境界
刀魚 秋
目
目が合った。
勝負というよりは一方的な蹂躙である。机を挟んで向かいに座る青年が浮かべているのは懇願のような瞳だった。自身より三十センチは高いであろう背丈の後輩に向けて、遥は椅子の上で胡坐をかいたまま笑顔で首を横に振った。
遥が大学に入って三年になる。
就職を前にして、講座を終えたのが一時間ほど前のことだ。扉を開けた先で待ち構えていた、ボードゲームサークルの後輩である悠樹に勝負を挑まれて、再び講義室の中に入るに至ったというのが経緯であった。
自慢ではないが――。
遥はボードゲームに強い。
殊にこのチェッカーという勝負とは相性がいいようで、彼女の表には無敗にごく近い数字が刻まれている。
――尤も、サークルを掛け持っている彼女だから、勝負の総数自体が多くないのだが。
「だから、いつも言ってるけど、あたしに勝負を挑むのが間違いなんだって。降参しちまえ。楽になっちまえ」
「嫌っすよ。俺は可能性がある限り諦めねえ主義っす」
可能性など――。
とうに消えているように、遥には見える。
それでも彼がやるというならやるのだ。白旗を無理矢理に認めさせるのはルールに反しているからとはいえ――苦痛を長引かせるのには、少々の憐憫を覚えた。
斜陽に照らされる盤上で、手の届かない勝利の駒を指で弾く悠樹の顔色は、赤い光になお青白く浮かんでいる。
というのも。
遥の眼前で頭を抱える二年は、幽霊の類に非常に弱いのである。
それを知っていて、勝負がつき次第、敗北者が近隣の森へ独りで突入する――などという賭け事を持ち出した遥に罪がないかと言われれば、肯首はし難いだろうが。
それでも勝負を取りやめなかった彼が悪いのだ。
「というかっすね、俺は思うんすよ」
抗議めいた口調は標的を変えたようだった。恨むような目を窓の外で揺れる小枝に遣って、悠樹は吠える。
「東京なのに近くに森がある大学って何なんすか。東京で肝試しの余地挟んじまう敷地って何なんすか。つうか、この大学が何なんすか。周りに何もねえし、電車はモノレールしかねえし」
「それは言ってやるなよ」
都心回帰だと届かぬ叫びを上げながら、青年の猫毛が机に伏した。風圧で音を立てて位置を変える駒に慌てたように顔を上げ、律義に位置を戻す彼の手つきをぼうと眺めながら、遥は息を吐く。
――感嘆とも呆れともつかぬ音になった。
「しかし、悠樹の怖がりは本当にすげえな。何がそんなに嫌なんだよ」
目を持ち上げた悠樹の方は、これ幸いとばかりに駒を盤面に転がして、いや――と声を上げる。
西日は思った以上の速度で沈んでいく。けたたましいチャイムの音に続く言葉を遮られた。
引きずる音の余韻が静寂に変わったころに、再び盤面の駒を手にした彼が、小柄な先輩の丸い瞳を瞥見する。
「視線って感じるじゃないっすか」
何を当たり前のことを――。
――言っているのか。
「そりゃ視線なんて多かれ少なかれ感じるだろ。感じなかったら相当鈍感なやつってことじゃねえか」
「そういうんじゃなくてっすね――ああ、何つったらいいかな。先輩がさっき俺のこと見て、俺が顔上げたじゃねえっすか。そういう視線っすよ。元を辿りたくなっちまう、何か気になる――気になる、でいいのか。見たくないのに、つい見ちまうような、そんな」
要領を得ない説明である。それでも何となく理解は出来た。
見られているのだ。
見たくない――のだけれど、動けないような。
「すげえ注目されてるときの、あれが。来るんすよ。幸い俺には霊感ってのがないんで――まあ、見ても何もないんすけどね。大体。でも、ちょっと考えてみてくださいよ。目が合っちまったらどうするんすか」
「どうするも何も。逃げるか、戦うか――どうかはするだろ」
「でも、相手は」
人でない。
「見られてるってことはっすね、俺らは人とヒトでないもんの境目に、分かられてるってことっすよ。おっ、そこにいるんだな、って目ェつけられてるんす。で、目が合うってことは俺らからもそっちが認識出来ちまうってわけで」
境目から認識されて。
境目を認識する。
それはもう――人の領域を逸脱する行為だと唸った。
細く長い体躯の割に無骨な指先が自駒を持ち上げる。斜め前の敵駒を見据えた黒が緩やかに細められた。
「目が合ったらきっと――戻って来られないんじゃ、ないっすかね」
飛び越える。
遥の駒を奪ったそれが、悠樹の最後の抵抗だった。
頭を抱えて溜息を吐く悠樹に猶予をやろうと仰々しく声を上げた。慣れた手つきでスマートフォンのロックを解除する女が机上に肘をついた。
購買が閉まるまではまだ時間があるようだった。そういえばシャープペンシルの芯が切れていたような気がすると茫洋と思い出して席を立つ。
「ちょ――俺にあんな話させといて独りで置いてこうってんすか。鬼っすか先輩」
「ちょっと購買でシャーペンの芯買うだけだっつうの。すぐ帰ってくるって」
縋り付く後輩の哀願を一蹴しながら鞄を背負う。
やけに軽い気がしたが、そういえば今日は教科書を要する授業が少なかったのだと思った。
「ま、あんまり怖えなら、あたしがついてってやっから」
慈悲の言葉をかけてから廊下に出る。
疎らになった喧騒を躱す彼女の足がふと止まった。
見られている気がする。
並んだ講義室の間から伸びて、小柄な背に刺さっている。
拍動をも許さぬように――冷えた視線が内臓をつついている。
見たくない。顔を向けてはならない。
なのに。
遥の意に反して、流れるように、意識はひりつきから逃れるようにそちらを向いてしまった。
そこに。
闇がある。
――見ている。
人とヒトでないものの境界線が。
見えてしまう。
ドアと壁の隙間から覗いている。
ぬめっている。湿っている。滑らかな外皮を風に晒している。
待っている。
漫ろに闇が開いた。白い。白の中に黒が浮いている。
目玉だ――。
上向きの睫毛が泣き濡れたように湿っている。頬に貼りつく黒い下睫毛の一本までつぶさに見える。
軽い音を立てて鞄が地面に転がった。
視界を覆い尽くす。
目が――。
目が合ったらきっと――。
ああ。
「あたしは」
――どこだったのだっけ。
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