手首に歯を突き立てる。

 薄くて生温い皮膚を濡れた骨の一部が摘まむ。一枚下の管がぐにゃりとせき止められるのをまざまざと感じる唇を、剃り痕の毛がちくりと刺してくる。

 吸う。

 毛が寝そべって、だらしなく歯の裏に置かれた舌に当たる。

 管の中で、心臓から送られた液体が、どく、と跳ねるのが分かる。

 唇に守られた剥き出しの骨が、赤い肉の下に埋もれた硬いものに触れる。

 力を強めたら、筋肉がひくりと震える。予想しているのだろうか。怖いのだろうか。だからそうやって震えるのだろうか。

 微かな抵抗を押さえつけて、更に突き立てた骨が、管を破る。

 破裂するように一度だけ震えて、錆が口蓋を染めていく。

 唾液が――。

 ぬらりと――。

 溢れた液体と混ざって――。

 ――目が覚める。

 べたつく肌の感覚が鬱陶しかった。体を起こす気になれなくて、恭子は溜息を吐く。

 ここ数日――毎日のように夢見が悪い。親友の遥の姿が見えなくなって三日になるからだろうか。それとも彼女の捜索に精を出しすぎるせいだろうか。

 恭子にとっての遥というのは思うよりも大きい存在だったらしい。幼い頃から半ば腐れ縁のように引きずってきた無遠慮な関係が唐突に消えることの影響は想像よりも強かった。

 警察に任せておけばいいのに――そう思いながら、大学三年の夏に、自身の単位を疎かにしてまで彼女は構内中を探している。

 もとより神出鬼没なきらいのある遥だから、苦笑しながら出てくるような気がしているのだ。

 不安定になっている――のだろうか。

 よくわからない夢を見るのは。

 知り合いの腕を食いちぎる現実ともつかぬ夢を――。

 ――考えても分からないことは考えないのが、彼女の信条だった。

 分からないことばかりを見ていたらそのうち頭が壊れてしまう。それよりは膨れた現実の問題に意識を遣った方が幾分か建設的だ。元より彼女は頭が良い方ではないのだから、考える役には向いていない。

 考えるのを止めたら、今度は濡れたシーツの感覚が、役を果たさなくなった服の下に透けた。

 煩わしい。

 妙に重い頭を抱えて起き上がる。授業に行かねばならないし、何より、このベッドの上の惨状をどうにかしなければならなかった。

 そうして目を上げた先が――。

 赤かった。

 壁――だったのだ。

 開いている。赤というよりは、もっと薄いような、黒に近いような、人間の弱点をだらしなく晒している。垂れた厚い肉の塊が白く濡れた骨の間に覗いている。

 先は見えない。どこに続いているかも分からない。

 不意に、肉の塊が面倒そうに白の間へ引っ込んだ。その裏側を撫でるや、穴が塞がる。

 がちりと――。

 音がして、それが何なのかを理解した。

「ああ――」

 溜息のような息が喉を掠る。あれは――。

 ――あれは口だ。

 食おうとしているのだ。何かを食いちぎりたくて仕方がないのだ。薄い皮を、血の管を、骨を、噛み砕こうと――。

 あの夢のように。

 自分の手首が視界に入った。汗ばんでいる。その下で管を押し広げる赤が張り裂けんばかりに体を巡っているに違いない。

 砕いたら――。

 さぞ、心地いいだろう。

 反射的に周囲に視線を巡らせた。壁があったはずの場所に逃げ場がなくて、引き攣れた声帯が空を掻く。

 上から。

 頬を伝う生暖かい粘液が降ってきた。透明だ。透明で泡立っている。獲物を逃がさんとばかりに執拗に纏わりついている。

 シーツを這った指先が、先程までの体温で融解されていく。それで初めて否応のない冷えに支配されていたと知った。

 机の上に逃げ場を求めさせながら、最初の口から目は離さない。触れた何かを我武者羅に掴み取る。

 親友から預かったソーイングセットだった。

 小箱の内側に透き通る針と糸を見て、彼女を覆っていた冷えの膜が破れていく。ようやくうまく動くようになった指先で蓋を弾いた。

 ――ああそうか、そうすればいいんだ。

 ――私は考えるのが苦手だから。

 器用に糸を通した針を右手に携える。今度こそ恐怖を掻き消して、壁だった場所に触れた。

 唇を。

 掴むようにして――。

 柔らかな、皮膚のようなそれに、針を突き立てる。

 開こうとしているのだろうか。生温い体温を孕んだそれが指に反抗するように力を込めてきた。

 上唇に刺したそれを下へ向けて、裏側から通すように引きずる。肉の間を突き抜ける銀糸が赤く染まっていた。

 次は上へ。

 ――下へ。

 糸を切り落とす頃には、あの底なしの赤は見えなくなっていた。

 ――あと四つ。

 天井から絶え間なく落ちてくる唾液に唇が歪んだ。

 無心で糸を通すのは――ひどく。

 ――ひどく。

 だから、後の作業は簡単に終わった。

 ようやく張り詰めたような静けさを取り戻した部屋と、天井から降る小さな赤い雫に汚れて、恭子は立ち上がった。

 足りない。

 足りないから、もっと。

 視線を巡らせた部屋の隅に、碌に使わない全身鏡が立てかけてある。埃を払うと、右手に針を持ったまま目を見開く姿があった。

 ――鏡の向こう。

 髪を乱して目を見開く女の。

 不格好に引き攣れた、女の。

 唇が。

「まだ」

 残っていたじゃないか。

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