第14話 夜更け、春の訪れを前に

 僕が最寄駅に着いたのは23時半を過ぎた頃だった。


 特集のページ数を決め、各ページのラフを書いてデザイナーに送り、記事のテキストをライターに発注、中で使う写真素材の手配等など、副編の吉野さんに了解を得た部分や再考を求められた箇所など、ようやく全体が見えて本格的な誌面作りが始まった。疲労感と軽い達成感がないまぜになった僕は、がらんとした駅のホームに降りた。


吉野さんは基本的に穏やかで人当たりが良いくせに、時に無自覚に怖い。こっちが適当に流そうとしてるところは必ず鋭く突っ込んでくる。僕が遅くなったのは、そんなまだ詰めきれずに後回しにしようとした部分を、吉野さんにことごとく指摘され見直しをしていたからだ。久々にしんどかった。例の22時以降の残業禁止ルールの縛りのため、相当な密度で仕事を進めなくてはならず、5分前には退出を促す電子音と機械的なアナウンスがフロアに流れ、それに追い立てられるように仕事を終えることになったのだ…。


 日をまたぐ時間に近いとはいえ、終電にはまだ早いこともあって降りる人はまばらで、線路を隔てた上りホームに目をやると、殆ど人はいなかった。あの桜の木も夜の中にひっそりと溶け込んで眠っているようだったが、春を前に自らの花を咲かせようと人知れず頑張っているんだろう。そんなことをぼんやり考えながら改札を通り抜け、夜風に当たりながらゆっくり歩いていく。風はまだ冷たいけど、もう真冬のような厳しさはすでになく、ひんやりとして心地良かった。今からご飯を作る気にはならなかったので、駅前のコンビニに寄ってお弁当とお菓子を買った。このコンビニは週刊、月刊の漫画雑誌が立ち読みできる貴重なお店で、僕は駅前にある他のコンビニより贔屓にしていた。僕は何かを買う時にだけ立ち読みを“させてもらう”ように決めているのだが、疲れているために何も頭に入ってこなかった。


 家に帰るとすっかり冷たくなって少ししんなりした洗濯物を急いで取り込み、しんと静まり返った部屋の中で買ってきたご飯を食べた。昼間などは賑わう商店街も真夜中までやっている店は「吉野家」と、24時間営業のお弁当屋のみでそれ以外の店仕舞いは早く、商店街の通りから一本細い路地を入ったところにある昔ながらの家々が建ち並ぶ場所この場所も、夜も更けるとどこも皆、健全に寝静まっていく。夜も深まり、周りの部屋の物音もしなくなり、手に取れてしまいそうな静けさが自分を取り囲む感じが気持ち良かった。特に疲れている時に感じるこの静けさは、何よりの癒しになっていた。薄く開けた窓からの緩やかな風も、もう冬ではなく春が始まっていることをはっきりと感じさせてくれた。それは、これから何か新しいことが始まるんだという根拠のない期待感と、特に変わることのない日々を送る、自分に対する軽い諦めに似た焦りのような思いを抱かせた。


 春になる。移り変わる季節と歩調を合わせ、新たな場所で、新しい生活が始まる人がいて、新しい出会いをする人がいる。何かが始まる。でも僕にはそんなことは無縁なんだろう。今の生活の大半を占めるサラリーマンの自分には、少なくても新しい何かがあるとは思えなかった。僕はそれが少し悲しかった。


しかし、僕は間違っていた。





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恋をするだけが能じゃない オトギバナシ @MandM

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