第八章 鮮やかに沈む九月の夕日
「いやあ、今日も暑いね」
窓辺で外を眺めながら先生が言った。
「もうナツヤスミも終わったというのに、これじゃあもう一か月くらい休みじゃないと割に合わないんじゃないかな」
「それは賛成ですけど……」
麦茶を入れたガラスコップをテーブルに置きながら、私は首を傾げる。
「……暑さも感じるんですか」
「いいや? だから正しく言うなら『眩しい』だね」
言いながら、窓辺に乗り出して空を仰ぐ。太陽を遮るように額の上で手の傘を作っている。
「眩しく鮮やかだ。それに、風の流れについては少しだけ分かる。ここはいいね、まるで厭世に向いた避暑地のようで、それこと時間を忘れてしまうようで」
もう随分と慣れてしまったけれど、流暢な日本語を操る横顔は明らかに外国の人のそれ。
その後姿はやはり少し透けている。
先生は幽霊だ。名前をアントニオ・サリエリ。この書斎、というよりは、書斎の棚に飾られているオルゴールに憑いている。小さな金色のピアノ形のそれは、今も世界のどこかを旅行している祖父が以前ヨーロッパで見つけたもの。この家に来てからはクラシックを聴くのを楽しみにしていたらしく、毎週こうして水曜日3時のラジオ番組を一緒に聴くことにしている。
きっと私だけには見えてしまう、この家の、この書斎の中だけの秘密の存在――だと思っていたのに、まさか、この家に下宿中の奏くんですら知っていただなんて思いもしなかった。
「なんだ、それでよそよそしかったのか、アンナは」
「知ってるなら知ってるって、言ってくれても良かったのに」
こそこそしていた自分がとてもまぬけだ。
そういえば私が来る前に窓が開いていたりクーラーがついていたりしていた。あれは書斎に奏くんが入って調整をしていてくれたという意味で、その時に見えているのならなにかしらのコミュニケーションをとっていたとしても不思議じゃない。
「アンナのいる時間にはカナデはいつもいないからね。居ても昼過ぎまで寝ているだろう」
言われてしまえば言い返すこともできないくらい、それが一番大きい。鉢合わせしないから話題にあがらない、ただそれだけの理由だった。
けれどサリエリ先生は、少し言い淀む様子を見せた。
「それに彼はどことなく……なんといえばいいのか、自由奔放な雰囲気やあの笑顔が、ちょっと昔を思い起こさせるというか」
昔? まだ幼い奏くんと会ったことがある、という意味には聞こえなかった。なら、先生自身の昔だろうか。
それはつまり、生きていた頃、ということ?
詳しく聞きたかったけれど、癖で聞けないまま。
「お、今日はハイドンだね」
いつもの水曜日、午後三時。お気に入りのクラシック音楽のラジオ番組が始まって、ガラス容器に盛り付けたあんみつを前にして、これでいいんだと思い直す。
別に、先生のあれもこれもを知りたいわけじゃない。ただ少しだけ、本当はどんな人なんだろうと気になってしまうだけ。
「ハイドンといえば……」
本当はそれこそが私には珍しいのだけれど、晩夏の暑さにゆであがった頭では、まだそれにも気づかない。
黒蜜のたっぷりかかった寒天を掬って口に入れる。ほんのりとレモンの風味がする。
さくらんぼのシロップ漬けを最後に口に入れてしまえば、手元に残るのは今日の分の宿題。夏休みの課題を提出したのだってついこの間だと思っていたのに、授業が始まってしまえばは宿題はすぐに溜まってしまう。
なので、テーブルの上に入れ違いで出すのはノートと教科書。宿題のない教科、ある教科を選別して積み上げる。今はいちばんやる気が必要だった数学を片付け終えたところだった。番組もエンディングに入ってしまって、手持無沙汰になったらしい先生がいつの間にか傍までやってきていたのにも気づかずに。
「おや、これは楽譜かい?」
顔を上げれば、教科書の合間からはみ出していたクリアファイルを眺めている。二つ折りのコピー用紙が一枚入っただけの透明なファイル。引っ張り出せばなるほど確かに、授業に合わせて持ち歩いている合唱用の楽譜だった。
「明日、音楽で歌のテストで……あまり得意じゃないから」
何人かで一緒に歌うテストだけれど、出来栄えが悪いと一人で歌うはめになりかねない。それだけはどうしても避けたかった。
そもそも人前に立つのが苦手だ。どうせならテストだって受けたくない。でなければ録音で提出とかにさせてほしい。
なんて、頭の中でぐるぐる考えては
「アンナ。まだ時間はあるかな?」
じっと譜面を覗き込んでいた先生が、しきりに頷いている。
いつになく真剣な顔。ううん、お菓子に向き合っている先生がいつでも真剣だけれど。
「大丈夫ですけど……」
まだ日も長いし、どうせ他の宿題は済ませてしまった。帰りに図書館に寄るくらいしか予定はない。
けれど、何かあっただろうかと、質問を返すより先にばっちり目が合った。
「なら、僭越ながら僕が見てあげよう」
まばたきをぱちぱちと繰り返す。
それはつまり、先生が、私の合唱のレッスンをしてくれるということで合っているのかな。
先生は、こう見えても得意分野なんだよ、と少し照れながら胸を張っている。
楽譜と筆記用具だけを持って、促されるままピアノの椅子に移動する。
書斎の片隅のそれは、いつも目に入っていながらも触るのは初めてだった。恐る恐る鍵盤のフタを開いて、赤いカバーを外した。年季は入っているけれど、よく手入れされているように見える。確かおばあちゃんはピアノが得意だったっけ。それに対して私はというと、音符は読めるけれど片手で弾くのがやっとだった。
先生は、本当は僕が弾ければいいんだけれど、と断ってから、
「パートはどれ?」
「ソプラノです」
私の返事を受けて、譜面台に置いた楽譜を改めて見る。
「ホ長調、テンポは速めだね。162か、一応メトロノームを出しておこうか」
メトロノームはちゃんとピアノの傍の棚にあった。椅子に戻る頃には、先生はハミングで主線を口ずさんでいた。それから二度頷く。
「カンジはまだ苦手でね。歌詞を教えてくれるかい」
テストの範囲は一番だけ。そんなに長くはないので、指で歌詞を追いかけながら読み上げる。
それを終えれば、「念のため二番も」と、言われるがままに伝える。また数度、飲み込むように頷いている。
「なるほど、これはmostroの歌なんだね。ならば」
すう、と息を吸う音が聞こえた気がした。ただの気のせいだったかもしれない。幽霊でも肺はあるんだろうか、なんて疑問に思う暇もなかった。
その理由は、耳に届いた軽やかな歌声。
「わあ……」
ひとりでに溜息が出る。だって、スムーズな言葉運びで文脈のつながりを丁寧に追いながら、
「“出かけよう砂漠すてて 愛と海のあるところ”」
伴奏もない中の、私の知っている歌、私の知っている歌詞。つまり淀みのない日本語で、聞き洩らす心配もない安定した発音。
いつの間にか一番の歌詞が終わっている。それでやっと、すっかり聞き惚れていたのに気がついた。
「こんな感じかな」
思わず拍手をすれば、くすぐったそうにお辞儀の真似をする。
歌い方の丁寧さだけじゃない、言葉の意味に沿った抑揚、それから多分、他のパートの見せ場に合わせた強弱。
「本当に得意分野なんですね」
教えるのはもっと得意だから安心して、なんて言って笑っている。
「じゃあ注意点を言うから、書き込んでくれるかな」
指先が楽譜の上に下りてきて、シャープペンシルの頭を二回ノックする。
ここは気持ち弱く、こっちはゆったりと、等々、線やマルで囲みながら。
「とくにここ、この小節はソプラノが主線で見せ場だから、他のパートに埋もれてしまわないように」
その中でもとりわけ外せないのは二重丸にしておいた。
それほど細かな指示ではなかったけれど、まっさらだった楽譜に表情がついたようだった。
「うん、いいね。じゃあさっそく、フレーズを区切って歌ってみようか」
その言葉に思わず背筋を正す。いよいよレッスンの本格開始、という気分がする。
メロディはなんとか覚えていた。だから恐る恐るながらも、ゆっくり口を開く。
言われた通りドの鍵盤を鳴らして、一音目に目星をつけて、同じ高さから。
始めてみれば不思議なもので、恥ずかしさで声が出ないかと思ったのにそうでもない。何故だろうと首を傾げかけて――そうか、最初に先生の歌を聴いたからだ。
「“海が見たい 人を愛したい”」
Bメロにさしかかる頃にもなれば、先生が満足げに頷いてくれた。
「なんだ、綺麗な歌声じゃないか」
「声出すの、あまり得意じゃなくて。あと、人の前に立つのも」
「じゃあまずは歌い方からだね」
口調も表情もいつものように優しい。けれど両目だけは、どこまでも真剣に見えた。
ああ、本当に先生だった――ううん、今も『先生』なんだなあ。
熱が入ったのか単純に楽しくなったのか、結局一番どころか最後まで通して練習した。そのうちに先生が男声パートを一緒に歌ってくれて、挙句別のページに載っていたポップス曲や『天は御神の栄光を語り』まで手を伸ばしてしまって、窓の外に目をやればすっかり空が赤くなっていた。
先生にせいいっぱいお礼を言って、忘れ物がないようにねと心配されながら手を振って飛び出した。家に着くまではなんとか街灯なしで辺りが見えそうだ。
ちょうどホームに入ってきた電車に乗る。運よく座席に座ることが出来て、窓の向こうの鮮やかな夕焼けを眺める。
――真っ赤な太陽、沈む砂漠に。
あの歌の一番は夕暮れから始まっていた。ついつい歌いたくなってしまうけれど、電車の中なのだからもちろん大人しく口と一緒に目蓋を閉じてみる。
そういえば、あの太陽はさくらんぼにも似ているな、と思った。
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