第十章 収穫祭の気配
息を弾ませて庭を抜け、息を切らして階段を上がった。
次第に最高気温の下がり始めた外の空気、それでもまだ頬に触れる太陽の光は熱いほどで、見上げた薄藍色の端を細い雲が縁取っている。
「さ、サ、サリエリ先生!」
まだ窓辺で庭を見下ろしていた後姿が振り向いて、一生懸命に息を吸う私の側に駆け寄ってくれる。
「どうしたんだ、そんなに急いで。しかも今日は火曜日だよ」
何か飲み物が出さればいいんだけどと案じてくれるので、それには途切れ途切れに、大丈夫ですと首を振る。
そうだ、とりわけ具合が悪いのでも、困りごとがあったのでもない。あえて言うのなら困りごとのほうが近いけれど――そのまま促されてソファに座り込んで、まだ不安げに覗き込んでくれる先生をじっと見上げた。
「先生、どうしよう! 私、選ばれちゃった」
「選ばれたって何に?」
「しかも、ソロパートまであるんだって!」
「アンナ、落ち着いて。順番に話してごらん」
うながされて、今度こそ深呼吸。だけど一息ついたくらいでは、どうやら私の心臓は落ち着きを取り戻しそうにない。
「選ばれちゃったの! クラスの、合唱コンサートの、パートリーダーに」
「すごいじゃないか! おめでとう!」
「ありがとう! どうしよう!」
パチパチと音のならない拍手をくれる先生の横で、私はオロオロと頭を抱える。
褒められたのは素直に嬉しい。なにせ、選ばれた理由が以前の歌のテストの結果が良かったからだというのだから。あれはサリエリ先生に歌い方を指導してもらって、私だって自信がついて、だから、良い点数が取れたことで一安心、それで全て終わりのはずだった。
なのにまさか、文化祭の合唱コンクールの選抜もかねていたなんて。
「私が選ばれたのは、先生の教え方が良かったからで……でもどうしよう、まさか、授業の中だけじゃなくて全校生徒の前で歌うなんて……」
想像しただけで足元がすうっと寒くなる。ただでさえ、教室の視線さえやけに意識してしまって息苦しいのに、全校生徒どころか先生や保護者までいる大ホール。けれど残念ながら、ソプラノの発表は一人目で、そこからアルトテノールと続いたせいで、次々と拍手が迎え入れるものだから、嫌だともできないとも言えないまま音楽の授業が終わってしまった。
「どうしよう、どうしよう……」
今度は勢いよく立ち上がって、目の前にいた先生が慌てて避けてくれて(それでも少し体が触れたみたいでひやりと涼しかった)、今度は丸テーブルの方に移動してぺたりと頬をつける。
もちろん、どうしようもないことも知っている。
今更辞退したって、クラスの皆に迷惑をかけることも。それとも、はっきりと断ったほうが次のリーダーが早く決まるだろうか?そもそも、パートリーダーって何をすればいいんだろう。
「……あれ、先生?」
はー、と大きくため息をはきながら顔を上げて、いつの間にか書斎がしんと静まり返っているのに気づいた。
確かにさっきまではソファの側にいてくれたのに……そのうちに、何故か廊下で声がする。
「はい? って、先生、どうして外に?」
ドアを開ければ階段の上から三段目に浮いている先生の姿。どうやら書斎から出歩ける距離はそこが限界らしい。
「カナデが居れば手を借りようと思ったんだけど、どうやらもう出かけてしまったみたいだ」
そう言って、手摺の上に静かに腰を下ろして、
「キッチンの冷蔵庫の中を覗いてきてくれるかな」
トレーの上にミルクティと一緒に並べたそれを手に、なんとなくトントンとノックしてしまう。それに付き合ってくれた先生がはいと返事をして、ノブをひねるかわりに扉の側で迎え入れてくれる。
「これでいいの?」
「そうそう。本当は明日まで取っておくつもりだったんだけれど、一日くらい早くっても平気だろう」
そう言ってふわふわとテーブルまで歩いて行って、私を手招きする。
「せっかく来たんだから、ラジオはないけれどおやつの時間にしようじゃないか」
テーブルの上に並べる、マグカップと、プラスチックの蓋がされた半透明のカップ。それをそっと外せば、黄色味の強いなめらかな表面が見える。ふわり、スプーンを入れる前からほろ苦いキャラメルの香り。
だけど、これが普通のプリンでないことは季節柄でも判る気がした。頂上に乗せられたクリームに挿されていた、ハロウィン柄のプレートをフタの上に外す。
「もしかして、カボチャプリン?」
「正解だ」
差し入れた銀色のスプーンに乗る、しっとりと重い手触り。そうそう、と先生が頷いて、肩に手が触れているのを確かめてから口に入れる。
お砂糖よりもカボチャそのものの甘味で整えられた後味が広がる。それから追いかけるようにメイプルシロップの香り。
「やはりお菓子はいいね。季節の移り変わりを体の中にまで伝えてくれる」
またもう一口。それからロイヤルミルクティーで口の中を温めて。今日の紅茶にはお砂糖を入れていないから、キャラメルの味がよく馴染む。
窓辺に零れる日差しの温かさ、時折聞こえる鳥の声。ラジオをつけていないぶん、庭木が揺れる音まで届く気がして、ふっと外を覗き込んだ。見下ろした生垣の側には、何色ものコスモスの束。
ふう、と息を零す。いつの間にか、あんなに泣きだしたかった心さえ静かになっているのに気づいて、にこにこと笑っている先生につられて、またプリンをひとさじ掬った。
「アンナは、歌うことは好きなんだよね」
「うん」
頷けば、ならよかったと胸を撫で下ろして、
「それに僕も、アンナの努力が実を結んだのはとても嬉しいよ」
「私も、先生に教わったことがちゃんと認められて嬉しい」
「おや、それは願ってもない喜びだ」
少し大げさに肩をすくめるものだから、思わず笑ってしまう。
「合唱は参加者皆で作り上げていくものだ。伴奏者も指揮者も、それをまとめる指導者もいる。何も気負うことはない。アンナは、アンナの精一杯の歌を歌えばいい。観客も同じだ」
「同じ?」
「意識するなとは言わない。けれど、緊張する必要はそれこそない。きっと誰もが君の歌声に魅了される。魅了するつもりで堂々と、歌いたいように歌えばいいよ」
ふわり、目の前の椅子に座って、静かに顔を覗き込んでくれる。背中の椅子の輪郭が透けて見えるけれど、先生の声は確かに私の耳に届いている。
視線も、優しさも、いつもの思いやりも。ほろりと甘いプリンと一緒に喉の奥に落ちてくる。
「先生も、本番、聴きに来てくれる?」
「もちろん。カナデに頼んで連れて行ってもらうよ」
それにゆっくりと瞬きを返して、頷いて。
そうか、先生に聴いてもらえるのなら。今度こそ、直接先生に披露できるのなら。観客として見守ってくれるのなら、上手くできるかもしれない。
それはひどく魅力的に思えた。
こうして私を励ましてくれる日々の、恩返しになるのなら。
「だったら少し、頑張ってみようかなあ」
背もたれに背中を預けて、ぐっと背筋を伸ばした。その意気だよと先生が頷いている。
見上げた空には薄い雲がぽつぽつとかかっていて、それをひとつひとつ繋げていくみたいに、のんびりと飛行機雲が伸びていく。
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