第三章 窓辺とピアノとバリエーション
晴れ空の下で見る屋根の色は、一際その青さが際立っていた。
反射する日差し、きらきらした木漏れ日。太陽は天高く遠いのに、だんだんと近く熱くなっているように感じられた。
出入り用の柵を開けて庭に入る。モッコウバラがなめらかな黄色を見せていた。それを横目で見ながら石畳を辿る。軒下までもう少しというところで玄関扉が開いて、家の中から出てきたその人と目が合った。
「お、杏奈ちゃん、こんにちは」
気付くなり微笑みを浮かべる、明るめの髪色の男の人。この家に住み込みで管理しているいとこのお兄さんだ。季節らしくTシャツ姿で、大きな荷物を抱えている。
私は軽く会釈をして、
「こんにちは。これから学校ですか?」
「今日は演奏会。夕方からだから今から出かけるとこ。帰り遅いから鍵かけて帰ってね。あ、台所のポットにお湯あるから使って」
余程急いでいるのか立ち止まる時間も惜しんで、その割には的確に伝言と笑顔を残していく。手に下げているのが楽器ケースだと気づいて、思わず声を掛ける。
「あ。あの、奏くん」
ハーフアップに纏めていた後ろ姿が振り向いて、少しだけ待ってくれる。
けれど私はと言うと、呼びかけてしまったのは自分だと言うのにためらって、ちらりと書斎を振り仰いでから思い直して首を振った。
「演奏会頑張ってね」
「ありがと。行ってきまーす」
書斎は窓が少し開けられていて、風が通り抜けるのに合わせてさらさらとレースカーテンが揺れていた。
部屋には誰もいない。当然だ、祖父母は相変わらずあちこちの国の絵葉書を送って来るし、唯一この家に住んでいる人はすれ違いで出かけてしまった。
だから私が待ち合わせているのは、この家で生活している人間ではなくて、
「こんにちは、サリエリ先生」
戸口に立ったまま声をかければ、どこからともなく姿を現した、スーツ姿の男の人。
よく見ると体がうっすら透けているのから分かる通り、生きている人ではない。これももう慣れてしまって、彼自体を怯えることはなくなってしまった。
とはいえ、壁や暗がりからするりと出てくる瞬間だけは、まだちょっと心臓がどきどきしてしまう。
「アンナ! 今日は一段と早いね」
「書斎を預かる身としては、掃除くらいしようかと思いまして」
そう言って、カバンをソファの横に下ろした。
奏くんも屋敷の管理はしているだろうけれど、こんなに大きい家を毎日隅々まで掃除できているわけではないだろうから。
忘れないようにと先にラジオを点けて、レースカーテンと窓を全開にする。
それでも、部屋の中の全てを掃除するのでは一時間では足りない。今日はとりあえず目につく所から。
一階から借りてきたモップでホコリを取ってから窓ガラスを一枚一枚拭いていく。外側が終わったら中。最後に乾拭きをして完了。
そのあとはカーペットを掃除機で吸って、テーブルを拭いたら終わり。
物が多い部屋ではあるけれど、祖父の整頓が行き届いているらしく、床には家具の足しか接しているものがない。だから広いながらも安心してコードを伸ばして、コンセントに差し込んだ。
ふと気になって振り返ると、先生がもの珍しげに掃除機の様子をうかがっている。それがなんだかおかしくて、
「吸い込まれちゃいますよ」
笑いながら声をかける。脅したつもりはないけれど、信じたのかあっという間に窓辺まで下がって距離を置いた。
「それにしても、すごい音だね」
「吸引力が強いタイプみたいですね」
「そういえばこの間、廊下を丸くて平たいものが滑っていたんだけれど、あれもソウジキの一種なのかい」
「それはお掃除ロボットです。センサーで感知?してホコリを吸ったり床を拭いたりするんです」
確かこの家はそれぞれの階にひとつずつ置いてあったはずだ。そのうちの一つを見たことがあるのだろう。
しかも掃除が終わったら自分で家に戻るんですよと教えてあげると、
「そうか……賢いんだね」
なんて、真面目に呟いたのでまた笑ってしまった。
「さて。今日はこれくらいにしましょう。本棚の整理とか、ホコリ落としとかはまた今度にします」
「そうだね、ちょうど三時だ」
先生が顔を上げたのにつられると、柱時計が三度鳴って、いつものクラシック音楽のラジオ番組が始まったところだった。
慌てて納屋に掃除機を置いて、入れ違いでティーセットを抱えて戻ってくると、先生はとっくにソファに身体を預けていた。
「今日はショパンを中心に組まれているようだ」
私もテーブルについてラジオに耳を傾ける。丁度流れていたのはピアノ曲だった。普段はオーケストラの曲が多いので耳に新しい。
とは言っても、その音の止めどなさと軽快なテンポ。飽きることのない音の繋がり。ショパンというのが作曲者の名前なのだろう。
「フレデリック・ショパンというポーランド出身の作曲家だ。とりわけピアニストとしての評価が高いのだろう、ピアノの詩人と呼ばれている。彼の名前を冠するピアノコンクールも開催されているね。これは彼の作曲したワルツ第1番、変ホ長調。『華麗なる大円舞曲』」
「題名からしてとても優雅ですね」
今度は打って変わって穏やかな曲調に変わる。語りかけるように静かな、それから次第に、強く、訴えかけるように。
「あ。聴いたことある」
「12の練習曲のひとつ、ホ長調『Tristesse《悲しみ》』。この国では『別れの曲』として親しまれているね」
「悲しみと別れの曲……」
私はマカロンをひとつ手に取りながら、
「この、感情が引きずられて物寂しくなるのが、詩人と呼ばれる理由でしょうか」
「っていうか、もう食べてるのか。危うく乗り遅れるところだ」
「あっそうでした、すみません。こちらへどうぞ」
白色のを口に運んでいるところを見て、先生が私の傍にやってくる。
うっかりしていたけれど、もとはと言えば先生のために三時のおやつを食べるという約束なのだった。
ラジオに耳を預けながら、ティーカップに口をつける。
「もしかしてこの曲は、さっきとは別の人ですか?」
「そうだよ。フランツ・リストの曲、『ラ・カンパネラ』。彼を指導したのは1822年頃だったかな。現在ではピアノの魔術師として知られている。そういえば今日のオープニングの『愛の夢、3つの夜想曲』のうちの第3番。あれもリストの楽曲だ」
「ピアノの詩人とピアノの魔術師。今回はピアノ曲が多いのはそのせいですね」
このラジオ番組はパーソナリティはいるものの、タイトルや作曲家、演奏者の名前を伝えるくらいなので曲の解説はほとんどない。先生はそれが好きでこの番組を好んでいるらしいけれど、何も分からない私には、先生のちょっとした解説がとても助かるのだった。
「あ、でもこれは他の楽器もありますね。なんて曲かな」
肩から手が離れた気がした。不思議に思ったのは、先生が小さく何かを呟いたあと。
顔を上げると、どことなく困ったように首を振った。
「ああ、いや、失礼。ショパンの『ラ・チ・ダレム変奏曲』だ。これは、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の『お手をどうぞ』を主題にした
モーツァルト。そういえば一番初めに先生に会ったときにもその人の曲が流れていた気がする。さすがの私でも知っていた数少ない名前だった。
変奏曲というのは簡単に言うと、本人や別の人の曲を本人なりにアレンジし直したもの、ということらしい。
「こっちはリストの『ドン・ジョヴァンニの回想』。後半は変奏が多いようだね」
「ドン・ジョヴァンニって、一つ前のショパンと同じですね」
「それどころか主題もすっかり同じだ。彼らの頃になると、先達の旋律を題材にして変奏するものが目立つようになる。並行して、ピアノ練習曲を多く作曲するようになった。彼らの時代の音楽とは大衆を楽しませるだけでなく、演奏者に高い演奏技術を身に着けさせることに重きを置くようになったんだ」
だからああして、作曲家ごとに練習曲集が作られるのさ、とピアノの向こうの棚を指さした。
「そういえば、ここにもリストやショパンの名前が多いですね」
「アンナはピアノの心得は?」
「幼稚園の時に。でも長続きしなくて。もしかして、バイエルっていうのも作曲家の名前ですか?」
「そうだね。フェルディナント・バイエル。日本では入門編の教材が使われることが多かった」
曲が途切れて、珍しくパーソナリティが短いながら解説を挟んでいる。それを機に先生も一度口を閉ざした。
どうやら二曲の素になったオペラの説明らしい。簡単なあらすじと、そのうちのどの部分を主題に使っているのか。
その途中で気分を切り替えたように、先生は改めてテーブルの上のお菓子を眺めた。
「それにしても、今日のお菓子は随分とカラフルだね」
先生が指摘するように色とりどりの、フランスを代表するお菓子のひとつ……とは言っても、どうやら最近は起源がイタリアという説もあるらしい。メレンゲとお砂糖を混ぜて焼いた、目にも楽しいお菓子。
「マカロン・パリジャンですよ。色によって味も違うんです。先生はどれがいいですか?」
「そうだなあ……この緑色のは?」
「抹茶味だそうです。こっちのピンクはフランボワーズ、白いのはココナッツ」
「ではまずフランボワーズにしよう」
ころころと可愛らしいそれを指でつまんで、中程までを齧れば口の中に広がる甘酸っぱい風味。
ちなみにフランボワーズというのはフランス語でラズベリーのこと。
「紅茶はアールグレイかな?」
「先生もだんだん分かってきましたね」
「君のおかげかな。音楽のことでもそうでなくとも、お喋りができる時間は有意義だ」
「私で役に立てるのであれば、いつでも」
じゃあ今度はチョコレートを。さくりとした触感と馴染んだカカオの匂い。
まだ開けていないもうひとケースは、奏くんに置いて行くお土産用だった。
陽が長くなって、時間の感覚が鈍くなっていく。
ラジオを聴き終えてからも少しお喋りをして、紅茶がなくなったのをきっかけに席を立った。
帰りはいつものように、見上げた書斎の窓辺で先生が手を振ってくれている。
それに手を振り返しながら、やっぱり窓を拭いてよかった、と心の中で頷いた。
きっとあれで、窓から眺める庭も綺麗に見えるだろう。
来週は本棚とオルゴールのほこりも取ってあげよう。
そこまで考えて、やっと、すっかり馴染んでしまっている自分に驚いたのだった。
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