第七章 晩夏にとけるフラッペ
シャワーホースで水を撒けば、レンガで整えられた花壇の上に虹がかかった。フヨウの花もトケイソウも太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。空にはまだ多くの入道雲が詰み上がっているけれど八月のカレンダーはもう残り少なくなっていって、経過を見守るしかない毎日に少しずつ憂鬱が増えていく。
それを言い訳にして、夏休みの課題の残りを抱えて足しげく祖父の家に通っている。今日はいつもの約束の日ではないから、奏くんの代わりに庭の花の水やり当番をしている。
「目にも涼しげだねぇ」
木の下で揺れるように庭を眺めているのは、装いを夏仕様にしたサリエリ先生。木漏れ日の中でいよいよ霞んで消えてしまいそうに見えるけれど、相変わらず幽霊とは思えない快活な笑みを浮かべている。
いつもの書斎から出ている理由は、私が窓辺に置いたオルゴールのおかげだった。
元々は書斎の飾り棚に大切に置いてあった、金色のピアノ形のオルゴール。先生自身はこれに憑いて(?)いるのでこうして持ち歩けば場所を移動することができる。両手でやっと持ち上げられる大きさではさすがに落としたり傷つけたりしてしまうのが怖くて、一階のキッチンの窓の傍にガラスを閉めた状態で置いたのだった。
蛇口を絞ればゆるゆると水の勢いが弱くなっていく。ホースをくるくると丸めて、軒先に元通りにする。
「そろそろ戻りましょうか。それと、キッチンにかき氷機があったので」
「あれを使うのかい?」
言い終えるまえに、先生の目の輝きが変わる。足は透けているけれど、勢いよく立ち上がったのが分かる。
けれどしかたない。かき氷も同じ本に載っていて、同じものがこの家でも作れると教えたときの先生の喜びようといったら。
それに私だって、こんなに暑い日のかき氷はちょっとだけ気分があがる。本当にちょっとだけ、だけれど。
「シロップも練乳も持ってきたのでバッチリです」
だから、宿題のつづきに手をつけるのはその後にしよう。
昨日のうちから作っておいた大きな氷の塊を冷凍庫から取り出して、かき氷機にセットする。あとはぐるぐるとレバーを回すだけ。
家庭用のちいさな手動式の機械なので、甘味処なので出されるふわふわのかき氷とまではいかない。それでもさらさらと落ちてくる氷の粒を、先生は興味津々といった様子で眺めていた。シロップをかけて、フルーツ缶を開けてトッピング。最後に上から練乳をしぼって完成。
「なるほどねえ、氷そのものを掻いてスイーツにするとは」
「大昔は天然の氷を使った貴族の食べ物だったそうですよ」
「この間の和菓子の本かい。あれは良い。日本のお菓子は季節を表したものが多いね。時の移ろいを大切にする文化というのも素晴らしい」
最近は書斎で夏休みの課題をするのが日課になっていた。図書館に寄ったついでに借りてきた本を一緒に見たのだった。先生は、喋るのはともかく日本語の読み書きはできないらしいので、絵や写真入りのものを眺めることが多い。
とりわけお菓子が好きなのは知っていたので、自然とそういう本を選んで借りることが増えていた。
「気に入ってもらえたようで良かった。また良さそうな本があったら借りてきますね」
うちの近所にも老舗の和菓子屋さんがある。ショーケースに並んだ色とりどりのどれを買うか選ぶのは楽しいし、何度同じお店に通っても飽きることがない。ひまわりや金魚の寒天が沈んだゼリーは、クーラーの利いた室内に居ても夏を感じられるもの。
いわば今日のかき氷も、そのうちの一つと言えるだろうか。
少し考えてから、オルゴール、かき氷の順番で運ぶことにして、先にオルゴールを抱えてキッチンと書斎を行き来した。階段を昇ればすぐの場所にあるから往復するのはどうってことはない。それでもかき氷をトレーに乗せて戻ってきた頃には、ソファの近くでサリエリ先生がなにか困った様子をさせていた。
「ああ、アンナ。きみのカバンが倒れてしまって」
中に壊れ物はないかい、と気遣ってくれるのが嬉しいのと同時に、少しだけひやりとする。
見ればソファの上に置いたはずのトートバッグが、クッションと一緒に床に落ちている。きっと重みで落ちたのだろうからそれ自体は平気なのだけれど、そのカバンの中身までは飛び出していなかったことをこっそりと安心する。
「財布と本くらいしか入っていないから大丈夫です」
「それにしても、重そうなカバンだね。全部宿題なのかい?」
「今日は帰りに図書館に寄る予定だったから」
宿題や筆記用具は最初にテーブルの上に出していたから本当にそれだけ、ただし本は分厚いものが二冊。さっき言った和菓子事典の他にも別の事典を借りてきていた。しかもそっちも宿題とは関係なくて、実を言えば期限つきの宿題よりも手を焼いている『課題』のひとつだった。
ちょうど夏休みに入る頃から気になって調べているもの。
そう、つまりは、いまこうして目の前にいる――。
「サリエリ?」
薬味を箸でつまみあげながら、お父さんが私の言葉を繰り返した。口を挟んだのはお母さんのほうで、いつだったかの私の話を覚えていたようで、
「前も言ってたね、それ」
宿題なの?という質問には、まあそんな感じ、と曖昧にぼやかした。それで二人とも納得したらしい。まさか、その人がおじいちゃんの家にいる、だなんて正直に言ったからと言って冗談だと思われただろうけれど。
「そういえば、昔そういう映画がなかったっけ?」
「ああ、あれか、モーツァルトの。タイトルは、確か」
前聞いたときとは違って大きな収穫に思えた。どうやら聞いたところ主役ではないらしいけれど、何か賞も取ったよねと、私をよそに二人で盛り上がっている。結構有名な映画なんだろうか。
「でも、杏奈が生まれるより前の作品だよ。興味があるならレンタルショップに行ってみたら?」
そういうわけで、次に頼るべきは図書館というよりはレンタルショップになりそう。
あいにく家の近くにはないので、そのうち学校の辺りに行った頃にでも探してみることにしようと、今はまだそれらしい音楽関連の事典や伝記を探している。
まさか本当に、こんなにも探しにくいなんて思わなかった。
ううん、簡単な肩書は出てくる。それこそ音楽事典で先生の名前を引けば、簡単ではあるけれど見つけることはできるのだ。
でも、どんな曲を作ったとか、どういう生涯をすごしたとか、そういった詳しい話が出てこない。
さすがに外国語の本を借りたって読めるはずがないし、今度はもう少し、
「杏奈ちゃん」
改札を出たところで、聞き覚えのある声が私を呼んで顔を上げる。いつものように親しげに手を振ってくれるものだから、ちょっとだけ戸惑いながらも小さく手を振った。
おじいちゃんの家を宿舎代わりにしている奏くんだ。何個か行った先の駅のそばにある音楽科のある大学に通っている学生で、親戚のお兄さん。授業だけでなくサークル活動やバイトで毎日忙しそうにしていて、あの家に通ってもあまり顔を合わせることがなかった。
「こんにちは。今帰りなの?」
「先生のとこに課題を出しに行ってきただけだから」
そういえば今日は楽器ケースを持っていないな、と納得しながら、先生という響きに少しだけどきりとする。
家までの道は歩いて行ける距離だから、そのまま並んで向かうことになった。途中で暑さに負けないように、と言いながら駅の外にあった自動販売機でサイダーをおごってもらった。
「まだ夏休みなんだっけ? 杏奈ちゃんは進んでるの、宿題」
「なんとか終わりそうです」
「凄いなー。俺、課題は最後の方にまとめてやるタイプだったから、今頃だったら手もつけてないよ」
「それはそれですごいね」
それは呆れてるほうだな、とけらけらと笑う。奏くんはこうして、まだ子供の私にも対等に気兼ねなく話しかけてくれるから少しだけ気が楽だった。
「それ、音楽用語事典? そんな難しい宿題もあるんだ」
「これは……ちょっと調べものをしていて」
のんびり歩いていたおかげで、目の前で横断歩道の信号が赤色になる。ペットボトルの蓋を捩じってサイダーを飲む従兄の様子を見ていて、せっかくだから聞いてみよう、と口を開いた。
「そうだ、奏くんはこの音楽家のこと詳しい?」
どれどれ、と乗り気だったので、立ち止まっているうちにと付箋を貼っていたページを開いて見せる。
すると奏くんは何度か頷いて、
「へえ、アントーニオ・サリエーリ。なかなかに渋いね」
「知ってるんですか?」
「俺を何だと思ってるの、単位がやばめでも音大生だよ」
それくらいなら知ってるよ、とにこりと笑った。
「っていってもたぶん事典にある以上のことまでは詳しくないけど。アントニオ・サリエリ。十八~十九世紀に活躍した、ヴェネツィア共和国、今でいうイタリアのレニャーゴ生まれの音楽家。ウィーンのハプスブルク家に仕えイタリア・オペラ部門を担当した宮廷楽長。ベートーヴェンやシューベルトなどの後の名音楽家を弟子に持ったこともあり、指導者としても名高い。モーツァルトとの確執があったとかなかったとかで特に有名になっている」
まだ説明の途中から、さすがに詳しいなぁと感心する。それに、この事典に書いてあった数行よりも詳しくて完結だ。途中でもう信号が青になってしまって、仕方なくそのまま歩き出そうとする。
その爪先を戸惑わせたのは、そこに続いた奏くんの次の言葉だった。
「っていう、うちの書斎にいる人でしょ」
すまし顔でそう言い残して、先に一歩を踏み出した。
おかげで私は、詳しいですね、なんていう感想を言い損ねてしまって、おまけに歩き出すのも忘れてしまって。
「し――知ってたんですか!?」
代わりに、交差点の途中だというのも忘れて声をあげてしまった。
「そりゃあね。一応あの家の留守番なんで」
きっと今も、書斎の窓辺から庭を見下ろしているだろう先生の姿を思い浮かべる。
いや、でも、だって、私だって幽霊の存在を信じている訳じゃないし、そもそももう先生が幽霊かどうかも気にしなくなってしまったけれど。
それでも、そうか、さすがに同じ家に住んでいる彼が全然知らないなんて勝手に思い込んでいたけれど。
「まあ、いるからって何をするでもないし、たまに意見貰ったりもして」
なんてなんともなく頷いてみせる。
置いて行かれそうになって、今度こそ追いつこうと慌てて走り出す。
そんなことをしなくても、奏くんは数歩先で立ち止まって待ってくれていた。
「彼のこともだけど、暫くは忙しくて頼みっぱなしだけどさ、どうしても用事があって来れないときは言ってね」
こんなことなら、もっと早く相談すればよかった、かもしれない。
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