第五章 邂逅と望郷と神童
窓の外の空は青く入道雲は高く、日差しは強い。八月の午後なんて日中で一番気温が上がる時間で、家の中だって冷房があるからなんとかヒトとしての活動を続けられているようなもの。
それでも服を着替えて髪を梳かして、冷蔵庫で冷やしていた和菓子の箱を袋に入れて、少し気合を入れてから玄関で靴を履いた。その途中、通りかかったらしいママが、
「出掛けるの?」
「今日は、水曜日だから」
答えただけで振り返らなかったからどういう顔をしていたかは分からないけれど、短く、そう、と頷いたようだった。
靴紐を直して立ち上がる。いってきますを言うのを迷って、代わりにドアに手をかける前に振り返って、
「あ、そうだ。お母さんはサリエリって知ってる?」
まだそこに立っていた母は少しだけ驚いたように首を傾げた。
「サリエリ? なあに、お菓子?」
「人の名前。音楽家らしいんだけど」
「知らないわねぇ。最近の人? それとも昔の人?」
それならおじいちゃんに聞いてみなさい、と、ここまで予想通りの反応が返ってくる。
辿り着いた書斎は窓辺でレースカーテンが揺れていて、裏の林から届く風が室内を涼やかに保っていた。
そのカーテンの合間に人の影がある。出窓に腰掛けるようにしていつも外を眺めている、けれど一週間ぶりに会った彼は随分と印象が違った。
「こんにちは。どうしたんですか、その恰好」
挨拶もそこそこに、振り向いたのはやはりサリエリ先生。なのに今日は普段の重たそうな背広姿ではなくて、ジーンズにTシャツの重ね着、おまけに首に銀のアクセサリー。
「この間、暑そうだと言われたからね。どうかな?」
立ち上がって堂々と腰に手を当てている。
そういえばそんなことも言ったような。それよりも、幽霊が着替えるという可能性というか必要性というか、そういうものがあるとは思いもしなかったので驚くしかない。それに加えて、
「今度は少し若すぎませんか? なんとなく――」
なんとなく、どこかで見覚えのあるセンスのような、と先生がいつも外を眺めていることに思い至った。そして、この屋敷の現在の住人である従兄のことも。
「もしかして、奏くんの服見てました?」
いとも簡単に、窓辺で外を見ている先生の姿が思い浮かんだ。
他に参考にしようがないからねえ、なんて言って首を傾げて。なるほど、確かに祖父母が不在では他に来客もいないのだろう。
何せ向こうは大学生だ。先生の年齢が何歳かは知らないけれど(そもそも幽霊なので外見年齢でしかないけれど)少なくとも二十歳前後ということはないはず。
「せっかくなので、今度何か雑誌でも持ってきますね」
ファッション誌でなくとも、人が沢山乗っているものなら現代の服装の雰囲気も掴めるだろうから。
似合ってないわけではないですけど、と言い訳をすれば、先生は何か思い至ったらしく、
「でも、きみもだろう、アンナ」
「わたし?」
「学生なら制服があると思ったけれど、普段着で来ることも多いじゃないか」
だから似たようなものだ。なんて、にやりと笑ったりして。
「今は、夏だから学校は休みなの」
あまり突っかかった言い方にならないように気を付けたけれど、上手くいったかな。
「これ、前にも聴いたことがあるような?」
三時のラジオから流れ始めたフレーズに首を傾ける。弾むテンポの明るい曲だ。例えばテレビや街角でという意味じゃなく、同じこの番組で聴いたことがある気がした。
いつだったか。そうだ、初めてサリエリ先生に会ったときだったように思う。聞き返せば先生も頷いて、
「そう、そうだったね」
そう言って、静かに目を閉じている。
何かを噛み締めるようにして。顔は以前の私の慌てぶりを思い出しているようではなかった。
「これはモーツァルトの曲だ。題名はアイネ・クライネ・ナハトムジーク。日本語だと小さな夜の曲と訳されるかな。彼のことは知っているんだったか」
「ええと、名前くらいは」
「まあ、結び付かなくともあちこちで耳にしているんだろう。それくらい世界的にも馴染みのある音楽家だ。それこそ、僕の解説なんていらないくらいにね」
再び目蓋を上げた先生の表情はいつものように穏やかだった。それでも、なんだか表現しようのない違いがある気がしてそっと目を背けた。単に気付かなかっただけみたいに、いつもと何も変わらない午後の振りをする。
「でも、聞きたいです。同じ時期に生きた人なんですよね?」
そう、いつもの先生なら、そうやって自分の見てきたものを起点にして教えてくれるはずだ。
顔を上げた先生はもう調子を取り戻したようだった。口元にふわりとくすぐったげな微笑を浮かべている。
「そうだよ。同じ時代、同じ国に生きた。なんだかんだと付き合いも多かった」
「もしかして、友達だったとか?」
「どうかなぁ。仕事仲間で同志ではあったけれど」
うーん、と鼻の頭を指先で掻いて、それでも言いにくいようではない。
「粗削りで派手ではあったけれど、いい曲を作る音楽家だった。惜しいのは、時代ではなく自分の創りたいままに曲を生み出したことか。作曲だけじゃなくピアノの腕も随一でね。皇帝陛下も、彼のことは大層目をかけていた。もう少し運命の針が遅かったら、彼も宮廷の上部に席があったことだろう」
「へえ、そんなに」
懐かしげに聞かせてくれる様子に相槌を打つ。
それからわずかに眉根を寄せて、
「しかしね、浪費癖が頂けない。性格も気紛れで、そのまま作風にも表れていた。まるで才能を全て音楽に回したようだった。今考えても長生きできるような男じゃなかった。勿体ないことだ」
他にも、共に喜劇の競作をしたこと、ある歌姫の快気祝いの共作のこと。手短に、簡潔に聞かせてくれながらも、口振りは隠しきれず懐かしそうに。
見ているだけで伝わってくる。濁しはしたけれど、やっぱり友達だったんだろうな。
「今の曲も聴いたことがある気がします」
洋菓子店のロゴが入った紙袋を開きながら、いつまでも耳に残るそれを先生に報告する。
「『交響曲第25番』。一つ前のは『フィガロの結婚』の序曲。あれを聴いたときはやられた!と思ったね」
モーツァルトの楽曲はやっぱり普段のラインナップ以上に聞き覚えがある。先生が言ったように、世界的に親しまれているというのはこういうことなのだろう。
「これは、『魔笛』の『夜の女王のアリア』」
「どれもなんというか、今の時代に聴いても褪せない感じですね。現代の私が聴いても飽きないっていうか」
「そうだね、転寝もしないようだし」
「そんなに頻繁にはしてないですよ」
たぶんだけど。
それに本当に今日に限っては眠くなる暇がない。どれを聴いても表情の違うメロディ、曲によって様変わりする雰囲気。確かにモーツァルトの作品だというのは判るのだけれど、それは決して慣れや停滞ではない。
しかもこれらを『クラシック』と呼ぶのはどうも変な感じだ。
そういえば、先生の曲はどうなんだろう。
宮廷の音楽家だったというのだから、一曲も作らなかったなんてことはあり得ないだろう。例えばさっき言っていた共作のカンタータのように。
私が知っているのはあのオルゴールの曲ひとつ。そういえばタイトルも教えてもらっていない。
「僕のことは気にせずに。おそらく、このラジオで取り上げられることはないだろうからね」
それじゃあ、あまり有名ではないんだろうか。
でもちらほらと聞いた先生の話を繋ぎ合わせると、随分地位の高い役職だったように聞こえるんだけれど。
「おや、懐かしいね。クグロフか」
テーブルの上に広げたお菓子を見下ろして、先生が声を上げる。
今日は帽子型の焼き菓子だ。形はシフォンケーキのそれに似ているけれど、波型の紋様になっているのと、普通よりは少し小さい。切り分けて食べるものを一人分サイズに焼き上げたもの。
「食べたことがあるんですね」
「マリー・アントワネット皇女、いや王妃が好まれていてね。それでフランスに広がったという話もある。ちなみにラム酒を入れたものをアリ・ババという。あちらはポーランド王の――」
ところで先生は、音楽のことだけでなくこうしてお菓子のことでも饒舌になる。
音楽のことも時折お菓子のことも、私の知らない話まで次々と。本人的には抑えているつもりなのかもしれないけれど、語る両目が輝いているようにも見える。
「先生って、もしかしなくても甘いもの好きですよね」
「なんだ、ばれちゃったか」
そう言ってくすぐったそうに肩を竦める。
あれでバレてないの思っていたのなら、実は結構隙がある性格なのかもしれない。
「ともあれ、隠さなくていいのは良いことだ。砂糖はたっぷりかけてくれよ」
「実際食べるのは私なんですけどね」
言いながらも封を切って、さらさらとパウダーシュガーをふりかけた。
「しかし、アンナの味覚は鋭いからね。お陰で僕にまでちゃんと味が届く」
「そういうの、違いあるんですか」
「あるんだよ、これが。シュウのときより感覚二倍は美味しい」
それは暗に食い意地がはっている、というのではないだろうかと少し気になりはしたものの、先生が満足そうだったので突くのはやめておいた。
目の前にお菓子と紅茶を並べて、椅子に座った私の肩に先生の手が触れる。夏場の今でこそひやりと心地良く感じるけれど、まだ慣れたようではない。
普通に会話をして笑ってを繰り返す先生が、生きた人間ではないという重大な証拠。
フォークと拾い上げて、褐色の側面に差し入れる、頭の少し上で先生の声がする。
「この曲は……」
「サリエリ先生?」
静かに切り替わった選曲に耳を傾けて、どことなく呆然としたその言葉。
見上げれば、真っ直ぐにラジオを見詰めて、勿論、そこに何があるわけでもないというのは、先生自身が良く知っているようだった。
「いいや。とても懐かしい曲だと思っただけだ。題名は、『おお聖なる絆よ』」
それきり黙ったまま、懐かしそうに目を細めているのは、このクグロフの甘さだけではないのだろうなと、口にしないままぼんやり考えた。
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