう少しで飛び上がる寸前だった。

「あ……本当だ、この曲のサビとすっかり同じだね」

冷静になればなんてことはない、部屋のスピーカーがどこからか音源を拾ってきて流し始めたのが本当のところ。そして、何故だか得意げに胸を張っているサリエリせんせいの向こう、タブレットと並べて置かれているあれは、スマートスピーカーと呼ばれるもの。新しいもの好きのお父さんのおかげで随分前からうちにもあるけれど、私はあまり使ったことがない。

「どうだい、アンナ! 君が来たら教えようと思っていたのを忘れていた。実はやっとカナデにセッテイをしてもらってね。あそこにある小さな箱に話しかけると、代わりにこうして音楽を流したり、明かりを点けたりできるんだ。その中に手紙……いや、メールの機能もあるらしくてね。良かったら、僕の連絡先を教えるから――」

 なぜか窓は開けられないけれど、賢いものだろう、と、いつも通りににこにこと饒舌な様子に、すっかり重たかったはずの喉奥のものがどこかに消えてしまっている。

 思わずつられてくすくす声を上げて笑う。この調子じゃ、どういう仕組みでスピーカーが動いているのかも分かっていないに違いない。もちろん、私だって詳しいわけじゃないけれど。

 本当に、これじゃあどっちが幽霊なのか分からない。

 ポプラの葉がさらさらと、風に揺れて青色の空の中に飛び出していく。

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