第四章 日差しと飛翔とペパーミント

 すぐ側のどこかでじりじり蝉が鳴いている。駆け足というより走るように急いでいるから街路樹の陰に入っても涼しさを感じる暇がない。指定のサマーニットが暑い、チェック柄のスカートが暑い。衣替えは過ぎているのだからせめて大人しく半袖と白のソックスにすれば賢かったのに、と頭の中で今朝の自分に文句を言う。

 それでもなんとか門を潜って、階段を駆け上って、息を切らしながら書斎のドアを開けた。


「おはようございます!」

 勢いで言ってしまってしてから、

「じゃなかった、こんにちは。遅くなってごめんなさい」

 部屋に飛び込むと、窓辺に腰掛けていた先生が振り向いた。私が視界に入るなりにこりと微笑む。

「はい、こんにちは。大丈夫だよ、三時まではまだ五分ある。でも、珍しいね?」

「今日は学校から直接来たから……おやつもコンビニなんだけどいい?」

「仕方ないなあ。許してあげよう」

 息を整えるのもそっちのけで、クーラーとラジオを点ける。先生は五分と言ってくれたけど、ラジオはちょうどオープニングが始まった所だった。

 テーブルまでが遠くて、とりあえずソファに座り込む。いつの間にかサリエリ先生がふわふわとやってきて顔を覗き込んでいる。普段は『生きていた頃の癖』らしく普通に床を歩き椅子に座っているけれど、その気になればこうして空中に漂うこともできるらしい。

「はい、深呼吸。吸って、吐いてー」

「すーはー」

「落ち着いた?」

「はい。少しは」

 大きく息を吐いてから、足元で倒れていたカバンをソファの足に立てかける。中からコンビニの袋を引っ張り出した。無事にまだ冷たいままだ。

 部屋の隅には電気ポッドを置いてもらうことにしたので、飲み物の準備はだいぶ楽なもの。サイフォンのスイッチを入れて、既にラジオに聴き入る体勢についている先生に倣って席に着く。


「今日はヨハン・ゼバスティアン・バッハだ。この国では音楽の父として親しまれているドイツの音楽家だ。一族の中でとりわけ功績のある彼を大バッハと呼び分けることもあるね」

「なんだか、教会で聴けそうな神聖な雰囲気ですね」

「正解だ。この曲は『主よ、人の望みの喜びよ』。教会カンタータ『心と口と行いと生活で』の終曲コラール

 ちなみに教会カンタータというのはその名の通り、礼拝に併せて構成される歌曲集だということも教えてくれる。つまり、礼拝に参加した人々に教えを伝えるための歌。讃美歌をイメージすると分かりやすい。

「彼の音楽は便宜上バロック様式に分類されて、僕のひとつ前の時代と言えるかな。即興演奏を得意としたらしい。ライプツィヒ時代には、毎週日曜日の礼拝に合わせてカンタータを作ったという」

 そこまで聞いて、なんだか今日はいつもより解説がふんわりしていることに気が付いた。伝聞調というか、曖昧と言うか。思わず聞き返すと、

「会ったことはないんだ。何せ僕の生まれる前の人だから」

 だから直接面識はないのだと珍しくはにかんでみせる。

「僕の生まれた年に亡くなったのだとか。入れ違いというやつだね。それに、彼はオペラを作らなかった。そういう意味でもあまり重ならないかもしれないね」

「先生が生まれたのは何年ですか」

「1750年だよ。覚えやすいだろう」

「今から……270年くらい前? それにしては随分、慣れてますね」

「まあね。日本生活も長いから」

 なぜどことなく得意げなのかは置いておいて。

 今更だけれど、先生のことを全くと言っていいほど知らない。週に一日とはいえ、書斎で一緒に過ごすようになってからそろそろ三か月。知っているのはアントニオ・サリエリという名前だけ。あとは外見と、短い付き合いの中でも知った性格くらい。音楽を好きなこと、意外とお菓子を楽しみにしているらしいこと。

「もしかして、その恰好もおじいちゃんを参考にしてる?」

 もう随分と見慣れてしまった、ちょっと透けている先生の姿。今から300年近く前の人にしては随分現代的な服装だ。けれど、外見年齢はお父さんより少し若そうなのに、センスがどうも……そうすると身近にいたのは誰かという話になる。

「そうだよ。もしかして似合わない?」

「ちょっと外見にしては渋いかな……あと、この季節だと暑そうです」

「ふむ。検討の余地有りか」

 とはいえ、本人は暑さなんて感じないのだろうけど。

 何やら難しそうな顔をして考え込み始めてしまった。何かフォローを入れた方がいいかもしれない、と迷っているうちに、いよいよコーヒーの良い香りがしてくる。


「あ、そうだ……今日のおやつなんですけど。口に合うかどうか分からなくて」

 カバンの底から保冷剤と一緒にしていた袋を取り出した。私の声が無事注目を集めたらしく、先生が顔を上げた。

 ああでも、きらきらした両目の様子では、もしかしたら注目を集めたのは私と言うよりは。

「アイスクリームか。日本のは外装もおしゃれだね」

 先生は賞賛するけれど、本当にどこでも買えるカップアイスだ。掌に収まるミントグリーンのパッケージ。辺りのほうから溶けてきていてちょうど食べ頃になっている。そのうちに私は私で、ラジオのほうに意識が向かう。

 それは別に、聞き覚えがある曲だったからではなくて、むしろその真逆。

「あれ、なんだか、さっきまでとは雰囲気が違いますね」

 さっきと同じ人の曲にしては、礼拝のおごそかさというよりは街中の賑やかさを連想する曲調だった。歌がついているということはさっきと一緒でカンタータなのだろうけれど。

 指摘すれば、先生は嬉しそうに、

「絶妙な選曲じゃないか。『おしゃべりはやめて、お静かに』。コーヒー・カンタータとも言われるね」

「コーヒーのための歌曲集?」

「当時はコーヒー依存症が蔓延していてね。それを題材にした喜劇だ。とはいえ私はお茶もコーヒーもやらなかったので対岸の話だけど」

 そう言いながらも、私がカップに注ぐその琥珀色に見とれている。

「でもまあ、一杯なら許されるだろう。何より今日のドルチェに合いそうだ」

 というわけで、今日の三時のおやつはアイスクリームなのだけれど、味のチョイスは私の独断と偏見で、一番好きなものを選んでしまったチョコミントアイス。私は小さい頃から好きな味だけれど、どうやら万人受けする味ではないらしいことをつい最近知った。

 だからほんの少し緊張しながら、木のヘラで端から掬って口に運ぶ。

 甘さと冷たさが舌に届いて思わず口元が緩んでしまう。

「アイスというだけで充分なのに、チョコレートの風味だけでなくミントまで!」

 それでも、先生の口には合ったらしく(といっても実際に食べているのは私だけれど)、一口目で忽ち表情が明るくなる。

「ふむ、なるほど、悪くないじゃないか。バニラの香り、ミントの爽やかさの後に残るチョッコラータの甘み。ジェラートとも違うまろやかな味わい、それでいてしつこくない」

「本当ですか? ミントのすうっとする感じが嫌だったりしませんか?」

「ちっとも。それともアンナは苦手なのかい?」

 別に責められているわけでもないのにどんどん声が小さくなって、油断していると目を合わせるのも億劫になってくる。気に入ってくれたなら良かったと、そう返すだけでいいはずなのに上手く行かない。

「いえ、それは……むしろそれがお気に入りというか。でも苦手な人も多いらしいし」

 おまけに言い訳めいた言葉まで出てきて、ああ悪い癖だな、とそれでも冷静に分析したりして。そうするといよいよ引っ込みがつかなくなりそうで。

 それを明るく引き留めてくれるのは、他の誰でもなく、


「気にすることはないよ。他人は他人さ」

 肩に触れているだろう『手』の重みなんて感じないけれど、それよりも先生の言葉のほうがずっと重さがあって。

 ううん、重圧という意味ではない。そうではなくて、いつもはささやかに冷たく感じる掌が、この瞬間ばかりはなんだか、温かいような気がして。

「アンナは、アンナの趣味嗜好を大切にすればいい。僕たち人間は、好き嫌いを自分で決めていいんだからね」


 とっさに先生の顔を見上げた。何も心配することはないよ、と微笑まれているような気がして、ほんの少しだけ息が詰まって、慌てて深く息を吸った。

「先生はもう、幽霊ですけどね」

「おや。生きていなくとも人間の括りにしたっていいだろう?」

 爽やかなミントの後味が、今も口の中に広がっている。

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