指
遥には内緒だと姉が指を立てた。
苦笑を刻んだ薄い唇に、針跡が微かに残っている。フードの下の瞳が逸れたのに気付いてか、恭子の目もまた病院の白い壁に向けられた。
「――遥がいなくなって、悪い夢でも見たんじゃないかと思う」
私は遥に頼りきりだから――。
言って、もう一度姉が笑う。
壁と天井を縫い付けて、自身の唇に糸を通した姉を最初に見つけたのは、彼女の妹である葵だった。混濁した瞳に睨まれて、冷えた針の先端が迫るのを我武者羅に押しのけて、電話のある部屋に立てこもったのだ。
葵は五つ上の姉たちを尊敬していた。双子である彼女たちの背を追うのが普通だったから、そのうちの一人だった恭子から追われるのがひどく恐ろしかったのだと思っている。
――姉の狂乱は過度の疲労からくるパニック症状だと判断された。
平時は冷静な姉だったから。
葵もそう思った。
姉の涼やかな目元が揺らぐ。掛布団を握りしめた指先の白さが目に痛かった。
「本当に済まなかった。葵、怖かっただろう」
その言葉の調子は、穏やかで繊細な雪に似た――いつもの彼女であった。
だから、葵は首を横に振る。
「姉さん、疲れてたんだよ。だって、全然、寝てなかったし。わたしも、誰も、怪我しなくって、姉さんも、いつもに戻ったら、わたし、それで大丈夫」
「そうか――ありがとう」
雪が綻ぶのを、どこか夢心地に見る。
姉は。
何も覚えていないと言った。
自身が奇行に走った発端も、その最中の心地も、全て忘れたという。
本当だ――と思う。否、本当である必要なんか葵にはないのだ。真実だと姉が言って、葵がそれを疑わなければ、彼女らの中には暴くべき真相などなくなる。例えばそれが事実を捻じ曲げて何かを隠匿するための口八丁だったとしても――姉が言わぬのなら訊かぬ方がいいのだろう。
姉は冷静な人だから。
葵の幼い見識が求める解よりも、ずっと深い場所を見ているのだ。
だから、姉は何も覚えていなくていい。
先刻、恭子の唇を遮った人差し指がまざまざと脳裏に蘇る。それで、葵も同じように唇を塞いだ。
「遥さんには、内緒、だよね」
「知られたら煩いしな」
苦笑して頷いた目元はいつもの姉のそれだった。安堵が力を奪っていくのに抗わず、葵の指先が膝に落ちる。
――唇に当てる。
それはきっと封印なのだ。
喋ってしまわぬように――聞こえてしまわぬように――。
秘密を遮っておくのだろう。唇は柔らかいから、簡単なことで開いてしまう。声帯は音を出すためにできているのだから、音はやはり出てしまう。
それを。
この指先が――遮るのだ。
どこにいるとも知れぬ遥に届いてしまわぬように、この秘密は遥の知らぬところで指先に妨害されている。
――知らなければ暴く真実などないから。
何も知らなければいい。知らせなければいい。そのために人差し指は唇を塞ぐのだ。
降りた沈黙をどうにかする言葉も見当たらなくて、葵は落ち着かない尻が促すままに立ち上がった。ベッドの上で見つめる模糊とした視線を辿って、恭子の瞳に笑うと、彼女は小さくパーカーの下の手を振った。
「じゃあ、また来るよ。今度は、疲れすぎる前に、わたしたちに、言ってね」
「肝に銘じておくよ。ありがとうな、葵」
「ううん。早く、帰ってきてね」
白い病院の壁を躱す足取りは軽い。忙しなく動く白衣の裾を横目に、受付のにこやかな声に控えめな労いを返して、フードの少女は日を浴びた。
――今日は日曜だ。
壁に遮られていた蝉の鳴き声がまともに耳を打つ。心地いい室内の冷風で忘れていた汗が思い出したように背中に滲んだ。
生温く衣服に染み込んでいくべたつく体液を背負ったまま、葵の瞳が入道雲を抱えた空を見る。
――遥は。
彼女の姉の親友だ。
物心ついたときから何かと構われていたから、葵にとっても遠い存在ではない。彼女が本当にいなくなってしまったのだとしたら、泣き崩れるどころの話ではないだろう。
けれど。
まだ――認識できない。
小柄な葵とさして変わらない背丈で、夏の空に似た顔が破顔していくのを、もう見られないかもしれないということが――分からない。
それはまるで砂のような事実だ。目に見えているのに掴めるのは残滓だけで、零れ落ちていく感覚さえ曖昧になる。その大きさに気付くのにはもう少し時間がかかるのだろう。
だから――だろうか。
姉が、まるで遥を失っていないかのように語るのは。
人差し指で――伝わるはずのない真相すら塞ぐのは。
陽炎に揺らぐ姉を真似て、指先を唇に当てた。心なしか熱を孕んだ柔らかな皮膚の感覚が伝わってくる。神経の全てが指先に凝り固まってしまったかのごとく、葵は暫し虚ろな姉の幻影を見据えていた。
その金縛りを解いたのは、背に走った衝撃であった。
模糊としていた風景が眩暈と共に脳を駆け巡る。情報量に白んだ視界に暑さだけが空転して、拍動が一瞬だけ止まった。ともすれば飛んでしまいそうな意識をどうにか現実に押しとどめて、徐に振り返る。
そこにクラスメイトがいた。
先程背を叩いた手は既に後ろに回っていた。動悸が鳴りやまぬうちに安堵の息が軌道を通り抜けて、大げさな音で蒸した空気を裂く。
「びっ――くりした」
唇が緩んで、笑むように表情が崩れた。
改めて見たクラスメイトの少女は、無邪気な笑みを浮かべている。
それがいつものことだというのは分かるのに――。
何故か、咄嗟に名が出てこなかった。
少女の方は葵の動揺など眼中にないかのようにけたけたと笑った。
「大成功。内緒のポーズしてぼうっとしてるんだもん、どうしたのかと思っちゃった」
「ううん、ちょっと、考え事してたから」
「どうしたの。何か面白いことがあるなら教えてよ」
暇なのだ――と少女は笑った。葵の眉が怪訝を模って、すぐに合点したように緩む。
――そういえば、彼女には話していなかったような気がする。
今の葵の悩みなど、大抵の人には知れ渡ってしまっている。何しろ幼馴染みが消えたのだ。
友人の幼馴染みが失踪したというのは、女子高生にはさしたる深刻さをもたらさないらしい。すっかりとスキャンダル化して尾ひれを手に入れた噂は、葵の元に戻ってくる頃には元の形を失ってしまっていた。
曰くばらばら死体が発見されただとか、曰く怪物に食われただとか――当事者からすればおよそ許しがたいオカルトめいた虚言の波も、半ば夢の膜の中で生きているような状態の葵には何らの動揺も与えなかった。
だから――。
誰に話したのかも、よく覚えていない。
「あのね、遥さん――わたしの幼馴染みで、お姉さんみたいな人が、いなくなっちゃって」
訥々と語る事件の詳細には暫くぶりに触れた。どこに行くともなく足を進めて、昼から賑わう居酒屋の前を通り過ぎる。
少女は葵の後をついてきているようだった。
頷きながら一頻りの話を聞き終えて、彼女はかつて葵の友人がそうしたように呆けた息を吐く。
「大変だね」
だから葵の返事も変わらない。
「姉さんの方が、大変そう。遥さんと、仲、良かったから」
何がどう大変だったのかは――言わないままにした。敬愛する姉の噂の種をこれ以上撒いてしまうのも嫌だったし、何よりも。
――あれは。
――あれは禁忌だから。
――人差し指に隠された秘密だから。
遥が聞いてしまうかもしれない場所では、口にしてはならないのだと思う。
さして興味もなさげに一つ唸った級友を振り返る。
――丸い瞳だ。
夏の空のような。あの消えてしまった幼馴染みのような。
「ねえ」
だから――。
「どこにいるのかな、遥さん」
そう聞いたのも、恐らくは日差しに眩んだ戯れの一つだったのだ。
眼前の目がそう見えてしまったのかもしれない。思えば唇は姉のそれに似て薄い。何か無理やりにでも接いだような印象のする顔立ちだ。
「それから」
蝉の声が煩い。ぐらぐらと脳を揺すってくる。そうだ。そうなのだ。思い出してしまったのだ。
思い出さなければ暴く真実などなかったものを。問うことなどなかったものを。刺すような暑さが目の前を埋め尽くして、もう少女の顔は見えない。
――わたしは。
――あの話を。
――皆の前で。
「あなたは、誰」
陽炎の唇が持ち上がる。よく見れば薄く残った針痕が浮かび上がってきた。
そして――。
彼女は。
背後に回した手を始めて見せた。
「ないしょ」
その言葉を本物にするための、封が。
誓うための、指が。
――あなたには、ないよ。
蜩の鳴き声と共に、茫洋とした葵と遥が家に着いたのは、その日の夕方のことであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます