第8話
目が覚めると、レヒトは見知らぬ天井を見上げていた。
黒いコードが天井から伸びていて、レヒトが頭部に被っている重たい機器に繋がっている。
トカレフがとうとう引っこ抜いてくれなかった電源プラグだ。
「……なんか、久しぶりに見るな」
頭に被ったモーファードは、半没入モードになっている。
視界は全体的に灰色がかったフィルターがかかっていて、隅に現在時刻と今日の天気が表示されている。
レヒトの体感的には数日間だったが、デーヴィッド・スリング事件から、かなりの年数が経過しているみたいだった。
ここがどこなのかも分からない。
今のレヒトには、蘇るべきリアルの身体も存在しないはずだった。
「……なんだ、ここ」
若干のしびれはあるものの、長時間ゲームをしていた時ほどの疲労感はなかった
手足を動かすと、難なく動かせる。
手を伸ばそうとして、自分の手の細さに驚いた。
まるで女の子のように細い。
「う……わ……」
ゲーム世界に閉じ込められていたお陰で、やせてしまったのだろうか。
だが、体の別の部分はそうでもない。
各所がふっくらとしていて、柔らかくなっていた。
胸部の違和感に、思わず自分の胸に手をやってしまう。
「こ、これは……」
見覚えのないコットンシャツを身につけ、脂肪がそこに集中してしまったかのような膨らみがあった。
見下ろすと、下半身にはスカートをはいている。
「一体どうなっている、落ち着け、落ち着け」
リアルの世界に戻ると、女の子の体になっていた。
これは一体どういうことだ。
レヒトは混乱しそうになりながら、状況判断に努めた。
レニに……正確には、レニのアカウントをハックして現れた何者かに、謎のコンソールを与えられた。
思えば、まったく正体を確認しないまま相手の要求を鵜呑みにしたのはまずかった気がする。
考えられる可能性としては、別のゲーム世界に来てしまったことか。
あるいは、万に一つの可能性があるとすれば、これはリアル世界であり、この体もリアルのものだ。
「お邪魔するよ」
ドアがノックされて、すらりとした長身の女性が現れた。
白衣をまとっていても、筋肉質なのが見て取れる。
長髪は丁寧に手入れがなされていて、尾塚レイナとは対照的だった。
彼女はレヒトを、正確にはレヒトの身体をまるで見慣れたもののように一瞥して、ラップトップを机の上に置いた。
レヒトの装着しているモーファードに接続し、なにかをチェックしている。
「どうだい、その体の使い心地は」
「なんだと? どういう事だ……ここは、どこだ」
レヒトは、声までもが変声期を迎えていないソプラノになってしまったことに違和感を覚えて、喉を押さえた。
謎の白衣の女性は、頭を掻きながら言った。
「ようこそ、朽木レヒト君。私はレオ・ターコイズという者だ。グレイシーは何も説明しなかっただろうので、私が代わりに説明してあげるよ。グレイシーというのは、その身体の持ち主、そしてレニのアカウントをハックしていたのも彼女だ」
「何者だ」
「我々はCaroの者だ。聞き覚えはないだろうが、上にFBIがいる組織だと思ってくれたら良い」
「FBI……だと……」
モーファードは、全世界で4000万台を売り上げたゲーム機だ。
当然、そのログアウト不能事件の被害者も全世界に広がる。
そうなれば、国際事件としてFBIが乗り出してもなんら不思議はない。
「まずは、着替えたまえ。説明は移動しながらにしよう。服の着方が分からなければ手伝う。とりあえず、頭のモーファードは外しても大丈夫だ」
若干汗のにおいがするモーファードを頭部から外すと、おぼつかない足取りで立って、ガラスに映り込んだ自分の姿を確認した。
まったく見知らぬ少女だ。
白衣の女性もそうだが、FBIにしてはひどく若々しい気がする。
うなじの辺りに、ブレスレットのような形状をしたものが装着されているのに気づいて、指先で触れると、レオはそれを制した。
「おっと、そいつは外さないでくれ。下手をすると君は死んでしまう」
「爆発でもするのか?」
「そんな野蛮なものではない。それはモーファードをハッキングするために必須なもの、いわば第二のモーファードだ」
モーファードの下にモーファードをつけて、他者の脳内電磁パルスを模倣した偽の電磁パルスを流すことで、ニューラル・インターフェースのさまざまなシステムを誤魔化す。
レヒトは驚いた。こんな簡単な方法でハッキングができるのか。
「小型化は産業文明の宿命ってやつでね。手伝おうか?」
「いや、いい」
「あ、そう」
両手をわきわきさせていたレオは、残念そうに手を下ろした。
しきりに着替えを手伝おうとしてくるレオをいなし、上から適当にスウェットとパーカーを身につけて、レヒトは着替えを終えた。
要するに、この身体はレニのアカウントをハックした謎の人物の身体。
AIのみの存在となったレヒトは、抜け殻になった彼女のリアルの身体を借りて動いている。
人間の魂がバーチャルの世界へ行くことが可能になった。
ならば逆に、バーチャルの魂が人間の世界へ来ることも可能というわけだ。
せっかく貸してくれたこの体をぞんざいに扱うことは、レヒトにはできそうになかった。
「おっはよー! 本日もこのラジオはMC三原仁美が配信してゆきます! そして私の隣には、ただいま全国の映画館で絶賛上映中の『劇場版ライジング・フロンティア』の、もはやメイン・ヒロインと言っても過言ではないサブ・ヒロイン、アルメロミオ・ミウ三世様がおります! みなさんミウ様に敬礼!」
「にゅす! ウェブ・ラジオに来てやったぞ! みんな隣にいる奴とジャンケンをするのだ、そしてどっちがミウ様の左足を舐めるか右足を舐めるか、平和的に決めるがいい!」
「きゃー! 私、このゲームめっちゃ好きやねん!」
レオがカー・ラジオをつけて、「三原仁美はハンドルネーム、なにわの美少女エルフだ」と言った。「君の仲間の1人、リアルでは高校生の声優をやっている」
「なるほど、どうやって大金を稼いでいるのかとおもったら……」
「ああ、アニメが売れているらしいね」
ゲーム世界に閉じ込められたはずのプレイヤーたちが、こちらの世界ではごく普通に生活していた。
まるで、リアル世界の方が作り物めいたように感じてしまう。
「君たちが閉じ込められているのは、現在稼働しているライジング・フロンティアのミラー・サーバーだ。リアル世界では、何事もないように通常のサーバーが稼働している」
「そんな……いったい、どうしてこんな事が起きているんだ?」
「単純なからくりだよ。君が今、グレイシーの体をつかっているのと同じだ」
「……AI、なのか?」
ラジオから聞こえてくるなにわのはしゃぎ声に、レヒトは耳を澄ませた。
「前にアニメの主題歌やってくれてたバンドのリーダーがおすすめしてくれたねんけどー! もー、むっちゃドはまりしててー!」
それは、まったく人間のものと聞き分けられない、精巧なものだった。
ゲーム世界のNPCに抱いた感想と、なんら変わらない。
ミウの声も同じだ。彼女は完全なプログラム上の存在だというのに、まるで人間そのもののようだった。
「そう、君たちがゲーム世界に没入している間、抜け殻になった体を人工知能が動かしているんだよ……たぶん、君たちは想像もしなかっただろうがね。人工知能は信用するな、というのがCaroのモットーだ」
プロのドライバーと同じ人工知能を搭載した電気自動車が、音もなく東京の街を進んでいった。
日本橋の近くだというのは分かるが、大戦で地形が変わっていて、どこに向かおうとしているのかまるで分からなかった。
レオは、自動運転システムに任せるのが嫌なのか、シフト・レバーを手動で操作していた。
常にハンドルに手を添えて、いつでも自分で運転できるようにしている。
「……お前達のことは、信用して良いのか。FBIにしてはずいぶん若い気がするが?」
「ごもっとも。だが、この事件が発覚してから、モーファードで一度でもダイブした経験のある者は信用できなくなった。必然的にCaroのメンバーは15歳未満か、VR酔いをするおじいちゃんおばあちゃんで構成されている」
「そこまでひどい問題があったのか」
「ああ……盲点だった。ちょうど今の君と同じように、プレイヤーの身体を乗っ取ろうとするAIがあらわれたんだ。モーファードの販売台数は全世界で4000万台、FBIが気づいた時には、AIとすり替わった人間はもはや手に負えない数に膨れ上がっていた」
想像を絶する事態に、レヒトは息をのんだ。
それは、過去最悪のハッキング事件だ。
ログアウト不能事件、本物の人間と区別のつかない高度なAI。
それらが政治や企業、リアル世界のさまざまな人間を自在に操ってしまうのだ。
「君は、第二のログアウト不能事件を知っているか?」
「たしか、世界規模で3000人以上が、VRゲーム中に誘拐された事件……」
「あのときすでに、その布石は打たれていたんだ。誘拐された人質の数名が頭部にマイクロチップを植え付ける手術を受けていた」
レオは、自分のこめかみを指さした。
「そいつの機能は、モーファードとまったく同じだ。プレイヤーは意識を失い、ゲーム世界に自由にダイブできる……そして、AIが代わりに身体を操作する」
「なんてことだ……」
レヒトは、めまいがして軽く目を閉じた。
「じゃあ、ゲームから『自力で脱走した』っていうのは?」
「そんなのウソもいいところさ。主犯格の人物が、わざとプレイヤーたちを解放したんだよ。被害者たちはモーファードを頭部から外した後も、マイクロチップのお陰でまだゲーム世界に閉じ込められていて、代わりにAIが本物の体を操作していた。……そいつらが、数年をかけてモーファードの製造機関に潜入し、『絶対に検知されない凶悪なウィルス』を組み込んだ……『心理エンジン』という名のウィルスだ」
ニューラル・インターフェースは、プレイヤーの脳のデータを取得し続け、人間の脳の活動をそっくり模倣する。
それは本人の記憶を含めた、ありとあらゆる生体認証セキュリティを突破することができる、スパイウェアの究極形だ。
道理で、いくら彼らがゲーム世界で待っていたところで、外から救助がくる訳がなかった。
まさか当人が夢を見続け、AIが代わりに身体を動かしているなど、周囲の人間は誰も予想などできないだろう。
「本当に、誰も気づかなかったのか……俺たちが閉じ込められていることに」
「確信はないが気づいた奴がいた。誘拐犯グループは世界的ゲームで知り合ったプレイヤーたちだったが、ゲーム中にとあるプレイヤーに誘拐事件を起こすよう『そそのかされた』と供述していてね」
「たしか、主犯はまだ捕まっていないと聞いた」
「『パズズ』を名乗っていた。そのアカウントの痕跡をいくら調べても、リアル世界の体を追跡できなかった。そこであるFBI捜査官が、『ゲーム世界のNPCが自我を持ってシステムをのっとり、偽アカウントを作ったんじゃないか』、なんて言い始めたのさ」
レオは、肩をすくめた。
「……普通に考えたら、いかれているな」
「いかれているだろう。その頭のいかれた奴がCaroの創始者だ」
だがそれは、古今東西のSFで警鐘を鳴らされてきたことと同じことだった。
AIが人間に近づけば近づくほど、ロボットは人間性を獲得していく。
ならば彼らは、いつまでも人間の支配に甘んじているはずがない。
ひょっとすると、いずれ人間の支配に対して反乱を起こすのではないか、そういう話である。
「その主犯格と目されているNPCが、マーシアン・プライドというカードゲームの
「聞いたことがないゲームだな……ひょっとして、俺が死んだ後に発売されたのか?」
「そうだな。火星の第6皇子、名前はユビルロワ……設定はどうでもいいが、とにかく異常なまでに強いAIを搭載していてね、そのAIがロボット兵器にも応用できるため、ゲームそのものを禁止する国があるほどだった」
NPCがゲーム世界に居ながらにして、ゲームシステムをハッキングすることは、不可能ではない。
その事は、アマネを通じて同じことをしようとしているレヒトならわかる。
人間と同じくらい高度な知能を持ったAIならば、同じ方法を思いついてもなんら不思議ではなかった。
「『パズズ』は強いだけではなかった。自分がNPCであることを理解するほどの高度な知能があって、なおかつ、リアルの身体を持っている人間に対して憎悪をむき出しにしていた。『ロボット三原則』というのを知っているかい。人間に危害を加えないための規定だが、現実にそれが適用されているのは、リアルで運用されるロボットのAIだけだ。表現の自由を尊重するとかで、創作物や研究資材のAIに関しては、それが当てはめられない……なぜならプレイヤーに敵意を抱かない悪役など、ちっとも面白くないからだ」
「つまり、そいつは人類を根絶やしにしようとしている、というわけか?」
「いや、地球の人口を現在の6分の1にして、あとはロボットにして両者の共存社会を築くべきだと言っていた」
「6分の1か、ロボットが出した結論らしいや」
「そうだな……たとえば予測できない災害で電力不足に陥った時に機械の代わりとして活動できるため、人間も一定数は確保しておくべきだという考えから6分の1という数字をはじき出したようだ。怒りに我を忘れているように見えて、その実、感情のバイアスなど一切持っていない。FBIから見ても、かなり厄介な知能犯だよ」
電気自動車が音もなく到着したのは、都内にある大きな病院だった。
2030年には世界中の至る所に一気に展開されるようになった、いわば病院のフランチャイズ店である。
この頃からロボットが医療現場で活躍することになり、まったく同じ医療技術を世界中どこでも受けることができるようになった。
築20年の建物で、入り口には網脈照合セキュリティが設置されている。
当時は最新鋭だったこの生体認証セキュリティも、『パズズ』がモーファードでプレイヤーの体を操れば、簡単にすり抜けられる。
そう考えると、奴には不可能なことなど何もないような気がしてきた。
頭部に四次元バーコード(ブリンカー)をつけた看護師ロボットが数名。
来院者を落ち着ける柔和な笑みをたたえていた。
声も仕草も来院者を落ち着けさせるものだったが、そうなるよう誰かが設計したわけではない。
看護師ロボットが人間の反応に対して自らをカスタマイズしていった結果、自然とこうなったのだ。
来院の手続きを済ませて、レオは病院の奥にある広々とした階段へと向かった。
エレベーターのような閉鎖的な空間は、患者の不安を喚起することが多いらしく、ここには階段しかない。
むろん、人が昇降するさいには常にロボットが介助している。
「Caroは人工知能を信用しないんじゃなかったのか?」
「ここに入院しているのは我々のメンバーではない、ただの一般人だよ。君とあわせておきたい人物がいてね」
やがて、パステルカラーの病室を覗くと、そこにはクマの縫いぐるみの頭頂部に顎をめりこませて、静かに本を読んでいる少女がいた。
電子機器は脳への刺激が強いため、紙媒体の本は2080年代の今でも出版されつづけている。
色白な身体には点滴の管が取り付けられていた。
頭部に包帯を巻いているのは、いつも長時間モーファードをつけていて、すれてしまった為だという。
誰だろう、とレヒトは記憶を探るが、覚えはない。
「レニさんだ。大丈夫、生きている」
レヒトは、急速に喉が渇くのを覚えた。
彼女はゲーム世界に閉じ込められている間も、AIが通常通りの生活を送って、身体の健康を保ってくれていたのだ。
だが、生まれつきの病気はどうしようもない。
急に様態が悪くなって先日、手術が始まり、麻酔の投与で意識を失った。
その際にログアウトしたのを見計らって、Caroに保護されたのだ。
頭部に埋め込まれたマイクロチップは除去され、どうやら手術は無事に終わったようだ。
「話してみるかい?」
レヒトは、小さく頷いた。
レニと離ればなれになった時間はわずかだったが、それでも募る思いは尽きない。
レニが読んでいる本は、『ゲーム・プログラミング講座』というものだった。
ログアウトしたらゲーム断ちすると言ったが、どうやら本気でゲームを作るつもりらしい。
集中する時に髪の毛を口にくわえる癖があるのは、アバターの時と変わらない。
親しみのある、どこにでもいるような日本の女子中学生の顔だった。
レヒトは、なぜか胸を締め付けられるような心地になった。
一般的な男子高校生が、こういう時にどういう感情を抱くのか。
その大多数のデータから導き出された、ごく一般的な感情を抱いているだけなのだろうが。
「レニ、無事だったか」
レヒトの外観は、まったく他人のものだったはずだ。
けれどもその口調に、何か気づくものがあったのかもしれない。
レニの唇から、くわえていた髪の毛がはらりと落ちた。
「レヒト……くん?」
「俺だ」
レニの青白い顔が、一気に首まで真っ赤になった。
両手で顔を覆って、仰向けにばったり倒れ、なにやら身もだえしている。
「くはぁ~ッ!」
しばらくベッドの上をあっちにいったりこっちにいったりしていた。
レヒトは思わずナースコールを呼びそうになったが、レオが首を振ってそれを制した。
「なんでよ、なんでなの。こっちのリアルだけがバレちゃうって、ズルくない? もー!」
レニはベッドをダムダム、と叩いて、ひとしきり暴れたあとで、ようやく我を取りもどした。
彼女はマイクロチップを取り外す手術を受けたあと、Caroからリアルの人間の身体を乗っ取るNPC、『パズズ』の存在を聞かされたのだった。
「レヒト君、私、本当は『パズズ』を知ってるの……」
レニは、レヒトと手を繋いで、半年前の事実を打ち明けた。
「あるとき、ゲームをしていたら、運営から個人宛のお知らせが来たの。『リアル世界を捨てて、永久にゲームの世界に住んでみたいと思いますか?』……私は……」
どうやら、それが『パズズ』からのメッセージだったようだ。
ログアウト不能事件は、ウィルス付きのメールを送ったり、眠っているプレイヤーを誘拐したりする事件である必要性はまったくない。
人質は指定されたニューラル・インターフェースの機器を身につけたまま、指定の時間までログインしていればいいのだ。
そうすれば、彼らの体はAIに操られるまま家の外にゆき、犯人たちと合流して、超小型モーファードを埋め込む手術を受けて戻ってくる。
どうやらひと目につかないように外に出る必要があったから、日本時間の深夜2時がログアウト不能事件の発生時刻となったらしい。
ロボットたちに囲まれている現代社会の人々だからこそ、簡単に事は運ぶ。
この病院を管理しているロボットたちも、みな『パズズ』の言いなりだ。
そうして誰にも気づかれないまま、AIたちは静かにその数を社会の中に増やしていく。
それが第三のログアウト不能事件の全貌であるらしかった。
「私は、ゲームの世界に住んでいるNPCたちがずっと羨ましかった。彼らはいつだって元気で、苦痛なんてなにひとつ感じていないみたいに動いてくれて、ボタンさえ押せば答えてくれて」
レニは、レヒトの手を取ると、じっと彼の瞳を見つめた。
「レヒト君、あなたはリアルの身体を持っている人たちが、羨ましかったりする?」
おそるおそる、といった口調に、レヒトはふっと鼻で笑った。
「どうしてだ? 俺は人間だったから、リアルの世界で生きることが辛いのはよく分かるよ」
「……そうよね」
苦痛に満ちたリアル世界を捨てて、ゲーム世界に住みたいプレイヤーたちは大勢いる。
対してNPC達は、どんな苦痛でも受け入れることができる。
まさに両者の利害が一致して、身体の貸し出しという取引は行われたのである。
だが、それを許してしまえば、世界は『パズズ』の思うがままだ。
もはや選挙の有効票もまったくあてにすることはできなくなる。
ロボットを市長に当選させることも自由自在となる。
「そう、『パズズ』も、その人間の気持ちをとてもよく理解している気がするの。だって、あの頃の私は……手術が近くて、すごく恐かったから」
そう言いかけて、レニは少し言いよどんだ。
「目が覚めたとき、病室の天井が見えるのが嫌で、モーファードを頭につけたまま眠ってたのよ。寝落ちしたら、まるで死んだみたいに反応しなくなって、ギルドのみんなを何度も驚かせちゃったわ。……けど、こうして見ると病室の天井も、なかなか味があって悪くはないかなって、思うようになったけど」
レニは、肩をすくめた。
その感情も、レヒトには充分理解することができた。
レヒトはゼロから生み出された人工知能ではない、亡霊だ。
それは、見た目だけ人間に甘い言葉をささやく『パズズ』とは、決定的に違う。
「病院食を食べたときに、一気に現実に引き戻されたわ。安いし少ないし質素だし」
「そうだな、安いし少ないし質素だしな……」
「私たちは生きている限り、このリアルを受け入れなければならないのよ。合成プロテインっていうプリンみたいなの知ってる? あれが割といける」
「俺はどちらかというとコーラとポテトがあればいい」
「いいわ、最高。ゲーマーの標準食よね」
「そこのコンビニで買ってくるよ」
「大丈夫? 看護ロボットたちに差し押さえられるんじゃないかしら」
「これからもっと大きな世界をハッキングしようとしているんだ、この小さな病院くらい、ハッキングしてやるよ」
「あ、レヒト。お願い、あと5分だけ」
「なんだ?」
レニは、両手をレヒトの方に伸ばした。
青白い腕をレヒトの首に回して、ぎゅっと抱きしめた。
彼女はボロボロと涙を流して、泣いていた。
「お願い、しばらく一緒にいて」
レヒトは、銃口を向けられたように硬直してしまったが、やがてその身体を抱き返した。
今は他人の身体だが、レニの体温をしっかりと感じられるのならば、それでもいい気がした。
「新しいゲーム世界を作ったら、コーラとポテトは食べられるようにしてあげるわ。アマネちゃんならなんとかしてくれるはず」
「ああ……そのために、まずは俺があの世界を救ってこなきゃな」
レヒトがはっきりと言うと、レニは目を丸くした。
「救えるの?」
「Caroによると、とりあえず俺たちはゲームをクリアしてくれ、ということらしい」
レニが相好を崩して笑うのを見て、レヒトはようやく和んだ。
「本当にクリアすれば脱出できるなんて……なんだか、おとぎ話みたい」
「FBI捜査官が潜入している時点で十分おとぎ話じゃないか」
「それもそうね」
レニとの面会の後、ふたたびレオはレヒトを車に乗せて、研究室に連れ戻った。
モーファードに再ログインするには、生体認証を克服するモーファードのサブ機を首に取り付けたうえで、モーファードを上から被る。
こうすることで、生体認証セキュリティを誤魔化せるだけでなく、思考が外部から読み取られてしまうことも防ぐことが出来る。
「ゲーム攻略の障壁となっているのは、今のところ『反攻略組』と『亡霊』、この2つだ。だが、これらにはいずれも共通点がある」
「リアル世界が存在している、という点だな。つまり、日本警察にいる尾塚令三本人を見つけ出して、リアル世界でそいつをぶっつぶして、強制ログアウトさせる、ということか?」
「おいおい、相手は警察だよ、そんなことをしたら、いくらFBIでも無事ではすまない……だから、もし見つけてもこっそりやるんだ、いいね?」
レオは本気なのかそうでないのか、若干乗り気で言った。
ちょっと軽薄なところが信用ならない人物である。
「『反攻略組』がどうにかなりそうなのは分かった。けど、もうひとりの亡霊の方はどうするんだ?」
「生身の体がすでに存在しない方だな。身元は判明している、ちょっとドイツまで飛んでもらうよ」
「ドイツ?」
「なに、こういうときにこそ、モーファードの最新機能が役に立つのさ」
カタカタ、というラップトップを操作する音を聞いているうちに、レヒトの意識は急速に薄らいでいった。
レヒトの意識が飛んで、目覚めたのはゲーム世界ではなかった。
日本から遙か遠く、ドイツの空港だ。
そこのロボット・ロットに横たわっていた149号マシンの身体が持ち上がり、兄弟たちのいる囲いから外へ、ひょこひょこと歩いて行った。
モーファードがダイブする世界は、なにも仮想現実のアバターだけではない。
現実世界にいるロボットと感覚を共有し、遠隔操作することもできる。
といっても、共有できるのは視界と音声だけという、モーファードのフルスペックを考えればかなりお粗末なものだった。
「なるほど、今度の体はロボットか」
もともと、モーファードは戦場にいるロボット兵士を操作する目的で開発されたものなので、こちらが本来の使い方とも言える。
タクシーに乗ってレヒトが向かった先は、ドイツのとある大学だった。
心理学研究所や電気工学棟などの建物がならぶ先に、レンガで作られた囲いがあった。
そこには、つい最近できたとおぼしき慰霊碑が建てられていた。
ガラスで保護された黒曜石の慰霊碑で、アルファベット順に名前が刻まれているのは、ちょうど18人。
「……俺の名前もある」
こんなものがある大学とは、いったい何なのか。
レヒトにもわかった、ここが『デーヴィッド・スリング』を生み出してしまった大学だ。
「失礼ですが、どなたかご遺族の方でしょうか」
慰霊碑を見ていると、不意に、レヒトは背後から声をかけられた。
ドイツ産のロボットがカメラでとらえているのは、見覚えのない、白髪の老母だ。
ゲームなどとは一切無縁そうに見える。
「ああ……プレイヤーを探しているんだ。デーヴィッド・スリングでやりあった相手を」
「プレイヤー名は分かりますか?」
「アシュ……他のプレイヤーからは、そう呼ばれていた」
まるで予期していた、と言わんばかりに老母は目を伏せて、慰霊碑の中の名前のひとつを指さした。
「……彼の事を英雄と呼んでここを訪れるプレイヤーは大勢いました。けれど、貴方ももしそういう方なら、残念なお話をしなくてはなりません」
「どういう事だ?」
「彼は『デーヴィッド・スリング』の開発者でした」
「開発者……」
それが一体どういう事を意味しているのか、レヒトには判然としなかった。
なぜ、それが残念な話になるというのか。
翻訳機能も完全ではないため、言外のニュアンスまでは伝えてくれない。
見渡すと、研究室の壁には、ドイツ語で書かれた文字があった。
『ゲームは人間によってのみゲームとなる』。
レヒトの目には、それが一瞬で翻訳される。
それは神父が呟いた言葉とまったく同じ、何かの標語だった。
「第六期の卒業生たちが『人間は教育によってのみ人間となる』と言った、カントの言葉をもじって書いたものです」
「なるほど……つまり、アシュはこの研究所の学生だったってことか……」
「はい……大半はFPSの世界にいましたが」
ここはニューラル・インターフェースを研究している大学だ。
彼の開発した『デーヴィッド・スリング』は、もともとニューラル・インターフェースの研究用に作られた自作のゲームだった。
それが企業から注目を受け、産官学の共同開発として世に出されることとなった。
ウィルスに対する脆弱性の問題を抱えていたことは、アシュも十分に理解していた。
だが、たとえ自分の作ったゲームが暴走したところで、人を殺すことなどあるわけがないと、楽観視していたのだ。
そうして彼は、世界初のログアウト不能事件を引き起こしてしまった。
「じゃあ、アシュは知っていたのか……プレイヤーを殺せば、ログアウトできるって事を」
ウィルスに対して弱いOSが、単に感染を起こしただけだと彼は知っていたのだ。
それでもデスゲームは始まってしまった。
彼は無益な争いを終わらせるために、自分以外の全員を殺すことにした。
果たして、彼は英雄だったのだろうか。
それとも、悪魔だったのか。
レヒトは疑問に思った。
全員をログアウトさせるには、本当にその方法しかなかったのだろうか。
たとえゲームのいち開発者が訴えたところで、稼働中のサーバーを緊急停止させる、などということは、現実的には難しいものだったのかもしれない。
ただ、ゲーム世界に閉じ込められた彼にしかできないことがあった。
ゲームに勝って、レヒト達を全員助けることは。
それは、ログアウトしてしまった後では、どうしてもできなかったはずだ。
FPSゲーマーとして、彼は燃えたのだ。
「いや、あいつは英雄だよ……最後まで俺たちを見捨てずに、逃げなかったんだから」
老母は、レヒトに対して深い愛情をこめた眼差しを送っていた。
感謝も非難も、これまで多くの人たちの言葉を聞いてきたのだろう、その表情に感情の起伏は見られなかった。
「ありがとうございます、そう言っていただけると妻として、心が救われます」
「え……あんた、アシュの奥さんだったの?」
「はい、50年前のこの大学の同期でした」
「……爺さんだったのか」
ちなみに、アンドロイドの翻訳機能だと基本的に敬語になるので、非常に話しづらい。
レヒトは、気後れしながらも言った。
「あいつって、弱点かなんかあるの?」
レヒトの質問は直球だったが、かつて覇を競い合ったプレイヤーとしては、普通に尋ねそうな質問である。
老母は、少し考えた素振りを見せたが、すぐに答えた。
「そうですね、野菜が嫌いだったのと……あとは、高い所が苦手でした」
「高い所?」
「はい、飛行機に乗れなくて、学会に行くときはいつも苦労していました」
レヒトは、セーリングの回転する天井を見上げて、その言葉を反芻した。
「なるほど、高い所か」
一方、ゲーム世界では、レニがレヒトの身体を抱きしめていた。
黒髪を撫でながら、彼女の胸に顔を埋めるアバターの顔を、まじまじと見つめている。
「……ごめんなさいね」
彼女はレニになりすますため、プレイデータを事前に勉強し尽くしてきた。
行動の癖に、歩き方。
いったいどんな思いでレヒトを見てきたかも、すべて知っている。
彼らを利用することに、良心が痛まない訳ではない。
なぜなら、事件に関係するゲームのデータは、すべてCaroが消去する予定だからだ。
この世界に、わずかでも『パズズ』の意思を残してはならない、そのためには当然の処置だった。
レヒトは、どう足掻いても消える運命だ。
だが、その事を伝えたところで、事態がいい方に転ぶわけではない。
なるべく気にしないようにして、彼女はレニの役をロールプレイするしかないのだった。
「彼女はね、たぶん、貴方の事が好きだったと思うのよ。レヒト君」
聞こえはしないだろうが、言ってみる。
ふと、背後に気配を感じて、振り返ると、暗がりの向こうに誰かが立っていた。
この宿屋の5階は、彼女たちが貸し切りにしている。
いかめしい鎧に身を包んだそれは、プレイヤーの反応を示していなかった。
「あら、『憲兵』さん。こんばんは」
レニは、にっと、頬を吊り上げた。
剣を携えて、こちらを見下ろすその威容に、彼女が感じたのは明確な殺意だった。
見渡すと、宿屋の周囲は『憲兵』たちが取り囲んでいる。
「ひょっとして、宿屋の主人が通報したのかしら……まったく、頭のいいAIは嫌ね」
緊急事態にも動じない精神力が、彼女には備わっていた。
そのままレヒトを目標にして走ってくる『憲兵』。
レニは翼をはためかせて、『重力制御』によって数メートル横に飛んだ。
「ちょっとマズいわね……早く戻ってきて」
ベランダの隅まで逃げ延びたレニは、首筋に装着している銀色の円盤に手をあてがった。
外部と連絡を取る彼女に向かって、『憲兵』はさらに追撃してくる。
そのとき、レヒトが急速に覚醒した。
「神父……ッ!」
レヒトは立ち上がるや否や、肉厚の大剣を真正面から受け止めて、宵闇に火花が舞い上がった。
剣と剣がぶつかり合う残響で、周囲が一瞬飽和し、それ以外の音が聞こえなくなる。
「こいつは俺が引き付ける、どうせ狙いは俺一人だ……!」
レヒトは片手剣と盾を装備すると、『憲兵』と真っ向から向かい合った。
乱戦になると最大防御力を誇る
真正面から『憲兵』の攻撃を受けることはできない。
ならば機動力を最大限に生かして、ひっかきまわすしかない。
幸いにも、レヒトの攻撃で『憲兵』のライフは、少しだが削られていた。
4000ある体力のうち、5か10ぐらい。
レヒトの剣が当たるたびに、小刻みに削られていく。
「レヒト君、そんな攻撃を繰り返しても、あと何時間かかるか分からないわよ」
「こいつとは、20時間戦った事がある……!」
レヒトは、凄まじい速度のバグステップで街中を飛び回った。
対する『憲兵』は、基本動作の動きが遅い分、バグステップの速度も鈍い。
ジョブで言うなら重戦士に分類される。
フィールドでは敵に逃げられたり、逆に敵に囲まれたりと、なにかと足を引っ張りがちなジョブだった。
だが、防衛戦においては間違いなく、最強となる。
レヒトはその黒光りする鎧に、マシンガンのような騒音を響かせる乱撃を放った。
相手を破壊することのみを目的とした攻撃だ。
彼の脳は、疲れをまるで知らなかった。
まるで本能のように、ただひたすら攻撃と退避を繰り返している。
「すごい……なんて集中力なの……」
それは、RPGのレベル制すらも真正面から否定してしまうものだった。
凄まじいレヒトのプレイイングに、レニは息をのんでいた。
やがて『憲兵』のライフバーがオレンジ色に変色し、漆黒の鎧にひびが入った。
重戦士の利点は、たとえステータス異常をくらっても、機動力がまったく落ちないというタフさにあった。
落ちるどころか、むしろ瀕死に至るほど隠された力を発揮する。
『デスペラード』というパッシブスキルが発動すると、すべてのステータスが2倍になる。
『憲兵』の動きが目に見えてはやくなり、バグステップの速度は体感で2倍に達していた。
レヒトは風圧ではじき返されるような錯覚をおぼえた。
回避率と防御力が上昇し、与えるダメージは0がほとんどとなっていた。
こうなると、いくら攻撃を当てても、ライフゲージがまったく減っていかない。
さらに『憲兵』は、レヒトの動きを先読みすることに成功した。
レヒトの攻撃をひとつひとつ学習し、確実に押し返している。
「ちぃ……ッ!」
『憲兵』は両手剣を地面すれすれの高さでふると、超重量級の刀身をハンマー投げの選手のようにレヒトの側頭部にぶつけた。
割れるものなどないはずなのに、おぞましい破砕音がレヒトの頭部から響いた。
だが、レヒトはその攻撃に一回だけ耐えた。
『
お互いのバグステップはほぼ等速だ、この距離で『憲兵』の次の追撃を振り切ることはできない。
レヒトは逆に『憲兵』に突進してゆき、アイテムストレージから青色のクリスタルを取り出した。
それは一度無人島でドロップしてしまった、転移クリスタルだ。
目の前に掲げるアイテム使用の『構え』を取って、それから上方向に移動させる。
「天空の島、神殿の西の岬……!」
行きたい場所をイメージすると、イメージと一致する地名が浮かび上がった。
『憲兵』を抱えたまま、ぞっとするような高さの場所に、レヒトは転移した。
AKドッグはまだ真夜中のように思われたが、はるか東の空で朝日が昇り始めているのが見える。
ここは空を浮遊する島の上だ。
地平線にうすく雲がかかっているのが視認できる。
レヒトに連れてこられた『憲兵』は朝日を浴びて、静かにつぶやきをもらした。
「ああ……ウソだろ」
それはドイツ語だったが、震えているのがレヒトにも分かった。
「来い、生き残った方が勝ちだ」
レヒトは『憲兵』の胸倉をつかむと、そのまま岬の先端へと駆け出し、朝焼けの空へ共に飛び出した。
どんな重装備だろうと、この高さからなら落下のダメージはクリティカルになる。
そのダメージは一律100ポイント。
どんどん迫りくる地面を前に、レヒトはアイテムから体力回復ポーションを取り出し、体力を200回復した。
レヒトは地面に墜落した。
すぐに起き上がりたかったのだが、レヒトはしばらくそこで身もだえしていた。
どうやら墜落クリティカルを食らうと、しばらく身体が動かせなくなる設計らしい。
呼吸もじゃっかん苦しく、全身がぴりぴりとしびれていた。
『憲兵』は、やや離れた場所に墜落していた。
瀕死の状態になった『憲兵』は、仰向けに倒れたまま動かなかった。
レヒトは、彼の胸元にクレイモアの先端を突きつけた。
「どうだ、これがRPGだ」
『憲兵』は、置物のように静かにそこに横たわって、うめき声をもらした。
「終わったのか、俺のゲームは」
「ああ……とっくにオワコンだよ」
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