第二章 歌劇と歌曲とウィーンの森

 六月の空は薄曇りで、道端の水溜りが消える暇もないほどに太陽とは疎遠な毎日が続いていた。

 それでも、雨が降るくらいならまだいい。困るのは日増しに高くなっていく気温、それに合わせて増えていく湿度。そのせいでパーカーの袖を肘までまくって、体の表面にうっすらとまとわりつくような不快感から逃れようと努力を重ねていた。

 駅からの道なりにアジサイが彩りを添えていた。念のため持ってきた傘の出番はなさそうで、おかげであいた手に紙袋を提げて、もう片方の手で前髪をかき分ける。

 腕時計を確かめる。約束の時間まではまだ三十分以上ある。遅刻する心配はないけれど、それでもなんとなく早く着きたい気持ちがあって、予定より二本早い電車に乗った。

 向かっているのは祖父母の家だった。交差点の向こうに見えている青い屋根。二人揃って海外旅行中でチャイムを鳴らしても会うことは出来ないけれど、その二人との奇妙な約束があった。

 それは、毎週水曜日、午後三時のラジオを聴きながらお菓子を食べること。


 外国の建築に似せて作った洋館は今日もおとぎ話に出てくるような不思議な雰囲気をさせている。正面玄関は鍵がかかっていたので、先週と同じように合い鍵を使って中に入った。

 違うとしたら、もう階段を上っている途中から彼の声が聞こえていたこと。もしかして踊り場の窓から見ていたのかもしれない。手摺にもたれかかって、私が昇ってくるのを待ち構えていた。


「おはよう、アンナ! いい天気だね」

 片腕を軽く上げてこちらに手を振っている、お洒落着のスーツを着こなす男の人。外見はまだ若そうなのに服のセンスはどことなくおじいちゃん、祖父に似ている。日本語がとても上手だけれど、どう見ても外国の人だった。

 もう午後なので『おはよう』という挨拶を使う場面ではなかったために、手を振り返す代わりに会釈をして、

「今日はなんだかテンションが高いですね」

「テンション……それは英語かい?」

「あー、ええっと、元気が良さそう?」

「成程、そういう意味か。そうだね、ちゃんとまた君が来てくれたからね」

 その言葉に、少しだけそわそわする。顔色を盗み見たけれど、裏表があるわけではなさそうだ。純粋に、私にまた会えたことを喜んでくれている。階段を昇り終えれば書斎のドアを開けるように促してくる。

「けれど、思ったより早かったね」

「せっかくだから、少しでも長く居ようかと思って」

 素直に答えれば面食らった様子で、すぐにまた優しい微笑を浮かべる。

「アンナは優しいね。さすがはシュウとマリのお孫さんだ」



 一週間ぶりの書斎は何も変わった様子は見られなかった。庭が見下ろせる出窓とピアノ、大きな世界地図。それ以外の壁を全て覆い隠す収納棚。猫足のテーブルの上に紙袋を置いてからレースのカーテンを開いた。

 先週より少し埃が溜まっている気がする。ガラスの表面をそっと触れば、そこだけ透明度が上がった。

 何の物音もしないのに気がついて振り返る。どうやらもう紙袋の中身に気を取られているらしい。


「だめですよ、まだ三時じゃないんですから」

「えー、いいじゃないか。せめて中身が何か教えてくれても」

「もうちょっとの辛抱ですよ、先生」

 それに、そんなに期待されても今日はただの焼き菓子だ。毎週ケーキを買うわけにはいかない。


 その後も食い下がる様子を見せたけれど、私が折れないと知って、少しすねたようにソファの上に身体を投げ出した。そのままソファの上に投げ出された新聞のラジオ欄を眺め始める。

 ああしているとまるきり生きた人間のように見えるけれど、やっぱり少しだけソファの柄が透けて見えている。

 そう、先生の正体はこの家の主人でなければ、書斎の管理人でもない、そもそも生きた人間ではないのだった。


 本人が言うには二百年ほど前に生きていた音楽家の幽霊。名前はアントニオ・サリエリ。

 そんな人が何故か、祖父の家の書斎に棲みついているというのだから、世の中何があるか分からない。



 ラジオのスイッチを押す。前番組の進行役が最近の出来事についてのんびりと話している。

 先週のことを思い出しながら、まだお菓子の箱に未練がありそうな先生に尋ねる。

「ところで先生は、ベートーヴェンが弟子だったって言っていたんですけど」

 何を謙遜したのか、ほんの少しの期間だけだよと鼻の頭を掻いた。

「他にもお弟子さんはいたんですか?」

「それはもう。最終的には教えきれなくなって、学校を作ったくらいだ」

 さらっと言ってしまえるのは現代人と過去の人間の違いか、あるいは一般市民と裕福層との違いか分からないけれど、先生は時々こうして私の想定外の返事をしてくれる。

 ちなみに私は歴史も音楽も得意じゃない。だから実は『サリエリ』と聞いても何をした人なのか分かっていない。それを気に病んだ様子もなかったので、こうして先生、なんて呼んでいるのだけれど。

「すごいお金持ちなんですね」

「うん、そうだね。純粋な感想で気持ちが新鮮だ」

 何故か笑っているのは、あまりにも間の抜けた感想すぎて面食らったのかもしれなかった。


 三時になって、番組が切り替わる。オープニングに使われているのは先週も聴いたベートーヴェン。確か、『皇帝』という名前が付けられていたはずだ。

 こうやって耳を傾けていると、お母さんの冗談も間違いじゃなかったな、と思い返して。

 次の前奏がフェードインしてくる。サリエリ先生は最初の数音だけを聞き分けて、

「そら、今日のテーマの中にも僕の教え子がいるようだよ」


 聞こえてきたのは綺麗なピアノの伴奏と女性の歌声。

 歌詞の意味は分からなくても、神様を目の前にしているような穏やかで優しい歌だった。

 それに、どことなく懐かしい。

「『アヴェ・マリア』。正しくは『エレンの歌第3番』。その顔は聞いたことがあるね?」

「これは教会で演奏される曲なの?」

「いいや。確かに聖母様への祈りを歌い上げたものではあるけれど」

 先生はソファの上で腕を組んで聴き入っている。

「フランツ・シューベルト。生まれも育ちも活動拠点もウィーンだった子だ。ウィーンの場所は覚えたね?」

「オーストリア……ドイツとイタリアに挟まれている国の首都で、この横長の、東の端辺り……あった、ここ」

 地図を指させば満足げに、正解と小さく拍手をくれた。

 書架を移動して、先週と同じようにシューベルトの伝記を見つけ出した。勿論、本を引っ張り出すのは私の仕事。

 ページの合間に出てきたのは丸い顔にくるくるした赤毛の肖像画。横から覗き込んで、彼は目が悪くて眼鏡が手放せなかったのだと教えてくれた。

 先生はこうやって実物を見せながら解説してくれるので、私でもイメージしやすかった。


「現在ではドイツリート、ドイツ歌曲の王と呼ばれているね。ああ、この曲もその一つ、『野ばら』。ゲーテという文豪の詩に曲を付けたものだ」

 次に聞こえてきたのもピアノの演奏と歌。さすがに歌曲の王と言うだけあって、今日の曲目はそちらが重点らしい。

「シンプルな曲調の中に、咲く可憐な薔薇、といったところか。ゲーテにしてみれば実の所、恋を謳った詩のようだけれど」

 こうして聞いていると、本当にどれもどこかで耳にした覚えのあるものばかりだった。


 今まで和やかだった曲調が一変する。

 次の曲は前奏からして力強く、聞いている私が焦ってしまうような、何かに追い立てられているような音に包まれる。

 一度聴いたら忘れられない。だから思わず声を上げる。

「これ、教科書に載ってた」

「『魔王』。これもゲーテの詩だ」

 どんな感じがするか、と私に感想を求めるので、私は一音もイメージを逃してしまわないように目を閉ざして、耳と脳だけに意識を割く。

「馬の蹄。追いすがってくる不安。生温い風……それと、心臓の音」

「いいね、その調子だ」

 重苦しく絶え間ないピアノの音から連想したものを、思い浮かべたままぽつぽつと呟いた。

 そこからはサリエリ先生が、歌詞を追ってあらすじを要約してくれる。


 登場人物は、馬を走らせる父と子と森の魔王。

 息子は熱に浮かされたように何かを、自分にささやきかける魔王の存在を主張するが、父親にはその姿が見えない。それは霧であり、風の音であり、柳の影だと。

 幼子は怯え続ける、魔王は尚も語り掛ける。「嫌がるのなら連れて行くのみだ」。

 そして漸く馬を止めた時――


 引き込まれてしまうほどに、とても物語的だった。ゲーテの作品を基礎にしたという意味が分かる。

 そこに輪をかけて、シューベルトの音楽が世界観をクリアに、より恐ろしく色付ける。


「彼は作曲速度が速くてね。ピアノを叩く代わりにテーブルや自分の膝を鍵盤代わりにしてペンを奔らせていた。野ばらも魔王も、ちょうど僕の教え子だった頃の作品だ」

 肘掛に半身を預けて、ゆったりと目を閉じている。

 その姿は遠い過去を、思い出の影を手繰り寄せているようだった。

「十代の後半の数年をね。当時の彼は既にその内に音楽家としての才能を多大に宿していた。指導役が『最初から教えることがない』と慌てるくらいにね。だから僕の出番が来た訳だけれど、それを抜きにしても彼の能力は目を掛けずにはいられなかった」

「十代で……すごく素質があったんですね」

 私の年齢と比べながら、まだ若い肖像画を見つけて溜息に似た息を吐いた。

 先生が静かに頷いた。

「ミサ曲第一番、ヘ長調。今でも覚えているよ」

 それから、ぽつりと息を吐いて言葉を切った。

 続いた言葉は思わず零れてきたというような、講釈をしている時よりもゆったりと、物静かな印象を受けた。

「当時のウィーンはね、イタリア音楽が主流だったんだ」

 それは、微睡んでいるような。

 夢の狭間で写真を眺めるような。

「歌に乗せるならイタリア語。ドイツ語はいかめしくていけない。音楽家として大成するにはイタリア式でなければ。そう思って指導してはいた、けれど。今思えばただの護身、目前の足場だけを見詰める保身的な思考に過ぎなかった。それが主流で普通なのだから、そうでなければ生活していけない……けれど、実際の彼はドイツ歌曲の王だ。人の世は永劫続くのだと、思い出すことが出来なかったのかもしれない」


 先生の両目が壁の地図へと届いた。視線の先はやはり、ヨーロッパの中心、音楽の都。

 初めて見る、どこか寂しそうな横顔。言い訳が出来るのなら甘んじて受けようと期待する、哀しげな瞳の色。

 いつしかシューベルトの音楽は途切れて、また次の余白に移る。

 私はとっさに、

「でも、お金がないと生活できませんよ」

 急に声がして驚いたのだろう、先生がやっと私を振り向いた。

 それでいよいよ、言葉に引っ込みがつかなくなる。


「それに、サリエリ先生はウィーンの宮廷楽長だったんでしょう? なら、それが正しかったんじゃありませんか。先生の立場で、生き方で、自分の中にある音楽を教えたのじゃないですか」


 当時のウィーンのことも、宮廷楽長の仕事の中身も分からないのに、一体私は何を口走っているのだろう。

 そればかりか、先生がどんな思いで生きていたのかも。

 それでも、今の、目の前に居るサリエリ先生の横顔を見ていたら、心許なそうな言葉を聞いていたら、何故だかそう言わなければいけない気がして。

 いつものように、思ったものを思ったままに口に出した。

 じっと顔を見詰められている。負けじと視線を辿り返した。その途中で気付いた。先生がぽかんと口を開けていて、じわじわと唇の端が持ち上がっていくこと。両眉が下がっていること。

 それでやっと、

「……私、また変なこと言いました?」

「いや、うん、大丈夫」

 そう言うくせに、もう肩を震わせて笑っている。背中を丸めて、慌てて背筋を伸ばし直して、それでも手の甲で口元を覆って、

「ふふふ。そうだ、そうだね。僕が悪かった」

 何かを謝ってから、大きく息を吐く素振りをした。

「ありがとう。君は本当に優しい子だ」


 小さく首を傾げた先生の視線が急にくすぐったくなって、今度は私が目を逸らす番。

 その先にちょうどお菓子の箱があって、勢いでごまかすつもりで席を立った。

「そんな優しい私から、本日のおやつの発表です」

 じゃじゃーん!と無暗に効果音を口にしながら、それでも先生は楽しそうに拍手をしてくれる。

「っていっても、家から持ってきたバウムクーヘンですけど」

 しかももう切り分けられているおひとりさまサイズのものだ。先生はいつの間にか真横までやってきて、箱を覗き込みながら、

「バウムクーヘン? でも、この周りの白い層は何だい?」

「シュガーコーティングなんです。シャリシャリして美味しいですよ」

 何と言っても先生の代わりに食べるのは私なので、どうしても私の好きなものを選んでしまう。

 よほど物珍しいのかいつまでも熱い視線を贈っている。今度こそテーブルにお皿を並べた。

 包装を切って、付属のフォークで端から切り取って。

 年輪の層は崩れることなくそのままで、口に運ぶ前から甘い香りが漂っている。

「いただきます」

 先生が私の肩に手を置いたのを確かめてから口に入れる。

 ――うん、やっぱり美味しい。


「バターとラム酒の風味。バニラの香り。生地もしっとりしていてバウムと呼ぶにはためらわれるね」

 私が口を開くより先に、先生が感想をくれる。憑依……じゃない、断じて違う、感覚を近くしているというけれど、あまりに饒舌でそれこそ舌を巻いてしまう。

 先週から気付いてはいたけれど、もしかして思っていたより甘いものが好きなのかもしれない。

 ここに来る理由の中にわざわざ『お菓子を食べる』が入っている時点で気付くべきだったかもしれない。

 それでも今は、少しでも幸福そうな顔をしてくれるならば。


「レモン風味のもありますけど、食べますか?」

「そうか! それは是非とも」


 生前にどんな生活をして、どんな生き方をしたかは分からないけれど。

 少なくとも私にとって、目の前にいるその人は、音楽とお菓子が好きなサリエリ先生だった。

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