第2話 それは最悪な序曲(後)
「――ッ!」
声も出せない。身動きも取れない。ただ、あまりにも頷けないことを言われたことだけは理解出来た。
身をよじらせるも、形のないはずの影は鉄のようにアリシアの身体を拘束している。
その様子を見て、ベルカントは「ああ」と一言呟くと、右手の指を手招くように振った。
すると、アリシアにまとわりついていた影は解かれ、身体に自由が戻る。
そのまま、重力のままにアリシアは地面に倒れる。口の中に入った土が苦い。
細い息をするアリシアを、ベルカントは何も知らぬ人が見れば、魅入ってしまうような笑顔で見下ろしている。
「さあ――、お前の美しい"歌"、ボクによこせ」
同じことを言う。
ベルカントがアリシアの拘束を解いたのは、このままでは受け答えが出来ないと判断したからだ。けれど、あくまでも求めているのは了承の返事。ベルカントの中に否はない。
「どういう……意味……?」
倒れたまま、アリシアは問う。
どういう意味――。そう返ってくるとは思っていなかったベルカントは、首を捻り考える。
飾らず、直接的な言葉で自分の要求を伝えたはずだったが、言葉が足りなかっただろうか。ああ、そういえば、思わず襲いかかるようなことをしてしまった。女という生き物は脆い。いきなり壁に打ち付けられたら、混乱で理解力が鈍るのも致し方がないことだ。
そう自分の中で結論付ける。
「その歌、美しい歌。それを――ボクだけのために歌え。たたボクに、魅せ続けろ」
よこせ――とはそういう意味か。
アリシアの才。アリシアの魂と言ってもいいそれを、ベルカントは所有したい。自分だけのものにしたい。
ふざけるな――。
アリシアは立ち上がる。相手は魔女だ。人の権利なんて関係なしに踏みにじる悪だ。発言一つ、挙動一つであっさり殺されてしまうかもしれない。けれど、関係ない。アリシアにとって、歌は命よりも根幹の部分にあるもの。文字通り空っぽだったアリシアの、義父に次いで支えになってくれたもの、それが歌だ。
きっとアリシアは、生きている限り歌うだろう。死ぬ時でさえ、歌うだろう。
家も親も名もわからない。そんな状況でも、喉が動いて、声が出た。
透き通るような感情が、心を満たした。そして思った、ああ、自分はこれが好きなんだ――と。
それが救いだった、それが希望だった。だから磨いて磨いて、いのまにか豪華な舞台の上で、大勢の前で歌っていた。
初めての舞台は――ボロボロに泣いてしまった。誰かはそれを醜態と言った。けれど、あの時浴びた喝采を、感情を、忘れはしない。
結局自分はなんのために歌うんだろうと、そう考えたこともあった。
悩んでもがいて出た答えはやっぱり――自分のためだった。
支えてくれた義父、拾ってくれた会長、いつも助言をくれる知り合い、応援してくれる人達。頭に浮かぶ顔は多い。けれど、アリシアは歌が好きで、命だって天秤にかけてしまえるほど好きで――。
あとは、夢を叶えるために。
『いつか恋をして、その人のために歌を作って歌う』なんて、今の年齢で声をあげて言うには、あまりにも恥ずかしい夢を叶えるためにアリシアは歌うのだ。
けれどそれもやっぱり、それは自分のための歌で――。
だから、いきなり現れた
だから、きっぱりと答える。
「嫌よ」
「――なぜ?」
空気が変わる。
アリシアの周りに、明らかな圧が生まれる。なぜ? だなんて聞かれるまでもなく、殺されていたかもしれない空気。
今ここで自分が殺されてしまったら、父はどんなに悲しむだろうか、想像するのも嫌だ。
けれど、ここを譲ってしまったら、何もかもが消えてなくなってしまうような気がする。
――まあ、ただ殺されるなんてのもごめんだが。
「おまえの言う通り、わたしの歌は美しい。そこに疑いはないわ。けれど、仮におまえのために歌ったとして、そんな物に美しさなんてないの」
「――続けろ」
「歌はわたしの魂。わたしは誰かに自分の魂の欠片を届けてるの――。わたしの中にある、夢にかける想い。わたしを取り巻く全てから受け取った、そんな一欠片を、わたしは音に乗せて伝えてる。でも、わたしの魂はわたしだけのもの。それを誰か一人に向けるだなんて――濁るわ」
言葉を尽くす。
なるべく強い言葉で。おおげさに。誰かにむけて、『おまえ』だなんて初めて使った。
逆上するでもいい、感心するでもいい。とにかく、どこにでもいいからベルカントの気を逸らせることが、アリシアの狙いだ。
「ほう――」
ベルカントの目が、初めてアリシアを捉える。
アリシアの今の語りは、咄嗟に思いついたことをそれっぽく、おおげさに、言ったものにすぎない。
けれど、咄嗟だからこそ、その言葉の奥底にはアリシアの本心がある。
今のアリシアにそれを自覚する余裕はないが、歌は魂――その所有者は自分。そしてその欠片を誰かに届けている。それは確かに、アリシアの美学と言ってもいいものだ。
だから、ベルカントは感心する。アリシアという個人を視界に入れる。
目的だけに向けていた、意識がぶれる。それをアリシアは見逃さない。
もしも何かあった時の護身道具――そう呼ぶには若干物騒なそれを、懐に手を入れて握る。
「お前――名前は?」
「…………アリシア」
少し躊躇い、名を告げる。どうせ自分は有名人。調べればすぐにわかることだ。隠す意味はあまりない。
アリシア――。ベルカントはその名を反芻する。
「ボクは名前はベルカント。俗にいう魔女ってやつだ。美しいものを、探している」
聞いていない。見ればわかる。聞いていない。
ベルカントの体が、様々な装飾品と共に揺れる。
「なあ、アリシア――」
そのまま一本踏み込んでくる。何を言うつもりなのか、なにをするつもりなのかはわからないが、考えている時間はない。
アリシアは懐で握っていた球体を、ベルカントに向かって投げた。
顔に当たる直前、ベルカントの前に細い影が走る。その鋭利な影は、白い球体を簡単に二つに分けた。
そして、中に入っていた液体が飛び散りベルカントの顔にかかる――。
『アンタも随分有名になったものね。これ、持っときなさい。護身用よ』
と、世話になっている知り合いに持たされたその玉は、護身どころでは無い。中に入っているのは、強力な酸性の液体で、人の皮膚に当たれば一溜りもない。
何度か受け取りを拒否したが、あまりにも持っておけとうるさいので仕方なく受け取ったのだ。
アリシアとて、いくら荒れていても、万が一への備えぐらいは用意している。それがこれだった。
ただいくら襲われたとしても、アリシアの性格から見て人に投げつけることは出来ないだろう。
けれど、相手は魔女。元々何をしようが誰にも文句は言われない。そしてアリシアは今回襲われた側だ。
自分の手で目の前の男がどうにかなったとしても、受ける罪悪感は最小限で済む。
目の前で今から起きるであろう悲惨に、アリシアはぎゅっと目をつぶる。すぐに逃げるべきだったのかもしれない。けれど、やってしまったことへの重圧で動けない。そして、ベルカントが自分の失敗に気がつくよりも早く、辺りは地獄へと変貌した――。
「――くっせええええええ?!?!」
「くっさああ!?!?」
二人の叫び声がこだまする。
もしここが人の集まる場所ならば、テロ扱いされてもおかしくはないほどの悪臭が、辺りを包んだ。
「オウェッ! ゲホッゲホッゲホッ――がぁ?!」
液体を直に浴びたベルカントは、先程までの凛とした佇まいの一切を崩し、のたうち回っている。
だが液体を浴びた皮膚は爛れることもなく、綺麗なままだ。
「ぐぇっほ……! なにっ……これっ………!! おぇ」
耐えられないと、よろよろと歩きながらその場から離れようとするアリシア。
やっとまともに呼吸ができる位置まで来た時、どっと膝を付く。
「はぁ……はぁ……はぁー………」
息は荒い。不愉快な涙がとめどなく溢れてくる。吸った息の倍は吐き出さないと、そのまま死んでしまいそうだった。
離れた場所からは、まだ魔女の絶叫が聞こえてくる。それこそ、あのまま死んでもおかしくはないというふうに。
「あの野郎……」
普段の爛漫な姿からは、到底似つかわしくない悪態が、思わず口から出た。
ただ今は、綺麗な長髪は乱れ、憎悪を滾らせた復讐者のような風貌になってしまっているが――。
あの野郎とはつまり、アリシアにあの護身用の玉を渡した知り合いのことだろう。
ああ、そうだった。よく悩み相談に乗ってくれているものの、それが何度救いになったかわからないものの、あの男は性格が悪かったのだ――。
強力な酸だといって渡されたものは、強力な酸などではなく――では何かということは、今の惨状が示している。
ただただ強烈な悪臭を放つ液体だ。
かつて薬師をやっていたことがあるという知り合いの、完璧な調合による激臭。
今までのことから、アリシアの身を案じてそれを渡したのだということ、そしてもしもいざという時が来た時に、今のような状況になったら面白いだろうなという悪意。その両方が知り合いの本心だろうということがわかる。
感謝するべきか、憎むべきか。どちらにせよ、あの男は腹を抱えて笑うだろうということは理解出来た。
未だにまともな言語を発することが出来ていない魔女を遠目で見やり、若干の同情を覚えながらも、アリシアはその場を去る。とりあえず、この服は捨てなければならないなと、染み付いた匂いに眉をひそめながら――。
「はあ――はあ――あぁ――――」
目当ての少女が影も形も見えなくなってしばらく、ベルカントはようやく自分が生きていることを確認しながらゆっくりと呼吸を繰り返す。
魔女である自分の人生は、楽とは言い難いものだが、それでもここまでの苦痛を感じたことは無かった。いっそ、体が吹き飛ぶ爆弾とかの方がまだマシだった。
ああでも――
ベルカントは思う。わずかな会合。聴いた歌、聞いた言葉。そしてこの目に映したアリシアという少女――見た目通りの赤く、燃えるような情熱を宿した歌姫。
「くくっ……くっひはははははは!!」
ベルカントは――美しいものを求め続けていた魔女は笑う。
人間は醜い。それがベルカントの根底にある価値観だ。だからこそ、彼は美しいものを求めた。積み上げた自らの感性にしたがい、美しいと思うものは、できる限りはその手に収めてきた。
そんな生き方を十数年続けて、一人の人間にこのような感情を抱いたのは初めてだった。
愉快で愉快でたまらない。まんまと一杯食わされたことに対する怒りなどない。だってそうだ。歌だけではない。誰かの名前を自分から聞いたのだって、初めてだ。
あの情熱に感化されるように、ベルカントの胸にも火が灯る。
呟く言葉は、彼の中に蠢く全て――。
「ああ、美しい――」
「ただいま……」
「――ああ、アリシアかよく帰ってきた! 悪いがオレは今から仕事で出るから、くれぐれも外に出るんじゃないぞ!」
重たい返事をして帰ってきたアリシアだが、そこに構いきる余裕もないほどバタバタした様子の養父――アッカ。
彼は街の衛兵で、筋骨隆々の衛兵三人組、アッカ、サータ、ナーと言えば中々の有名人だった。
そんな彼が、こんな夜中に急な呼び出し、なにか事件だろうか。まさか先程の魔女が――
「な、何かあったの……?」
遠慮がちにそう尋ねてみる。慌てている今の父に、とてもじゃないが今しがた魔女に襲われてきたなどとは言えない。これ以上心労を増やすと泡を吹いて倒れてしまいそうだ。
「あー……その……な……」
動きを止めたアッカ。しかし、歯切れが悪い。
アッカはアリシアに向き直る。その顔は、仕事人の顔から娘を心底心配する父親の顔になっていた。
「心は落ち着いたか……?」
「だいぶ。ごめん心配かけて」
正確には、それどころではなくなったというのが正しいところだが。
「一応言うが……これはお前にとっても辛いことだと思う……だが言っておかなければならいことでもある。くれぐれも、今からオレがいいと言うまでは外に出ないこと。明日の仕事はオレの方から断って置いたから大人しく家にいること。それから――」
「大丈夫、大丈夫だから早く言って!」
少し苛立つ。心配してくれるのはありがたいが、そこまで子供扱いされたくもない、微妙なお年頃だ。
普段ならここでもう少し言い合いになるものだが、アッカの方は今余裕がない。なので、簡潔にそれは伝えられる。
「六年前――。お前を攫って売ろうとした組織のリーダー……サルジーアさんのところの元スカウトマンの男が脱走した」
「うそ……」
タイミングがいい……いや悪いのか、にもほどがある。
わたしが一体どんな悪いことをしたというのか。
この場でくずれ落ちるのは、父にかける多大な心労を考慮してなんとか踏みとどまった。
とりあえず、父が出ていくまでは何とか平静でいなければ――。
「お父さん――。あたしのこと、守ってね」
「当たり前だ」
一切の間がなく、そんな返答がくる。力強く、頼れる言葉だ。
正直、その脱走した男がどんな人間なのかアリシアにはさっぱりわからない。狙われれば対策のしようもない。けれど、父が守ってくれるのなら大丈夫だ。そう思えるぐらいには、アリシアはアッカに対して信を置いていた。
扉に手をかけ出ていこうとするアッカ。けれど、その動きが止まる。なにかを言おうが言わまいが思案しているようだ。
「あー……その……アリシア……」
アッカは思案する。
娘は年頃だ。こういうことを言っていいのかどうか――多分駄目だろう。けれど、自分が言わなければならない。自分以外はきっと誰も言わないことだ。
普通ならば、いい。けれどアリシアの立場を考えると、それは死活問題になりうる。
だから、例え娘からの軽蔑を喰らおうとも自分が言わなければ――。
「なに?」
「いいにくいんだが……その……」
そんな父をみて、彼がなにをして言おうとしているのかアリシアは察する。
こんな時でさえ、そんな心配か。大きいのか小さいのかわからない父だと、アリシアは軽く笑う。
「大丈夫――臭いのはわかってるから」
「そうか……。くれぐれも外には出るなよ」
扉が閉まり、家にはアリシア一人になる。
そこでようやく、本日何度目かはわからないが、地面にへたりこんだ。
服の袖を鼻に当てて、とりあえず風呂に入ろうと思う。
とりあえず、一日を総括して、
「さいっあくの誕生日ね」
そうぼやいた。
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