第九章 変わり者と移り行く季節のための前奏曲

 まだ頭の中で課題曲がぐるぐる回るくらいには気分が上向きだった。

 先生のおかげで歌のテストも上手く行ったし、億劫だった体育祭も終わったし、暑い夏も過ぎて行ってしばらくは平坦な毎日が続く。今はそれも怖くはなかった。その理由がどれも、祖父の家の書斎にあるんだと思うと不思議な心地がする。

 長袖のワイシャツに指定のベスト。窓からの日差しにちょっとだけ顔をしかめながら廊下を歩いていると、保健室の扉が開いて先生が出てきたところに巡り合った。

「久しぶり、佐渡さん。今から下校?」

 少し赤い髪を後ろでひとつにくくって、白衣の胸ポケットにはオレンジのフレームの眼鏡。他の先生とは見た目も雰囲気も少し違って、彼女なら私も気疲れせずに話すことができる。一年生の頃からという意味では、この学校で一番お世話になっている。

 急いでいるわけではなかったから、祖父の家に寄ってから帰ることなどをぽつぽつ報告する。言われてみれば、夏休みが終わって以降は保健室に寄る回数も少なかったように思う。

 ちょうど廊下に他の誰もいないのも良かった。でなければ、他人の視線が気になって会話どころではなかっただろうから。

「最近は顔色がいいみたいね」

 まだ充分に明るい廊下で、感心したように先生が顔を覗き込んでくれる。

「授業にも出れているみたいだし、夏休み明けからかな? なんだか目が輝いてる」

 そうかな?と、言われてからやっと振り返る気になる。

 確かに最近は、学校に来るのもあまり辛くなくなっている。家を出るのはまだ少し気合がいるけれど、それでも少なくとも毎日学校に来られているのだから大きな変化だ。何回かに一回は、まだ保健室に逃げてしまうけれど。

「これならスイセンしても大丈夫かな」

「? 何をですか?」

「いいえ、なんでも。疲れたら、いつでも遊びにいらっしゃい」

 先生はふわふわと笑って、それから寄り道するなら気をつけて帰りなさいとやんわり指摘してくれる。昇降口に着いて見上げればまだ時間に余裕があった。



 コンビニエンスストアの袋を下げて書斎のドアを開ければ、二人分のおしゃべりの声が耳をかすめた。見渡せば対面のソファに人影がひとつずつ。一方は当然、この書斎に滞在しているサリエリ先生で、もう片方はこの家の留守番訳の従兄、奏くんだった。

「こんにちは、杏奈ちゃん」

 珍しいなと思いながら、先生が譲ってくれたソファにカバンを置く。それに尋ねるより先に、

「今日は講義が休講になったとかで、午後から起きてきてこんな感じだよ」

 その割にはしずかに聞こえないふりをしている。それに服装も、普段と違ってラフな格好、部屋着という感じ。もしかしてサボったんじゃないのかなと思ったけれど、先生は疑問に思っていないらしいので口出しするのはやめておいた。


 柱時計が三時を知らせる。すでに点いていたラジオから、いつものクラシックの番組が流れ始める。この番組を一緒に聞くようになってからやっと三か月。有名な音楽家、というか、よく耳にする音楽家は名前も作品もだいぶ身についてきた気がする……のに、今日の一曲目は今までとは違う雰囲気だった。

 ピアノ曲というのもあるけれど、それだけじゃなくて、なんとなく、耳になじむのに心にそわそわする感覚も同居しているような。けれど聴いたことはある曲だ。そのうちにサリエリ先生が、おや、と眉を上げる。

「サティか。僕の時代より後の、フランスの音楽家だね。つまるところ教えられることは少なそうだ」

 つまり、いつも聴いている『クラシック』より年代が近いのだろう。聞けば二十世紀まで生きた人だというのだから、サリエリ先生と比べても100年の差がある。

「なら俺が代わりに、少しだけ」

 ちょっと芝居がかったふうに咳ばらいをして、手を挙げたのが奏くんだった。

「エリック・サティ。エリック・アルフレッド・レスリ・サティ、だったかな。別名音楽界の異端児。ドビュッシーとかラヴェルとかの、後続の西洋音楽に多大な影響を残した音楽家。有名なのはやっぱり今かかってるジムノペディとか、あとはグノシエンヌ、ジュ・トゥ・ヴーあたりかな」

 シュークリームの袋をぱりぱりと開けながら、タイトルに合わせて短くハミングを聞かせてくれる。確かにどれも聞き覚えがある気がする。

「それと面白いのが、犬のためのぶよぶよとした前奏曲」

「ぶよぶよ?」

 してるの?と聞きかえせば、結構してる、と笑っている。

「犬のための本当にぶよぶよとした前奏曲ってのもあるんだよ。曲のタイトルで評価されたくなかったのかも、なんて言われてる」

「なるほど、皮肉もしくは風刺ということか。さすがは異端児と称されるだけあるね」

 そう言う先生はすでに私の近くをふわふわと浮いている。

「それにしても、ドビュッシーにラヴェルか。三人ともフランスだね。本当に音楽は国境を越えて大成していったんだなあ」

「先生の頃は音楽といえばウィーンですもんね?」

 一言でウィーン……オーストリアといってもイタリアやドイツの音楽家が集められ、集ったとも言えるんだろう。当時の音楽、オペラはイタリア語が一般的だったと教わった。だからイタリア出身のサリエリ先生が重宝された、んじゃなかっただろうか。

「それが今や欧州から遠い島国日本でも手軽に音楽が聴けて、演奏ができるってわけだ」

「その恩恵を一心に受けている一人が、カナデだと思うんだけれどね?」

「いやいや、だからサボりじゃないって」

 ならいいけど、と笑って先生は首をすくめている。なんだ、どうやら最初からお見通しだったみたい。

「まあ僕としては、息抜きが悪いことだとは思わないけれどね」

 奏くんにならって、シュークリームをひとつ取って袋の口を開ける。手のひらの上でもずっしりするほどクリームが詰まっていて、程よい冷たさも心地いい。

 ふと目をやれば向こうのソファで一足先にかじっている、その端からカスタードクリームがぐにゃりと飛び出しているのが見えた。

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