からだ

 殻だ。

 朝陽はそう思う。

 所謂、蝉の抜け殻という奴だった。大学四年になって今更気を取られるようなものでもない。

 それでも――拾い上げてしまったものは、案外と指から離れてはくれないのだ。

 陽炎に炙られながら、道端で暫しくだらない抜け殻を見詰めていたところへ、ふと横合いから懐かしい声が飛び込んできた。

「こんにちは」

「おお、久しぶりだな」

 高校時代の後輩である。懐かしい顔立ちに破顔し合うと、彼女は両手に持っていたバニラソフトの一つを朝陽へ突きつける。

「――ちょっとこのアイスに免じて、くだらない話に付き合ってくれませんか」

 元より――。

 くだらないことをしていたのだ。やることが変わるわけではない。頷いた朝陽に近くのベンチを促して、少女はソフトクリームを頬張る。

「体がなければ心ってないと思いませんか」

 ――随分と唐突な質問だった。

「ううん。体があっても、心がないものはないんじゃないか。これとか、そうじゃないか」

「そうですかね」

「そうだろ。生きてないし」

 本当に――。

 そうなのだろうか。

 生きていなければ考えることもしないのだろうか。何も見えていないのだろうか。その白く濁った虚ろな瞳には――本当に、機微は届かないのだろうか。

 朝陽の自問は少女にとっても疑問だったようだ。いつかこの皮を破った蝉の羽音を聞きながら、彼女は夏空の瞳を瞬かせた。

「生きてなければ、心ってないですか」

 抜け殻に目を遣る。

「ある――かもなあ。生きてたものには、あるかもしれない」

 これにはないだろうがと付け足した。

 あくまでも殻は生に付随するものだ。それ自体が生ではありえない。

 だから――映っていたのは、その身に宿っていた蝉の目が見た過去だけで、現在も未来も見えはしない。

 止まっているのだろう。

 少女は立ち上がる。木製のベンチが微かに軋んだ。

「ねえ、じゃあ、心だけだったものが体を後から手に入れたら、それって何だと思いますか」

「そうなあ」

 最適解が見当たらなくて、朝陽の目が泳いだ。曖昧な唸り声で掴みあぐねた思考を誤魔化しながら、彼女は空を仰ぐ。

 入道雲が浮いている。

 ――雨がじきに降るかもしれない。

「でも、そもそも心って何だろうなあ。体がなければ境界がないから、ここに心があります――って言われても見えないし。それって存在するんだろうか」

 朝陽は哲学に疎い。

 疎いから、自分の考えたことをただ喋っているに過ぎない。誰それの思想が似通っているとか、そういうことは気にしないのだ。

 その確証のなさを、同じく倫理に疎いらしい後輩は気にも留めないようだった。

 踊るように足踏みをしながら、彼女は細い指先で雲をなぞる。

「体を手に入れちゃったら他の生き物と見分けがつかないじゃないですか。だからそうなったらどうなっちゃうのかなって」

 跳ねる足許を見た。

 彼女は――運動部だったろうか。そうだったような気もする。しなやかな筋肉が舞うのを見ながら、漸く何かを掴んだような気がして、朝陽は後輩の顔を見た。

「バケモノかな」

「人じゃないですか」

「人じゃないだろ」

 人は――。

 最初から体があるものだから。

 生まれたときから体が心に馴染んで、心は体をごく普通に動かすのだ。それが人間である。

「あとは――そう、名前な」

「名前ですか」

 薄い唇が小首を傾げた。

 朝陽は自分の名前を気に入っている。朝の陽ざしのように人を照らしていこうと決めたのは名のお陰だし、それならばと看護の道を選んで、無事にこうして就職活動に勤しめている。

 この名でなければもっと別の道を歩んだろう。

 そうなったとして――。

 そのときここに立っているのは、朝陽という一個人ではありえないのだ。

「名前って大事だと思うぞ。他の同じ種族から自分を分ける」

「そうですね――必要ですよね」

 考え込むようにして息を吐いた少女の目が閉じる。それを暑さの向こうに見ながら、朝陽はふと後輩らしき彼女をまともに見据えた。

 くだらない殻が、風に煽られて漸く掌から離れる。転がったそれを躊躇なく踏み潰した足先を辿って――。

 顔を見た。

 見知らぬ誰かがそこにいる。

 夏空のような丸い瞳も。

 薄く涼やかな唇も。

 細く肌理の細かい指も。

 獣に似たしなやかな足も。

 朝陽は。

 ならば――。

 ――目の前の少女の名前は。

 何というのだっけ。

「ねえ、先輩って、何ていう名前でしたっけ」

 足許で、夏蝉の呻き声がした

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