耳
思いのほか稽古が長引いてしまった。
東京とはいえ郊外である。仄暗い街灯の下を辿っていくのには幾ら柔道部主将とはいえ抵抗がある。
だから、京華はスマートフォンを起動しているのである。
恋人の連絡先を表示したまま、他愛ない会話を続けていれば、痕跡の一つくらいは残せるだろうという自負はあった。
それにしても――。
蒸し暑い。
元より稽古の後である。染みついた汗臭さが余計に濃くなるのは避けたかった。
――暑いね。
打ち込んだ言葉が素っ気なく同意を促す。
長い友人期間と曖昧な関係を経て、ようやく辿り着いた特等席にも、お互いこれといって対応を変えることはなかった。関係性が友人であれ、それ以上であれ、五年という月日を覆すほどの変化は訪れない。
小気味いい振動が手に伝わる。発光する画面に再び白い顔が照らされた。
――だな。この後、雨降るってよ。
――傘持ってないや。まずい。
――迎え行こうか。
フリックしていた指先が止まる。湿気で停滞した夜の空気が体に熱を閉じ込めて、額に汗が滲んだ。
その申し出に頷けないのは、彼の心配が京華の厭な記憶に触れたせいだ。
幼馴染みが消え、双子の妹が狂乱し――末妹が模糊とした瞳で取り戻した。以来どこか悄然と自室に籠ることの多くなった葵への心配もあるが、それよりも。
全員が――覚えていないと言った。
目撃者も痕跡もない不可解な事件だったから、警察が頼りにしていたのは遥の証言だけだった。事情聴取を記憶がないの一点張りで押し通した彼女の家の近辺では、一応の解決から一週間が経過してもパトカーを見かける。
それでも、彼女は親しい者にすら覚えていないと言う。妹たちがそれにすんなりと納得してしまったのも京華の懸念を掻きたてた。
真実があるなら白日の下に晒したいのである。
元から正義感の強い京華だったから、知り合いが当事者となった女性の誘拐という非道な行いを有耶無耶にしたままでいることができないのだ。
そして。
曖昧な状況で、他の誰でもない恋人に不安を感じさせることが我慢ならない。
――大丈夫だよ。すぐに明るい道に出るし。
柔道は幼い頃からやっているのだし、部では主将も務めているのだ。いざとなれば締め技の一本でも決めてやれば抵抗にはなろう。
そうかと歯切れの悪い単語が返ってきた。
そこで目を上げる。
宵闇に塗り潰された空に雨雲が垂れこんでいるのは、光源に慣れて一層暗くなる視界にも理解できた。なるほど確かに雨は降るらしい。
ならば急がねばなるまいと――。
踏み出してから。
自分の者でない足音を聞いた。
ヒールの音だ。京華はヒールを好まぬから、そんな音がする筈はない。
脳髄に針を刺されたような気分だった。元から暗い眼前が更に黒さを増して脳を塗り潰す。速くなる呼吸を誤魔化すかのごとく走りながら、彼女は通知を見た。
先程の会話を尻目に、迫りくるヒールの音を聞く。
例えばそれが並の女ならば、彼女が勝てぬはずはないだろう。そもそも行き先が同じというだけのこともある。
だというのに。
鼓動は鳴りやまない。耳の内側で直接心臓が跳ねているような気分だ。
ままならない呼吸を嘲笑うかのごとく。
ヒールが迫ってくる。
そこまで来ている。
捕まる。
誰に――捕まると言うのか。
分からないうちから画面をフリックする。万一、何かあっても、彼ならば気付いてくれる筈だ。
――電話していいかな。
――おうよ。
震えて滑る指先で連打した電話のマークが消える。暢気な呼び出し音を耳に振り返った先に――。
何もなかった。
烏が鳴いている。ガア、と一際大きく反響した鳴き声の余韻も消えぬうちに、コールが途絶えた。
声を。
あげようとして。
「知れば戻れなくなるぞ」
ノイズ混じりのどす声がした。
直後に飛び込んできた、心なしか逼迫した恋人の声が耳から抜けていく。見えぬ暗闇の先を凝視して、ないものを見ようとして――。
ひたりと頬に雫が落ちる。
大粒だ。じきに酷くなるだろう。傘がなくては帰り着くまい。
ああ。
あれは雨だ。
「お迎え、お願いしていいかな」
足音なんて。
――しないよ。
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