第六章 八月十五日のキャラメリゼ

 締め切った窓のおかげで、過ごしやすい空間も静かな時間も良く保たれていた。

 決して狭くはない室内は歩き回るにしても人二人がすれ違うのがやっとで、見渡しても他の人の気配を伺うのは難しい。目に入るのは私の身長の二倍はある本棚ばかり。その上に刻まれている文字を手掛かりに、目的の場所を探した。

 出入口のカウンターに一人、パーテーションで区切られた机にも数名、書架の間には何人がいるのか。少なくとも今の所、同じ学年らしき生徒には会っていない。

 静かな場所は好きだ。人目を気にしなくていい場所も好きだ。だから学校の中では数少ない、ゆっくりと息の出来る場所だった。

 探している、といってもただの気紛れでしかない。そもそも、本当に調べるのならおじいちゃんの書斎の方が揃っていそうだ。


 とは思ったものの、それにしたって全然見つからない。

 モーツァルトやベートーヴェンなら伝記だって難しそうな本だってたくさんあるのに、肝心の先生の名前がタイトルに出ているものさえ見当たらなかった。


(やっぱり学校の図書室じゃだめか……)


『僕のことは気にせずに。おそらく、このラジオで取り上げられることはないだろうからね』

 まさか現存していないという意味なのか、まさか実在していないはずは、ないと思うのだけれど。

 苦し紛れに手を伸ばしたのは一番分厚い音楽事典だった。サのページを頭から探して……アの行だからすぐに見つかった。

(良かった、ちゃんといた)

 そこには名前と生い立ちと、短く纏められた彼の功績。それから生没年が目に入って、思わず声を上げてしまう。

「あ」


 慌てて口を閉じる。歩き回る足音さえ響く静けさの中ではその一声さえ響いたように感じた。

 もう一度、見間違いでないことを確かめる。気にかかったのは特に生まれた日のほう。

 今日は八月十三日で月曜日。つまり先生の誕生日は今週末の十八日。

 当然と言えば当然には違いないけれど、そうか、先生にだって誕生日はあるんだ。

 図書館を後にして、駅までの道を歩きながら考える。

 少し早いけれど、明後日はケーキを焼いていこうかな、なんて、そこまで来てふと冷静になる。


「でも……幽霊の誕生日を祝うってどうなんだろう」



 そうこうしているうちに約束の水曜日はすぐに来てしまって、今日の手土産に限ってはなんのロゴも入っていないケーキの箱を下げてきたのだった。

 そう、気にはなったものの結局作ってきてしまった。だって悩むには少し時間がなさすぎた。

 これが一カ月、ううん一週間でもいいから前だったなら違ったのかもしれないけれど。

「どうしたんだ、アンナ? なんだか顔色が」

 そわそわした気分を隠すこともできなかったらしく、顔を合わせて間もなく先生はそう尋ねてきた。

「青い?」

「いや、高揚しているような。緊張?」

「そういうことなら見逃してください」

 もちろん、具合が悪いのでも熱があるのでもない。外は相変わらず夏真っ只中だから、普段よりは平熱が高いかもしれないけれど、それだって今日は関係がない。

 ちなみに今日のサリエリ先生は薄手のスラックスに半袖のワイシャツ姿だ。この間指摘した通り、だいぶ夏らしい出で立ち。

 これも見ている私の気分の問題で本当は余計なことなのかもしれないけれど、やっぱり何事も形から入るのが大事。だから、私がケーキを焼いてきたことも間違いじゃない、はず。

「じゃあ先に出しちゃいますけど」

 まだ二時半をやっとすぎたばかりの柱時計を余所に、テーブルの上で白いケーキの箱を開いた。

 中からは待ち侘びたようにバターとお砂糖の甘い香りが溢れてくる。

 まだ切り分ける前のホールのケーキ。それが目に入った途端、先生の目の輝きが鋭くなった。

「洋梨のタルト・タタン風です。慌てて作ったから、あくまで風ですけど」

「作った? これを? きみが?」

 もうほとんど表面に指が触れるくらいの近さで(万が一指が届いても触れることはない)、それから何故か反対に距離を取って、何かを真剣に悩んでいるように見えた。

 ただし、その視線は一瞬もタルトから離れる様子はない。

「ちょっと早いですけど、その、お誕生日だって知って。うちでは誕生日には手作りのケーキを出すのが習慣で……聞いてます?」

 わざと声を大きくする。やっと先生の顔が上がって、私が同じ部屋に居ることを思い出してくれたらしい。

「僕の?」

「違いました? その、本で見たんですけど」

「いや、違わないよ! ありがとう!」

 やっと満面の笑みがみられて、思わずほっと息を吐いた。

 良かった。どちらにしろ、手作りのお菓子ひとつでこんなに喜んでくれるのなら無駄にはならない。それどころか。

「いや、驚いた。そうか、アンナはお菓子作りが得意なのか」

「得意というか、その、好きというか」

 なるほどなるほど、と腕を組んで顎をさすっている。これは、喜んでくれたのだろうかと段々不安になってくる……ところを、先生もやっと気を取り直したらしく、ふわふわとテーブルの上を漂い始める。

 ううん、これは反対に、いつもよりテンションが高いように見える。

「いいねぇ、素晴らしい。つまり食べたいものを食べたいときに準備出来るということだ。いや、無論レシピや食材の準備は必要だろうけれど。これは今後も期待できそうだね、なんて、少し図々しいかな?」

「いえ、私で良ければまた何か作ってきます」

 次はハロウィンか、クリスマスか。季節のイベントごとに準備するのもいいかもしれない。

 答えれば、先生は満足そうに何度も頷いた。

 それから素早く席まで下りてきて、

「じゃあ、さっそくいただこうか」

 揺るぎなく迷いもない、むしろそれが正しいと全力で表すような。ぼんやりしている私など一瞬で丸め込んでしまうはっきりした口調で。

 それでもかろうじて、時計の差す時間を理由に、

「え、まだ三時じゃないですけど」

「でもこれは僕のためのタルトなんだろう?」

 じゃあ決定権は僕にあるはずだ、と今日一番の微笑みを浮かべている。

 確かに――もともとラジオを聴くのとおやつを食べるのは別々の約束だ。それにこんなに喜んでくれているのなら、わざわざ水を差す必要だってない。

 つまりは結局のところ、無事サリエリ先生に丸め込まれている。



 切り分けるのを真剣な眼差しで見守りながら、先生は感心したように首を傾げた。

「タルト・タタンというとりんごで作るのが代表的かなと覚えているんだけど」

「さすがにりんごはまだ時期じゃなかったので。洋梨はコンポートじゃなくてキャラメリゼにしてみました」

 ふむふむと頷きながら、胸いっぱいに焼き菓子の香りを吸い込んでいるように見える。

 幽霊でも匂いって分かるんだろうか。

 残念なことに味覚はないらしいので、いつものように食べるときは私の出番。感覚を共有するのならどこに触れてもいいらしいけれど、手では食べるときに困ってしまうので肩に手を置いてもらう。

 少し大きめに切れるようにフォークを入れる。カットした洋梨の半分と、生地の中もしっかり火が通っている。

 味見はしたから出来栄えは問題ないと思うけれど、あとは先生の口に合うかどうかだった。

 ちょっとだけ緊張しながら口に入れる。舌に載るよりも先に、バターとキャラメルの香りが喉の奥まで拡がっていく。

「苦味を含んだ甘さがちょうどいい。タルト生地も最初から作ったのかい」

「これはホットケーキミックスで……ええっと、お菓子用のミックス粉が市販されているんです」

 ケーキやタルトだけじゃなくクッキーももちろんホットケーキも焼けるものだ、と教えてあげると、

「なるほど、そんな素晴らしいものが市場に」

 なにやら不思議な感動の仕方をしている。なんだか先生のお菓子に対する世間的評価が高くなっている気がする。

 とはいえ、今日のタルトタタン風も上手く出来ていて安心する。

 ちょっと冷たいのがもったいないけれど、夏だしこれくらいがちょうどいいかな。

 りんごの季節になったらキッチンを借りてここで焼くのもいいかもしれない。それならきっと先生も楽しんでくれるだろう。

 結局取り分けたお皿の上は三十分もしないうちになくなってしまって、奏くんに取っておくぶんを箱にしまいながら、もう少しだけ、とせがまれてまたナイフを手にする。

 今度は紅茶を入れて、さながらお茶の時間のやり直し。

 そのうちにやっと時計が音を立てて、合わせていたラジオから番組のオープニングが流れ始める。


「さて、今日は誰の曲かな?」

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