『秒』

秋雨 空

第1話 『秒』

12月の中頃を少し過ぎて、ほどけ落ちるように滑らかな雪が家の窓枠から3分の1までに降り積もっていたある寒いーーー外に出るためには、厚手の外套を着込んだうえ更に毛糸編みのセーターも重ね着しなければならないほどのーーー凍てつく冬の夜の話である。


私は、その日の午前中いっぱいをかけて片付けた仕事の疲労感を身体の追随まで感じながらも、精神の興奮のためか、はたまた夕食の後に3杯立て続けに飲み干した思わず顔をしかめたくなる程に苦味の強いコーヒーのためか、深夜を回っても目が覚めてしまい眠りにつくことが出来ず、ベッドの柔らかい抱擁に包まれながら1人もんどりを打ち続けていた。


何とか眠ろう、ついぞは眠れるかもしれぬと、再三にわたって瞳を閉じて眠る体勢に入ってみるのだけれども、相も変わらずに身体の方は眠りを受けつけてくれない。


薄らと目を開けて部屋の反対側に立て掛けてある時計を確認してみると、思った通り既に3時を回っていて、長い針は目いっぱい右下の方を指し示していた。


既に何十年も生きている、という訳では無いから何百、何千と経験しているということは無いが、何十かくらいならこのような眠れぬ夜を過ごしたことのある私は、いつもの対策として用意してある方法を取るべきか取らざるべきか、はたまたこの気だるさの中でベッドからわざわざ這い出てまでもやるべき価値があるのかどうかを、寝返りを打ち打ち考えながら、頭上においてあった煙草に火をつけて4時間ぶりの1本を堪能すべく、大きくそして深く息を吸い込んだ。


薄紫の煙を天井目がけて、出来るだけ長く肺いっぱいの空気と怠惰を吐き出すと、もう一度時計を見やって時間を確認してみる。


短い方の針が1つ隣に動いている。


この位の時間になると街も完全に死に絶えていて、私の耳に届く音は壁に掛けた時計の秒針が進む度に奏でる、チッチッチッという音と自分の腕を動かす度にシーツに擦れてたてる滑らかな摩擦音のみで、あとは一切の静寂に包まれているため、時計の奏でる音がこれ以上ないほどにやかましく聞こえてしまい、眠りたいのに眠れないという苛立ちもあって、過ぎていく一秒ごとに鳴り響く音に対して尋常ならざる憤りを感じた。


しかし、この怒りの原因である時計をもし破壊したとしても、後に冷静になって落ち着いてから無残なまでに後悔することは傍目にも分かりきったことだし、それを踏まえた上で、壁から時計を外して床に打ち付け、思いっきり力の限り踏みつけてやり粉々に粉砕したとしても、取り戻せる心の安堵はそれに見合うだけのものなのかどうか。


煙を上げ続ける煙草を口元に近づけ、1口吸い込んでから頭の中で想像してみる。


数秒の間が空いたあと、ため息のまじる煙の集合体を鼻から吐き出す。


そんなことをやった所で、満足して眠れる訳でもないし、その為だけにわざわざベッドから出て歩くという行為を考えただけでもげんなりとする。


馬鹿げた話だ。


眠れないのは何も、時計のやつが悪いんじゃない。


眠りにつくことの出来ない私が全ての原因なのだ。


奴はただ、生命の鼓動音を発しているだけじゃないか。


源を与えられ、命を持ち、1秒という人間によって定められた印を他のものに伝えるべく、命の尽きるまで脈打ち続けるのだ。


ただそれだけの存在だ。


人間よりも明確な使命を持ち、人間よりもほかの生物に危害を加えることのない、より純粋で尊い存在だ。


あぁ、人間というものはなんと辛い生き物なのか。


自己のために他を使役し、自己のために他を傷つけ、自己のためになら他を見棄てる。


感情という一時的な混乱に惑わされ人生の伴侶を決めたり、他を殺めて虚しく一人きりの空間で、残りの時を過ごしたりするのだ。


私は、殺伐した感情を抱きながら、ほんの少しだけ瞳を開いて、壁の時計を再三確認してみた。


短い針の位置は変わっていないが長い針は拳を掲げた位置に差し迫っていた。


それからベッドの上で身体を反転させて、窓の方へと目線を動かす。


ガラス越しに空の様子が伺えた。


暫くはそのまま空の色が少しづつ変容していく様を、気だるい頭の中で、昨日一日の出来事と今日私が為すべき行動のすべてを思い浮かべながら、無心のままで眺め続けていた。


太陽の姿は未だに見えないのだが、既に地平線の先には光を孕んでいて、星が無数に浮かぶ純黒の空と太陽の優しさを携えた赤い光とが混じりあって、紫色に光り輝く3つの色彩が、この私の淀んだ脳内へと侵入し、芯から魂をゆさぶって、なんて美しい風景なのだろうかと認識させた。


もしこの光景を見たならば、一日中ずっと口喧嘩をして、子供を引連れて実家に帰り、夫を困らせてやるんだと決意している30代の夫人であっても、心が浄化されて、夫のことを許すのではないだろうか。


また、自分の人生に飽き飽きして、これまでの取捨選択を悔恨し、自らの命をたとうと心に決めた中学生であっても、手に掴んだロープを置いて、窓へと駆け寄り、自分以外の存在に、またその美しさに気がついて考えを改めるかもしれないな、とそんなことを考えさせられた。


私はこの世界の動きを自分以外の命の行動を見る為に、今夜睡ることが出来なかったのかもしれない。


そして今夜、私と同じように何度挑戦しても睡ることが出来ず、悶々と1人ベッドの中で過ごし、同じように外の風景を見て、心打たれた人は何人程居るのだろうか。


私がたった一人だけだとは到底思えない。


朝8時ちょうどにベッドから出るという、自分が選択し行動するその簡単な動きは何を気づかなければ自分だけの狭苦しい世界でしかないが、もっと広い目で眺めてみると、何億もの生物が、全く同じ時間に、全く同じ動きで、全く同じ事を考えて一日に取り掛かるのである。


私はもう一度、今度は大きく目を開いて、時計の針の位置を確認した。

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『秒』 秋雨 空 @soraakisame

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