第9話

 炎に照らされる『憲兵』のアバターを見下ろして、レヒトは肩で息をついた。

 相手はもう虫の息だ、今ならこいつを破壊することが出来る。


「殺さないのか」

「殺してもログアウトできないんだよ、このゲームは」


 彼は首をぎこちなく動かして、自分の体を確認した。

 アシュの手は、両手剣をぎっちり掴んだまま、ぷるぷると小刻みに震えていた。


「早く殺した方がいい。この体はどうやら、赤いアイコンを持つプレイヤーを排除するよう性格付けされている。いまもお前を攻撃しようとしているみたいだ」

「そうみたいだな……レッド・プレイヤーというらしい」

「俺の体は、一体どうなっているんだ。ここは、別のゲームの中なのか」

「ライジング・フロンティアっていう、RPGの世界だ。お前はアシュじゃない、アシュの亡霊だよ」

「亡霊?」


 レヒトはほとんど説明をしなかったが、『心理エンジン』の開発者であったアシュは、なんらかのバグで亡霊が出現する可能性があることを、すでに知っていたようだった。


「……実験の初期段階でも多く見られた、『特異経験』という奴だな」

「『特異経験』?」

「NPCがひとつの経験をすると、『心理エンジン』は、同じ経験をしたプレイヤーの脳の反応をいくつも収集して、その平均値からNPCの思考の傾向を決定する。……『特異経験』は、そういうデータの取得が困難な経験のことだ」

「つまり、俺たちのデスゲームは、俺たちしか経験できなかった、というわけか」

「そうなるな……」


『デーヴィッド・スリング事件』の影響を受けて、アシュとゲームを共同開発した会社は倒産していた。

 今はアメリカの大手IT企業に吸収され、『心理エンジン』がそのまま流用されていると噂されていたが、あながち間違いではないのかもしれない。


「あのときの俺たちはゲーム世界で死ねばどうなるか、まるで予想がつかなかった。少なくとも、今のプレイヤーは前例を知っているから、今の状況がどういうものか、ある程度の予想がつく、そこに差があるわけだ……レヒト、これを受け取れ」


 アシュは、剣を掴んでいた手を放すと、顔の前に掲げた。


【経験値200000ポイントを獲得しました】


 レヒトは視界に映った文字を、奇妙なものを見るようにじっと見入っていた。

 経験値のことは、レベリングをしている最中にレニに教わっていたのだが、ゼロがずいぶん多い気がする。


「これはなんだ」

「なにかは知らんが、このNPCはプレイヤーにこいつを与える権限を持っているみたいだった……たぶん、お前が持っていた方が役に立つだろう」

「ああ、わかった」

「なるべく急いでくれ、身体が動き始めた」


 レヒトは経験値を受け取ると、アシュの胸元に剣先を押しつけ、そのまま攻撃スキルを発動させた。

 アシュの身体は薄もやのようなパーティクルに分解されて、やがて消えた。




 アシュとのひと騒動を終えたレヒトは、ひとまずこのことをリアル世界にいるレニに報告することにした。


 病院にポテトを持っていくと、ベッドの真ん中にパーティ開きにして、2人でそれをはさんで座った。


「ゲームを作るにあたってね、レヒト君とミウちゃんにも協力してもらうことになると思うの」

「協力?」

「そう、TRPGをしてもらうの」


 レニは、今もベッドの上にゲーム制作の教科書を伏せていた。

 勉強のためによほど糖分を必須としていたらしい。

 ポリポリ、とハムスターのようにポテトを食べながら、レニは言った。


「RPGの人工知能がロボット並みに高度になると、ゲームの製作はTRPGに限りなく近づくのよ」

「TRPG、というのを俺はよく知らないな」

「すごーく高度なすごろくを想像したらいいわ。レヒト君はすごろくって知ってる?」

「すごろくか……一般的な知識としてはあるが、やったことはあったかな……」


 うーん、と記憶をたぐるレヒト。

 といっても、幼いころの記憶などほとんどないのだが。


 目の前にいるレニは、現在グレイシーが間借りしている天使アバターのレニではない。

 リアル世界の女子高校生のレニ、リアルレニの方だ。


 ベッドのわきには車いすが置いてあるが、やはりほとんど外出しないらしく、色白の肌は日を浴びると溶けてしまいそうなほど白い。

 首には小型モーファードを巻き付けてある。

 Caroの審査を受けているので、危険はないだろうが、やはりモーファードは現代では必須のデバイスである。


 天使アバターのレニとはまた違うが、可愛い、と思う。


「すごろくの盤面を作るのは、GMっていう役割の人。サイコロの出目によって、どのマスでどんなイベントが起きるかを何パターンも考えておくの。プレイヤーっていう役割の人が、それぞれの役割に応じた選択や行動をして、みんなでストーリーを仕立てていくの」

「つまり、そういった事のほとんどをNPCに考えさせるのが今のRPG、ということか……じゃあ、お前は何をするんだ?」

「映画監督みたいに役者に指示を出して、手直ししていく感じかな。VR世界はリアルすぎるから、アバターの動作をひとつひとつ作りこんでいくと何カ月もかかっちゃうのよ。けれど毎月新イベントは立ち上げたいから、自分の事は自分で考えてくれる賢いNPCを採用する必要ができたの」

「昔のゲームはどうやっていたんだ? みんな手作りだったんだろう?」

「話すボタンを押すと、決められた文章を喋るだけだったから、割と簡単だった」

「なんかシュールだな」

「昔はそれが当たり前だったわよ」


 レヒトは、同じ事しか喋らないNPCというものをイメージしてみた。

 喋ることのパターンが増えただけの今のNPCとは、ずいぶん違う気がする。


 ちなみに、病院へのポテトの持ち込みは楽勝だった。

 あれほど欲しいと思っていたジャンクフードだったが、グレイシーの体だとあまり食欲をそそられない。

 感情や嗜好は体内で分泌されるホルモンのバランスに影響される、その支配権を持っているのはグレイシーだ。


 リアルレニは、レヒトの事を食い入るように見ていた。

 彼女は、よいしょっと座る位置を変え、レヒトに体を近づけた。


 体温をすぐ隣に感じて、心臓が高鳴るのを感じた。

 どうも人間の体を持つと、さまざまな雑念が浮かんでくるものらしい。


「そっちは、どんな感じ?」

「いちおう、ギルガメシア帝国に入った」

「えっ、レヒト君、もうレベル20になったの?」

「『憲兵』を倒したら経験値を200000ポイントほどくれた」

「もうなんでもありね、レヒト君は。絢爛武闘会が開催されるのは毎週土曜日だから……」


 リアルレニは、指をおって日数を確認していた。

 見に来られるわけでもないだろうのに、妙にそわそわして気にしている様子だ。


「お弁当、作ってあげたいんだけどな」

「部活の試合じゃないんだぞ?」

「このゲームじゃ、大事なのよ?」

「そうなのか」

「レベルアップすると体力とスキルが全回復するから、ここぞというタイミングでレベルアップするのに、みんなお弁当を作っていくのよ」

「ああ、そうか」

「あえてレベル最大にせずに手前辺りをキープしているプレイヤーは、たいてい完全回復のチャンスを握っているわ。レベル最大になって解放されるスキルもあるから、そこは読み合いという感じね。油断しないよう気を付けて」

「詳しいな……曲がりなりにもトッププレイヤーか」

「シリーズ通して遊んできたからね」


 やはり彼女がいないと、RPGの世界を歩くのは難しい。

 今のレニよりもゲーム世界にいないリアルレニの方が、豊富な知識を持っているのだ。

 もう一度、彼女とゲーム世界を冒険してみたい、とレヒトは思ってしまうのだった。


「……レヒト君、こっちの世界に来たってことは、何か用事があったの? また亡霊が出たの?」

「新しい亡霊は、今のところ出ていないよ」

「じゃあ、どうして? わかった、いよいよ日本警察に殴り込みをしかけるのね」

「お前に会いに来たんだ。それじゃダメか」


 腕まくりをしていたリアルレニは、ポテトチップスを二枚同時に口に含んだまま、硬直してしまった。

 白衣からのぞく首から上が、RBGカラーのRの値を一気に上げたように真っ赤になっていく。


「おふぅ」


 妙な息をついて、リアルレニは赤くなった顔を枕で隠した。


「どうした」


 ナースコールを押そうとするレヒトの手を、リアルレニががっしと掴んで制した。


「呼ぶな、呼ばないで」


 リアルレニは枕で隠したまま、ぶんぶん顔を振っている。

 やはり朽木レヒトのゲーム中の思考パターンから生まれたレヒトは、恋愛沙汰にはかなり鈍感にできていた。


「もう、あれよ。グレイシーさんの体ではなはだ遺憾だけど、ハグしてもいい?」

「いいんじゃないか。ここで禁止されている訳じゃないんだろ」


 レヒトとリアルレニは、お互いの体に大きく腕を回して、しっかりと抱き合った。

 自分の身体はそれよりも小さな女の子のものだったが、リアルレニの柔らかさを感じて、心が安らいだ。


「ああ、変な方向に目覚めちゃいそう……そのうちキスしてとか言い始めたら、全力で私を阻止して」

「分かった、阻止する」


 よしよし、と背中を撫であいながら、軽い気持ちで請け負っていると、病室に誰か別の見舞いがやってきた。


「じゃーん! レニ、来たったでー!」

「来たぞ、レニ」


 一人は、セレブがお見舞いに持ってきそうな胡蝶蘭の花束をもっていて、レニに人懐っこい笑みを浮かべている。

 レニと同年代の女の子のようだったが、ジーンズのツナギに髪の毛はオールバック、服装はどちらかというと男の子っぽく見える。


 もう一人も、同年代の女の子のようだったが、レヒトには見覚えのない、どこかの学校の制服を着ていた。

 先ほどの女の子とは対照的に、威圧感のある鋭い目つきをしている。


 ベッドの上にパーティ開きしているポテトをじっと見ていたので、見とがめられるのでは、と焦ったが、女の子たちは次々と摘まんで、気軽にもしゃもしゃ食べていた。

 どうやらあまり気にしないらしい。


「手術、大変やった?」

「気にしないで、全然平気」

「ゲーム断ちは身体によくないからな、気が向いたらいつでも遊びに来るといい」

「あ、うん」


 リアルレニは、少し複雑そうな表情で返事をしていた。

 彼女はレヒトの方を振り返って、2人の事を簡潔に説明した。


「なにわちゃんとレイナちゃん」

「ああ……あの二人か」

「気をつけて、レヒト君の事は、知らないはずだから」


 ゲーム世界のミラーサーバーに閉じ込められているあの二人の、リアル世界の身体だ。

 本当にその意識はゲーム世界に閉じ込められているのか、外観からはまったく見分けがつかない。


 身体を動かしているのは、脳に埋め込まれたマイクロチップのはずだ。

 だが、こうして見ている分には、今まさにゲーム世界に閉じ込められているあの2人そのものだった。


「うわー、可愛いー!」


 リアルなにわが嬌声をあげたので、なにか、と思ってきょとんとしていると、彼女はレヒトに飛びついてきた。

 レヒトの頭をぐりぐり撫でて、顔を至近距離からのぞき込んで来くる。

 まるで年下の女の子に対する扱いだ。

 実際にグレイシーは15歳になりたての年下なのだが。


「むっちゃ可愛い子がおるやん。この子は誰? レニの恋人?」

「なぜ分かったし……いや、そういう素敵なものじゃないけど……」


 しどろもどろになりながらも、にやけてしまう顔を隠せないリアルレニ。

 どうやら、こういう事態にどう言い訳するかを考えていなかったらしい。

 Caroもこういう時ぐらいサポートしてくれればいいのだが。


 リアルレイナは、ふうむ、と小さく息をついて、レヒトをじろじろ観察していた。


「当ててみようか。ネットで出会った男の子とオフで会ってみたら、実は女の子でした、という感じだな」

「うん……そんな感じ……」


 がっくり肩を落としたリアルレニ。

 さすが同人誌作家のレイナの観察眼は鋭い。


「当たらずも遠からず、といった感じ」

「未成年との交遊はほどほどにしないと、オヤジに目をつけられるぞ」

「オヤジ……尾塚令三か?」


 レヒトが反応すると、リアルレイナは肩をすくめた。


「やれやれ、こんな子も知っていたら、もう潜入調査の意味がないな。いまだにバグステップをレヒステなんて言い方してるし」

「わははー、ライジング・フロンティアでも、もう有名人やもんねー」


 リアル世界のライジング・フロンティアのことだ。

 リアルレイナはたしか、『反攻略組』筆頭の尾塚令三の娘だ。

 彼女の家に行けば、父親のリアル尾塚令三と接触できる可能性もある。


 リアル尾塚令三をどうするのかはまだ決めかねるが、ここを攻略の起点にできるかもしれない。


「そういえばレニ、今はゲーム断ちしているのか?」

「半年も現実世界にいなかったから、話題にもついて行けないし……浦島太郎の気分」

「なるほど」


 リアル世界の彼女たちはこの半年間、ゲーム世界でたびたび交遊を重ねていたみたいだ。

 ゲーム好きのプレイヤーの人格をコピーすれば、とうぜんそのAIもゲームを遊ぶだろう。


 もし、そのAIがログアウト不能事件に巻き込まれるような事件があったとしたら、どうなるのだろう。


 そのたびにマイクロチップを脳に埋め込まれ、2重、3重にAIを宿してしまうのか。

 ひょっとすると、レヒトがNPCではなくプレイヤーなのも、この辺りに関係があるのかもしれない。


「あ、そうや! 退院祝いに映画観に行こうか! 実は株主優待チケットもろてん!」

「すごい、行きたい!」

「株主優待チケット?」

「なにわちゃんは、アリストロ・メディアの株主なのよね」


 アリストロ・メディアとは、ライジング・フロンティアの制作会社のことだ。

 リアルなにわは、平らな胸をはってチケットを扇のようにふっていた。

 ゲーム世界では超絶美少女エルフの彼女がやっていそうな優雅な仕草だ。


「うち、じつはアニメの声優やってん。給料のほとんどをゲームにつぎ込んどるんやで」

「なんてもったいない」

「さすがに親に怒られてなぁ。『株主になった方が安い』ってパパが言ってたから株主になったら、株主優待ポイントが毎月1万ポイント贈られてくるねんで、うぇっへっへ」


 どうやら、ゲーム世界に閉じ込められてもずっとガチャができるのは、そういう理由があったからのようだ。

 株主になると、株主優待券などのさまざまな特典がもらえる。

 ライジング・フロンティアのようなゲーム会社の場合、ユーザーポイントが送られてくる場合もあるようだ。


 そのとき、レニはなにか閃いた様子で言った。


「ねぇ、なにわちゃん。株主って、そのゲーム会社に行って、話を聞いたりできるの?」

「お、なんや面白いこと思いついたか。できると思うよん」

「私、ゲーム作りの方に興味があるの。将来、そういうお仕事についてみたいなって思って……行ってみても、いいかな」

「おお、自称RPGのプロのレニがゲームを作るのか。それは期待できそうだな」


 2人は、リアルレニの熱意を快く受け入れていた。

 それはゲーム世界で語った、レニの夢でもあった。


 だが……そこは、いわば敵の根城だ。


 彼女の思惑がもっと別の所にあるのを、レヒトは感じ取っていた。


「レニ、まさか……」


 レヒトは、目を見開いてリアルレニを見ていた。

 彼女は振り返ると、すこしはにかんでいた。


「うん……私も、レヒト君と冒険したいのよ」




 リアルレニは、ライジング・フロンティアを製作したゲーム会社、アリストロ・メディアに乗り込んで、直接ソーシャルハックを仕掛けるつもりだった。


 危険だ、と思ったが、リアルレニは自分の意思を曲げようとはしなかった。


 そこにいるのは、なにわやレイナのような一般のプレイヤーとは違う。


 AIに身も心も支配され、『パズズ』の手足のように働いている人間ばかりだと考えてもいいだろう。


「大丈夫、そんなことを言ったら、ロボットに囲まれている病院も似たようなものだもの……心配してくれるのは、嬉しいけど」


 レニはレヒトにそう言った。

 確かに、上手くすればレヒトたちを閉じ込めているミラーサーバーがどこにあるのか、突き止めることができるかもしれない。


 レヒトは、病院から出てくるなり、レオにとびかかった。

 胸倉をつかんで壁に押し付け、噛みつかんばかりにすごんだ。


「……レニを巻き込んだのか」

「私たちは、協力を要請しただけよ。この戦いは、唯一ログアウトに成功した彼女にしかできない。彼女は快く請け負ってくれたよ」

「ふざけるな! そのために、俺をレニと会わせたのか!」

「まあ落ち着いてくれよ。彼女は普通に会社見学をするだけでいいんだ。どのみち、将来的にはそうすることになっていただろう。違うかい?」


 レオは、ネクタイを直してレヒトの腕をねじ上げた。

 グレイシーの体は非力で、簡単に抑え込まれてしまう。


「障害者雇用促進法というのがあってね、あの会社は来年度、障害者を1人雇わなくてはならない見込みだ。彼女ならば、その枠に入られる可能性も非常に高い。そこで我々Caroは、彼女のモーファードに『バックドア』を仕掛けておいた」

「『バックドア』……だって……?」


 ニューラル・インターフェースに仕掛けられた『バックドア』は、その人間の情報をすべて盗み出してしまう。

 目や耳で感じていることから、そのときの感情、思考、思い出した過去の記憶まで、文字通り、すべての情報だ。


 レヒトは急に不安になった。

 ほんとうに、この連中をそこまで信用してもいいのだろうか。

 このままでは、せっかくログアウトできた彼女を、また危険にさらすことになりかねない。


「我々に任せるのが不安だって顔をしているね?」

「……お前たちは、ゲーム世界に閉じ込められる恐怖を知らないだろう」

「ああ、知らないね。だからこそ、正常な判断が出来るのだと自負している」


 レオは、素直にうなずいた。


「知っているかい、Caroはルイス・キャロルの略なんだ」

「ルイス・キャロル……?」

「女の子が夢の世界に閉じ込められるお話を書いたイギリスの数学者だよ。つづりはちょっと違うが。信じてくれ、さまざまな困難があるだろうが、最後にはハッピーエンドで終わらせてみせる」




 ゲーム世界に戻ると、ぼんやりとした視界が少しずつはっきりとしてくる。

 全身にまとった鎧の重圧に、わずかに鼻をくすぐる、女性の胸の香り。

 レヒトを胸に抱いていた天使アバターのレニが、柔和な笑みを浮かべて迎え入れてくれた。


 リアルレニの事を思い出したレヒトは、妙な胸のうずきを覚えた。

 どうやらグレイシーの体を借りてから、新しい思考パターンを覚えてしまったのかもしれない。


 すでに彼らの居場所はギルガメシア帝国。

 岩山がちらばる交易道の途中に、トタンでできた宿屋があり、彼らはそこを拠点にしていた。


「彼女の事は心配しなくていいわ。レヒト君はゲームの攻略に集中して」

「ああ……そうするよ」


 元気を失ったレヒトの返事に、レニは肩をすくめていた。


 長い時間、他人の体を使っていたおかげか、足元が多少ふらつく。

 鉄の風鈴がいくつも垂れ下がった階段を降り、食堂へと向かうと、仲間たちがレニとレヒトにいぶかるような眼差しを向けていた。


 そこには、さきほどリアル世界で会ってきたなにわとレイナもいた。

 その視線に、レヒトはぞくり、と寒気を覚えた。

 間違えてはならない、バーチャルの世界にいるこちらの2人が本物なのだ。

 おなじ人間が2人いるような、なんとも奇妙な感じがする。


「なにしとったん?」

「なに?」

「毎日毎日、隙あらば2人でイチャイチャしよってからに~」


 なにわは、うー、と唸り声をあげて、レヒトとレニをにらみつけていた。


 みな夕食を同時に始められるように、待っていたようだ。


「羨ましすぎや、ウチもゆく先々で気兼ねなくイチャイチャできる男が欲しいわ!」

「男のプレイヤーなら他にもいるじゃない。ええと、レゴさん、とか?」

「ワンちゃんやないかい!」

「たとえ人間に生まれ変わってもレゴはやめておいた方がいいぞ」


 2人だけではなく、アマネも頬を膨らませて、いかにも不満げだった。


「アマネも、レヒトと遊びたい」

「いや、俺とレニは遊んでいた訳ではないぞ。『セックス・コンソール』というのを使っていただけだ」

「セッ……」


 ガタっと音を立ててなにわが立ち上がった。

 驚愕の眼差しを2人に向けて、口をぱくぱく動かしている。


「レヒト君、間違ってはいないけど、もっとオブラートに包んで」


 レニの顔が凄まじい朱色になっていった。

 確かに、そういう言い訳をするために同じ外装のアイテムを使っているのだが、ここまで堂々と言うとは誰も思わなかった。


「気にしないで、アマネちゃん。私とレヒト君は、ちょっと大事な話をしていただけだから」

「いいよ、なんとなく子供が聞いちゃいけない事していたっていうのはわかった」

「その通りだ、アマネ。勘のいい子供は嫌いじゃないぞ」

「レヒト君、お願いだからちょっと黙っていて」


 レニは、ますます顔を赤くしてうつむきがちになっていった。

 レイナは腕を組んだまま、顔色一つ変えずに言った。


「レニ、私たちはレヒトを主人公にしたゲームを作ることで協定を結んだはずだ。それにはレヒトの事を取材して、もっとよく知る必要がある。なのに、ここまで大部分の時間をお前が独占していたのでは、私たちは取材すらままならないではないか?」

「うぅ~、そうかも、だけど」

「そこでだ、レヒトをギルドの共有財産にするというアイデアはどうだろうか」

「それやな、そうしよう」

「共有財産?」

「レヒトを独占する係をローテーションで決めていくのだ」

「賛成」


 レニは何か言いたげだったが、共同でゲームを作ろう、と持ち掛けていたのは彼女の方だっただけに、反論のしようがなかった。

 テーブルの真ん中の席に移動させられたレヒトに、周囲のメンバーは次々と食べ物を与えていった。


「誰が食べさせるかによってパラメーターの増減に変化があるのか」

「ええから、黙って食べさせられとるんや、あーんして」

「こっちだ、口を開けろ」

「レヒト、こっち食べて」


 レヒトは、ひな鳥のようにただ口を動かして、始終それらをもぐもぐと食べる係に徹していた。

 レニもスプーンを片手に順番待ちをしながら、深く息をついたのだった。


「レイナちゃん、私、レイナちゃんにシナリオを任せるの、ちょっと不安になってきたわ」




 ギルガメシア帝国――皇居階下。

 そこにはどこかアジアを思わせる木造の屋敷があり、帝国のNPCたちが聖域と呼ぶ結界に包まれた皇居まで、延々と建物が続いている。


 翼をもったシーサーのようなキメラの狛犬が見下ろす、城壁に囲まれた200メートル四方の広場に、300名あまりのプレイヤーたちが募っていた。

 といっても、NPCのグループがほとんどで、通常のプレイヤーはレヒトたちぐらいだったが。


 絢爛舞踏会で得られる賞品は、彼らの冒険をかなり有利にしてくれるものだ。

 だが、攻略不可能とはっきりしてしまってからは、それを手に入れる価値を失ってしまっていた。


「うわぁ、こんなに参加するねんな……」

「『反攻略組』は来ていないぞ」

「そうみたいだな……絶対に邪魔しに来ると思ったのに、何かあったんだろうか?」


 なにわ達はきょろきょろと辺りを見回し、周りのプレイヤーたちを観察していた。

 レニは、レヒトだけに聞こえるようにチャットを送った。


「レヒト君、ひょっとして、何かした?」

「睡眠薬を飲んでもらった」

「なるほど、リアルの体が眠ってるのね……死んだわけじゃないわよね?」

「そのはずだ」


 レヒトが現実世界で手に入れた情報によると、リアルの尾塚令三は土曜日や休日になると、昼間からよくブランデーを飲んでいるらしい。

 そこでリアルレイナを経由して本人と接触し、睡眠薬入りのお酒を飲ませてきたのだ。


 この様子を見ると、はたして効果はてきめんだったみたいだ。


 一同が待っていると、やがて屋敷の中から現れた、金色の鎧に身を包んだ武人が、声高に唸った。


「これより、絢爛武闘会を開催する。蛇の曜日までにこの広場にいたプレイヤーは全員参加者とみなす。ここにいる者は参加者で間違いはないな」


 他のグループからは、うおおぉ、という猛々しいうなり声が響いてきた。

 いずれもレベル20台後半。

 ぶわぶわ、と身体から湯気のようなものが立ちのぼっていた。


 レヒトは「面妖な」と眉をしかめていたが、これはレヒトのレベルが高くなった証拠である。

 レベルの高い戦闘職になると、自分よりも圧倒的に強い者からは、オーラが立ちのぼって見えるのだ。


 レベル20、参加制限ギリギリのレヒトから見ると、誰もがオーラをまとって見えた。


「大丈夫よ、レベルアップの機会を握っていれば、レベル5つ差ぐらいと互角に戦えるわ」

「……だと、いいんだが」


 黄金の武人は、剣を抜くと、ギラギラと光る刀身に陽光をあびせた。


「では、はじめよ――勝者に与えられるのは、特殊ジョブ『魔剣士』の栄誉である。無事ここに戻ってこられたものこそ、相応しいであろう」


 黄金の戦士がその剣を振り下ろすと、凄まじい爆風が彼らの間を駆け巡った。


 爆風は平衡感覚を失いそうな勢いで吹き荒れ、砂埃が周囲を覆い隠した。

 レヒトやレニ達の身体も次々と浮かび上がり、他のプレイヤー達と共に空を飛んでいた。


 砂粒のように空を飛ばされる、という経験は滅多にあるものではない。

 それが剣の一振りで、となると、ますますあり得ないことだった。


 ギルガメシア帝国から遠く離れた、荒れ地の真ん中に墜落した。


 多少の落下ダメージを喰らったが、レベル20で装備もクロムの鎧となったレヒトには、大したことがなかった。

 それよりも、彼はいまの攻撃に目を剥いていた。


「なんだ、今のは」

「魔剣士スキル『テンペスト』よ」


 レヒトと共に飛ばされてきたレニは、マップで仲間の位置を確認しながらぼやいていた。


「周囲200メートルに存在する敵をランダムな方向に吹き飛ばす、一時しのぎのスキル……他のみんなは、結構バラバラに飛ばされちゃったみたい」

「FPSにも欲しいな、そのスキル。友釣りを回避するのに使えそうだ」

「友釣り?」

「敵を狙撃したら、ドロップしたアイテムを他のプレイヤーが拾いに来る。それを待って次の敵を狙撃するテクニックが友釣りだ」

「また無駄なFPS知識を手に入れちゃったわね」


 レニがにっと笑うと、レヒトも自然と顔がほころんだ。

 彼女はリアルレニではないが、彼女の役をロールプレイしているのだ。

 そこにリアルレニはいないはずだったが、素直に嬉しく思った。


「今ならできるかもしれないな。友釣り」

「まって、レヒト君。一対一の直接戦闘よりも、チーム戦の方が効率が良いわ」

「なに、RPGのレベルなんて、モンスターと何匹戦ったかどうかだろう?」


 レヒトはおもむろに立ち上がると、近くをうろついているNPCの元へと近づいて行った。


 頭上に浮かぶアイコンは白、種族はナーフリング。

 身長が子供ぐらいしかない種族で、本来はハーフリングというのだったが、初期バージョンではあまりに強すぎたために、運営からナーフ(弱体化)を食らったという曰く付きの種族である。


 頭巾をかぶり、顔をマスクで覆っているのを見るに、ジョブは盗賊だ。


 この小さなNPCも、全身にオーラをまとっていた。

 ぶわぶわ、と湯気のようなものを放って見える。

 相手とのレベル差が一瞬で確認できるのは、無駄な戦いを避けるのに便利みたいだ。


 このバトルロワイヤル期間中は、レッド・プレイヤーも通常のプレイヤーも関係ない。

 PvPになれば、レヒトの本領発揮である。

 レヒトは剣を抜くと、早足でそのNPCへと近づいていった。


 NPCの方もレヒトの存在に気づいたらしく、猫背の姿勢のままこちらにひょこひょこと近づいてくる。

 さらにレヒトを見て、奇妙な笑い声まであげていた。


「うけけけ!」


 交戦の意思は確認できたが、まだ距離は十分に空いている。

 レヒトは落ち着いていた。

 バグステップで距離をつめる必要はない、少しずつ接近しながら、剣にバフをかけていく。


 まずは、鍛冶師にジョブチェンジし、鍛錬スキルで剣に効果付与時ボーナスの特性をつける。

 その状態で、付与師にジョブチェンジし、魔力強化スキルを使うと、剣の攻撃力を1.7倍にすることができる。

 続けざまに武闘神官にジョブチェンジし、内気功スキルでレヒト自身のSTRを増加させる。


 そして再び鍛冶師にジョブチェンジし、鍛錬スキルを剣にあたえ、さらに付与師で剣の攻撃力を1.7倍にする。


 さらに槍使いにジョブチェンジし、突進スキルを発動。

 この突進状態のときは、レヒトは受けるダメージをゼロにできる。

 だが、これは距離の調整と単なるつなぎだ。


 また鍛冶師にジョブチェンジし、付与師にジョブチェンジする。

 剣の攻撃力はまた1.7倍。


 攻撃力4.913倍となった剣をもったまま、攻撃力最大の重戦士にジョブチェンジした。

 通常の2.5倍の攻撃力となるバスター・スウィングを発動。


 攻撃力12.2825倍。

 1ダース分の重たい一撃を食らったナーフリングは、腹部を押さえてその場から一瞬浮かび上がるほどの衝撃を受けた。


 ごぶぉっ、という凄まじい音がして、緑色のライフゲージが一瞬で真っ赤に染まる。


「が……はぁ……!?」


 耐えきれずに膝からその場に倒れこみ、ポリゴンの光となって空気中に霧散していく。

 まさに一撃必殺。

 ドロップしたアイテムが地面に散らばっていく。


 ダメージ総量こそ、12回の攻撃を受けたのと変わらない。

 だが、このゲームは体力を回復させるソースが多く、逃げまわるだけでも回復していくため、そのぶん体力の上限は控えめに設定されていた。

 回復の隙もないまま一度にダメージを与えられると、もろい。


 レヒトは、剣を振って周囲にいる敵を視認した。

 倒れた仲間の元に集まってくるNPCたち。

 レヒトは、それを見てにやりと笑った。


「よし、友釣り開始だ」

「レヒト君、君はRPGのレベル制を真正面から否定してかかるんだね?」


 レニは、お腹を抱えて苦しそうに笑っていた。




 砂煙をあげて近づいてくる一団に向かって、バグステップで瞬間的に肉薄してゆく。

 ――そのとき、レヒトの眼前に炎の壁が生み出された。


「空爆か……!」


 レヒトは、飛行機による空爆と勘違いしたが、ファイアウォールという魔術師のスキルである。


 魔術師の取っている手の『構え』が、両手を前に突き出す通常のものとは異なっていた。

 2本の指をそろえて顔の前にたてる、忍者のような『構え』。

 おそらく、『第二スキルセット追加』のスキルを持っている。

 魔術師がその手を左に移動させると、発動したのはファイアボールだ。


 炎の壁ごしに火の玉を飛ばす連続攻撃。

 肉眼ならば捉えきれず、危うく受けているところだったが、レヒトは常に足元に出現する攻撃範囲のラインを意識していたため、そのトリックに引っかかることはない。

 バグステップで瞬間的に逃げると、火の玉はレヒトに届く前に空中で爆散した。


 ファイアウォールは相手の移動を制限するためのスキルだ、直線的な攻撃は難しい。

 そう判断したレヒトは、壁を迂回して横から飛び出した。


 だが、それこそが相手の狙いだったらしい。

 伊達にNPCも半年間、プレイヤーたちの頭脳戦を学習して来たわけではなかった。

 飛び出した瞬間、ばちゅんっ、という音とともに、レヒトの胸当てから激しい火の粉がちった。

 どうやら、潜伏中の弓兵がそこを狙い撃ちしてきたらしい。


「……チーターがいるのか」


『潜伏』の能力を使った弓兵の攻撃範囲は、視界に映らない。

 レヒトはこの弓兵のことをチーターと呼んでいた。


 遮蔽物に隠れてもまったく問題なく、攻撃を当てることが出来るのは、FPSではチーターぐらいである。


 いったん退却を決め込んだレヒトだったが、引き返した先に、なんと先ほど倒したはずのナーフリングが立ちはだかっていた。


「お、お前は……さっき倒したはず……!」

「うぉーりゃー!」


 がつん、と胸当てに小さな剣先がぶつかった。


 見た目はほとんど何もないように見えるのだが、とつぜんレヒトの視界が真っ暗になった。

 どうやら、暗闇ブラインの状態異常を食らったのだ。


「な……なん……だと……?」


 レヒトの体力は、弓の攻撃とナーフリングの剣による攻撃で、瞬く間に削りきられてしまった。

 やがてレヒトはそのまま地面に倒れ伏したが、彼の脳裏には先ほどの不可解な現象がまだ渦巻いていた。


「なぜだ……なぜ……倒した奴が立っている……?」


 レヒトには、そこからまったく理解できない謎であった。


 レニはお腹をかかえて、ひーひー笑っていた。


「レヒト君、それは『リカバー』よ。味方を復活させるの」

「なん……だと?」


 RPGにとっては常識でも、FPSではありえない怪奇現象である。

 ポリゴンの粒子になっていくレヒトは、最後まで納得がいかない顔をしていた。


「なんという……恐ろしい、ゲームだ……これは……」




 ギルガメシア帝国の風景が消え去り、やがてレヒトは、始まりの石版の前で目を覚ました。


 目を見開くと、廃工場のような場所の奥に石碑がひとつ建っている。


 直前でセーブをした、AKドッグの石版である。

 AKドッグらしく、光機の工場からモーター音や金属加工音が遠く響いてくる。


 そこに異質な金属の鎧を身にまとった集団がいた。

 レヒトが幾たびも剣を交わしてきた相手、ギラギラと光を放つそれらは、『憲兵』だった。


 どうやら、レヒトはこの国でもレッド・プレイヤーとして認定されてしまったらしい。


 これまでは、レヒトが『憲兵』と戦うような事態になれば、過保護なレニが血相を変えて助けにきてくれたものだったが。

 今のレニは「大丈夫?」のチャットメッセージを送ってきただけだった。

 なんだか味気なさを感じてしまった。


 だがしかし、レヒトは『憲兵』たちと、もう何度も剣を重ねてきた。

 レニの記憶が、レヒトを落ち着けさせる。

 レヒトは息をついて、腰におびていた剣を手に取ろうとした。


 だが、その手は空を切り、何も掴むことはなかった。


「……む?」


 装備がない。

 レヒトはまたしても「面妖な」という顔をしていた。

 思わぬ事態に困惑していると、チャットメッセージが続けて届いた。


「大丈夫? 武器、こっちにドロップしてるけど?」


 メニューを開いて、アイテムストレージを見てみる。

 どうやら、ロストした際に10パーセントのアイテムをドロップしたらしいのだが、あろうことかレヒトの主力武器であるクレイモアがなくなっていた。


 レヒトの経験上、『憲兵』と渡り合うには、両手剣のクレイモアを使わなければならない。


 両手剣は、攻撃の発動までの時間が1.3秒とやや長いが、攻撃と同時に相手を弾き飛ばし、僅かに後退ノックバックさせる効果がある。

 これによって、相手の包囲網を崩し、攻撃範囲内から抜け出しやすくすることができるのだ。

 ステータス異常を引き起こせない『憲兵』との戦いでは、この特殊効果は必須だった。


「たのむ、それが必要なんだ。こっちに送ってくれ」


「添付アイテムがつけられるリッチメッセージは、街の外からだと送られないわ」


「相変わらず、謎なシステムが多すぎるな……」


「待って、なにわちゃんに送らせるから。それまで持ちこたえていて」


 ガチャガチャ、と冷徹な音を響かせて迫り来る『憲兵』たちを、レヒトは冷や汗をかきながら見ていた。


 そのとき、『憲兵』の1人が手を挙げた。

 他の『憲兵』たちはぴたり、と動きを止め、やがて来た道を引き返しはじめた。


 廃工場に残ったのは、手を挙げているその一体のみ。

 レヒトは、その鎧に見覚えがある。


「アシュ……お前なのか」


 アシュは、軽く頷くと廃工場から去って行った『憲兵』たちの様子を振り返った。

 まだいなくなったわけではないようだ、はるか遠巻きにその姿が見える。


「あれは『最後衛』の指示を出しただけだ。指揮系統が違う他の部隊は操れない」

「それでいい……仲間が武器を送ってくれるまで、時間を稼げれば」


 レヒトは、周辺マップやメッセージログを素早く確認して、この廃工場から脱出する準備をしていた。

 ちらり、とアシュの方を見る。

 彼は剣を杖のように垂直に立て、建物の外をじっと見張っているみたいだった。


「アシュ、『憲兵』はレッド・プレイヤーを見ると、攻撃しようとするんじゃなかったのか」

「NPCは成長するようでな」


 アシュの手は、時々思い出したように震えていた。

 いまもレヒトを攻撃しようとしているのだ。

 だが、攻撃しようとする意思は、思ったよりも簡単に制御できるものらしい。


「『心理エンジン』の基本的な成長システムのひとつだ。脳は一度体験したことを追体験しようとする……あのとき戦闘せずに会話したのがよかったらしい」

「なるほど……確かに、俺も似たような成長をしているような気がするな」


 かつて感じていた、抑えきれないほどの恐怖。

 それがレニとの経験を通じて、徐々に薄らいで来ている。


 レヒトとこの世界を結びつけたのは、この恐怖の経験だったはずだ。

 それが、新たな記憶によって上書きされつつある。


 もはや、彼は朽木レヒトではない、まったくの別人と言っていいのかもしれない。


「この世界のNPCも、いずれそうなるんだろうか?」

「そのはずだ。もともと自動成長するAIは、半数以上のプレイヤーが差別主義的な発言を使っていたり、攻撃的なプレイイングをしていたりする環境では、それを学習してしまう。そのために定期的な調整が必要なのだが、このゲームは管理者の手を離れて久しい」


 すでに半年。

 このくらいの期間があれば、NPCがシステムを覆すような成長をしていても、おかしくない、とアシュは言っていた。


『パズズ』のように、自分の与えられた役割を放棄する、ロールプレイングの枠組みを超えたNPCが現れる可能性がある。


 居並ぶ『憲兵』たちをじっと見て、彼らの中にもすでに変化が現れているかもしれない、とレヒトは考えはじめた。


「ゲームの管理者が消えることは、NPCたちにとっても異常事態だ。……地球から神が消えることに等しい」


 アシュはそう言って、胸の前で十字を切った。

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