恋と暗闇と釣り糸

@kuriki_sasa

恋と暗闇と釣り糸

 ※


 それは大きな魚だった。

 鎧のような鱗。立派なひれ。その身体は全身例外なく傷だらけで、生き抜いてきた長い年月を思わせる。

 だが弱っているという印象はなく、むしろ生命力に満ち溢れているように見えた。

 口元から飛び出た針も気にしない。体から生えた銛も気にしない。

 満足げに、そして堂々と身体をひるがえし、尾びれを一打ちする。

 ゆっくりと、しかし力強い動きで暗い海を泳いでいく。

 きらきらと鱗を煌めかせ、泳いでいく。


 1


 カチリと、何かが噛み合う音を聞いた気がした。

 張り詰めた糸が音を立てて切れる。しなった竿が張力を失ない直線へと戻る。

 逃げられた。

 私は溜息をつきながら竿を上げる。目の前には千切れた糸。

 あの影、あの引き。逃げた魚はきっと大きかったに違いない。

 諦めと悔しさの入り混じった感情を深呼吸で落ち着けながらもう一度餌を付ける。それをすいと振り子のようにして川面に落とす。川縁に打ち込んだ竿受けに竿を挿し込む。

 準備完了。竿の先に付けた鈴が小さく音を立てた。

 平日の真昼間。河口近くの橋の下。日陰。私は今日もそこにいた。

 空は変わらず青く、風は湿り気を帯びている。

 地面に敷いたダンボールの上に腰を下ろす。私は流れる汗をぬぐいつつ、同じように汗をかいているビール缶を手に取ると微温くなった液体を喉に流し込む。苦味と炭酸が渇いた喉に心地よい。

 これぞ有給だ。平和だ。のんきなものだ。

 アルコールでぼやけた頭。

 毎度毎度危険だと分かりながらもこんなところで何をやっているのだろう。もし軍の奴らに見付かったら殺されるかもしれないのに。どうだろう。まあそれも仕方ない。警告はされてるしなあ。殺されても文句は言えない。でもここは穴場だしな。

 つらつらとそんなことを考えながら、ぼんやりと流れる水と揺れる竿先を眺める。

 不意に背後から草をかき分ける音が聞こえた。

 誰かが土手を降りてくる。

 誰が? まさかほんとうに軍に見付かった? 言い訳は──、できないよなぁ。こんな海に近いところで釣りなんて。こんなにがっつり準備しておいて迷い込んだなんて嘘も信じちゃくれないだろう。

 恐る恐る振り返り、コンクリートの橋桁から顔を覗かせる。

 一人の少女がこちらを見ていた。

 見慣れた制服を着た見慣れた少女。

 あれは──、

 目が合う。

 少女の不安に怯える表情が驚きに、そして安心から喜びへと目まぐるしく変化する。

 私は私で驚きで心臓が止まりそうだった。どうして彼女がここに。

 固まる私を差し置いて、彼女は胸元まで生えた雑草をかき分けながら土手を駆け下りてくる。

 ああ、そんな急いで下りたら──、あ。

「ぎゃあ」

 草の根にでも足を引っかけたのか、案の定前につんのめる。勢いのついた彼女はそのままごろごろとまるでおにぎりのように転がった。悲鳴とともにスカートが乱れ、真っ白だったブラウスが土埃で汚れる。

 さすがにこの惨状を無視するほどおちぶれてはいない。

 私は見事にひっくり返った彼女に駆け寄ると、手を差し出す。

 やはり見間違いではない。少女──私の生徒があられもない姿でそこにいた。

五貝ごかい

 掴んだ手を引っ張り、立たせる。五貝はぱたぱたと手で砂埃を払う。

「どうしてここに。危ないじゃないか! 学校は」

「ててて。先生、絆創膏持ってます? さっきので足切っちゃったみたいで」

 鼻にかかった耳触りのいい声。

「おい、質問に答えなさい。学校はどうした」

「学校はサボりです。いてて」

「なんでここにいる」

「あ、え、と」

 五貝は急に黙ると恥ずかしそうに頭をぽりぽりとかいた。

「わたし、会いに来ました。先生に会いに来たんです」


 ※


 外から立派に見えていても、その実魚は飢えていた。残された蓄えは残り僅かだ。

 魚は餌を求めて大海を彷徨う。なけなしの熱量を消費して必死に泳ぐ。しかし餌は見付からない。

 この海に餌は少ない。だから数日食べないことなどはこれまでもざらだった。だが今回はおかしい。もう何ヶ月も餌を見かけていない。

 取り逃している訳ではない。そもそも見付けられていないのだ。

 魚は恐怖する。

 もしかして餌はもう残っていないのではないだろうか。

 もしかしてすべて食べ尽してしまったのではないだろうか。

 しかしそんな考えすらも空腹感に塗り潰され、すぐにどこかへ消えさってしまう。

 魚はただ飢えていた。


 2


 私に会いに来た、と五貝は言った。

 改めて彼女を見る。

 草の汁と泥で汚れたブラウス。折り目の乱れたスカート。額から溢れ落ちる汗。

 どれほど急いで来たのだろう。彼女がここまで慌てる理由。もしかして何かあったのだろうか。だが詳しい事情を読み取れるほど私の目の性能はよくない。

「五貝──」

「あ、先生また釣りですか? 何か釣れました?」

 事情を聞くために口を開こうとすると、それを五貝が遮る。ちらちらと背後に視線をやりながら。

 後ろに何かあるのか。

 背後を覗こうとする私を五貝はぐいぐいと押す。橋の下へと戻そうとする。

「なんだなんだ。どうした」

 唐突に無言。

 余りに力一杯押し込もうとしてくるので、戸惑いながらも従ってしまう。

 拠点にまで押し入られる。

 散らばったビールの空き缶、コンビニ弁当のトレー、煙草の吸殻。

 生徒には見られたくないものが目白押しだ。しかしそんなものには目もくれず、五貝は人差し指を唇に当て、『静かに』というジェスチャーをする。

 私はこくこくと頷く。

 あまりの電撃作戦ぷりだ。何も反撃できない。

 五貝はそういう子だった。

 何かにつけて自分のやりたいようにやる。周りはなぜかそれに従ってしまう。

 今だって本来は追い返して学校に行かせるべきだと理解しているのに。

 だが意外だ。

 いくら縦横無尽に振る舞おうとも、基本的に模範的な生徒で、毎年一人二人はいるお調子者キャラってだけだ。教師とも友好的な関係だし、一部からやっかみを受けている程度の優等生。

 新米の私にも分かる。

 平日に学校を抜け出すような奴ではない。

 私が訝しんでいると、彼女は二度三度辺りを見渡し、私たち以外に人がいないことを確認してからようやく口を開いた。

「先生、助けてください」

 周りを気にする小さな声。

「……何があったの」

「わたし、誰かに付けられてるみたいなんです」

「…………」

「ほんとうですよ?」

 顔に出ていた。

「警察には通報した?」

「……それが、まともに取り合ってくれなくて」

 まあ、そうなるかも知れないな。

 いきなり人に付けられてるだなんて通報いくらでもありそうだし。

「先生方には?」

「そっちもまともに取り合ってくれなくてー!」

「それで私のところまで来たのか」

「先生なら話は聞いてくれるでしょ」

 信頼されたものだ。まあ話くらいはいくらでも聞くけど。

 それでも貴重な有給を潰された恨みはあるので、私は彼女に聞こえるように大きく溜息をつく。だが、それすらもきょとんとした顔で受け流されてしまい、私は早々に文句を言うことを諦めた。

 さて。

「付けられてるのはいつから?」

「今朝からです。家を出るときに視線を感じて」

「…………」

「それから学校でも。体育と教室移動で外に出たときに」

「…………」

「……先生、自意識過剰の勘違いだと思ってません?」

「……少しだけ」

「ほんとうなんですって! えーと、証拠はありませんけど……」

 不満げなエネルギーで腕をぶんぶんと振り回す五貝。

「何か心当たりとかないのか」

「少しだけ」

 五貝は一瞬躊躇したあと、あくまで可能性ですからね、と念を押すとおずおずと語りはじめた。

「先生は今日がなんの日か知っていますか?」

「休日」

「……そりゃ先生はそうなんでしょうけど」

 五貝の呆れたような溜息。

「そうじゃなくて、もっと重大なイベントがあるんですよ」

 ごほん、とわざとらしい咳払い。

「先生はこの町で行方不明になる人間がどれくらいいるかご存知ですか」

「……いや、知らないな」

「実はほとんどいないんです」

「いいことじゃないか」

「それがですね。この町だけ極端に少ないんですよ」

「いいことじゃないか」

「……先生、ちゃんと最後まで聞いてください。私、ネットで調べてみました。そしたら統計的には大体十万人に六百人くらいは出るはずなんです」

「……統計といっても多少のずれはあるだろ」

「あまりに差がありすぎるんです。なんとですね、この町だと年に平均二人だけなんです」

「それは……」

「ちょっと少なすぎません?」

「……確かに。でも行方不明者が少ないことが悪いこととは思えないんだけど」

「おっしゃるとおり、少ないことはいいことです。それを否定する気はありません」

「なら何が」

「行方不明者が出るのが毎年特定の日なんです。そして──」

 五貝はここで一瞬間を置くと、まるで怪談のオチを言うように小さな声で囁く。

「そしてその日が今日なんです」

 沈黙。

 授業中には見たこともなかった至極真面目な五貝の顔。

「……今年のターゲットが五貝だと」

「……はい」

 私は混乱していた。

 陰謀論。教育の敗北。色々な言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。

「……それを信じろ、と」

「ほらー、だから可能性だって断わったじゃないですか!」

「いやこれは難しいって」

 この町は閉じている。

 五貝もそれは知っているはずだ。いや五貝だけじゃない。この町に住んでいる人間なら誰もが知っている。

 遠くには聳え立つ巨大な壁が見えた。町の境目だ。

 町からの出入口はもう何十年も軍が固めていて、人が出ていくことも無ければ入ってくることもない。

 検問を突破しようとすれば容赦なく銃殺されることはこの町の学校で最初に教わることの一つだ。

 海もそうだ。

 釣りだろうが何だろうが、本来は近づくだけで逮捕されかねない。

 この町は閉じている。

 だからこそ犯罪が起こりにくい。

 誰も彼も顔見知りで、何かあれば翌日には町内全域に伝搬している。よく言えばフレンドリー、悪く言えば監視社会。

 余所者による事件がそもそもありえないからこその安心感があるのは否定しない。

 だが五貝が言うには見たことのない人間だったという。

 これはどういうことだ。

 軍が外からの人を受け入れた?

 いやまさかな。

 考え事に浸る私を五貝の声がこちらへと引き戻す。

「やっぱり。勘違いだとよかったんですけど」

 そう言った五貝の視線の先に目をやると、ちらりと何者かの姿が写った。

 逆光。この距離からでは誰かまでは分からないが、なるほど確かにこちらを窺っているように見える。それに普通の人間はこんな危険なところには来ない。釣りキチなら、まあ来るかもしれないけど、あの人影はそんな雰囲気ではない。何より竿を持っていない。

 理由は定かではないが、追われているというのはあながち嘘ではないらしい。

「先生、わたしを助けてくれませんか?」

「…………」

 不安そうな声色。

 この町の事情はとりあえず置いておいて、私の答えは决まっていた。

 こんな状態の生徒を無視するほど人間は辞めていない。

「分かった」

 小さくそう答えて五貝の手を取る。

「逃げよう」


 ※


 遠くに微かに光が見えた。

 空腹を刺激する光だ。

 魚は目が悪かったが、なぜか餌のある場所だけは知ることができた。

 暗闇の中、餌のある場所が輝いて見えるのだ。

 なぜそう見えるのか、魚には知る由もない。ただ何十年とこの方法で生きてきた。

 光に向かって泳いでいけば食事にありつける。

 それだけを魚は確信している。

 今回もそのはずだった。

 残った力を振り絞り、光のほうへと舵をきる。

 焦る気持ちを抑えることなく、一心不乱に身体を動かす。

 早く、早く。

 あの光を食べてしまいたい。

 食べなければ。

 早く、早く。

 魚は急ぐ。


 3


 警察署に向かう。

 逃げる逃げる言いながらも第一目標ははっきりしていた。

 あれが町の中の人間にしろそうでないにしろ、犯罪の疑いがある以上まずは警察に助けを求めるのが道理だろう。

 断わられたのも女子高生が一人で行ったからだ。いくら田舎の警察とはいえ若者の妄言に付き合うほど暇ではない。しかし教師が付いていけば話は変わるはずだ。

 それよりもここで襲われるほうが怖い。海沿いなんて誰もいない場所、襲われたら誰にも気づかれない可能性が高い。通報よりもまずは身の安全を確保するのが先だ。

 まずは人通りの多いところを目指す。

 ここからだと川沿いに町の中心部へ行き、国道沿いに進めばいい。ルートは単純だ。

 こちらを見ていた奴に気取られないように逆側の土手を越える。荷物はそのままに駆け出す。ひっそりと、しかし急いで。

 竿につけた鈴の音が聞こえる。あれでいくらか騙されてくれればいいけど。

「ねえ先生」

「いいから走れ」

「どこに行くんですか?」

「まずは繁華街だ。人込みに紛れる」

 五貝が私の手を握り返す。同意ということだろうか。

 丁字路。右へ。

「ねえ先生」

「今度はなんだ」

「こんなときに聞くことではないかもしれないんですが」

「なんだ」

「恋人っていますか?」

「あ?」

「真面目な質問ですよ」

「黙って走ってくれ」

「いやです。恋人っていますか?」

「お前なぁ!」

「わたし、今日殺されるかもしれないんですよ。答えてくれたっていいじゃないですか」

 それは卑怯だし、五貝が殺されるなら多分私も殺されてる。

 だがその事実を言い返してごちゃごちゃする酸素すら惜しかった。若者とは体力の総量が違いすぎる。

「……あー、いないよ。いない」

「……」

「いないって」

「……ここはわたしのことが好きって言うところでしょう!」

「映画の見過ぎだ」

「こんなにドラマチックなのに!」

 それは否定しないけど。ちょっとだけどきどきしているけど。きっと運動不足のせいだ。

「からかうんじゃない。私は教師で、お前は生徒」

「ふーん!」

「なんで不満げなんだよ」

「ふーん!」

「そっちの質問に答えたんだ。こっちの質問にも答えてもらうぞ」

「彼氏ならいませんよ」

「そんなことはどうでもいい」

「ひどい!」

 よくも走りながらそんなリアクションする余裕があるものだと感心する。

 しかし握った五貝の手は相変わらず小さく震えている。強がりとはいえここまでできるなら上等だ。

はほんとうに心当たりないんだな」

 ほうほうのていで振り返ると後方に小さく黒い人影が見えた。

 奴だ。

「……あるわけないじゃないですか」

「ならいい」

 私たちは走る。

 カーブを曲がり、信号を無視して、焼けた道を走る。

 白飛びした景色、黒い影。

「ねえ先生」

「今度はなんだよ」

「不謹慎かもしれないんですけど」

「え? なんだって」

「今、ちょっとだけ楽しいです。ほんとうですよ」

 五貝は笑う。

 高輝度LEDライトのような笑顔。

 私はこの笑顔に弱い。


 ※


 魚は光へ向かって泳ぐ。

 自慢の尾びれを揺らしながら。

 ただひたすらに泳いでいく。

 あれだけ弱っていた身体が今はとても軽い。

 温かな光。

 まるで太陽のようだ。


 4


 繁華街に出る。

 さすが平日だというのにほどほどの人通りがあった。

 買い物帰りの主婦、遊びに来た大学生、外回りのサラリーマン。日常の風景だ。そしてそれらに紛れるように逃亡者が二人。

 ブラウスの袖を掴み、私は五貝に止まるように伝える。

 もう限界だった。

「……少し、……休もう」

 膝が震え、肺はきゅうきゅうと痛み、心臓は破裂寸前だ。今にも崩れ落ちてしまいそうになる。

 対する五貝は多少呼吸が乱れているもののまだまだ平気といった様子で、私を見下ろしていた。

「なっさけないなー」

「……うるさい」

 からかう五貝に反論することもできない。

 人込みに混じり、ベンチに腰を下ろす。

 死屍累々。

 だが幸いにも追手は撒けたみたいで、いくらか休む余裕があるのは事実だった。

 明日は絶対筋肉痛だ。……いや、明後日かも。

 そんなことを考えながら必死で息を整えていると、頬に冷たいものが触れた。顔を上げると五貝がペットボトルを持って立っている。

「……ありがとう」

 一本受けとり、息も絶え絶えに礼を言うと五貝もベンチに腰かけた。

 暑い。

 炎天下にマラソンなんてするものじゃない。

 ペットボトルの蓋を開け、一気に喉に流し込む。溢れることも気にせず、飲み下す。渇いて貼り付きそうな喉を冷たい液体が潤していく。一息に半分ほど飲み、それから大きく息を吐いた。

 生き返る。

「逃げきれたんですかね」

「……分からない。どっちみち警察には行かないと」

「ですよねー」

「なあ五貝、どうして私に助けを求めたんだ」

「それは、先生なら助けてくれると思ったから」

「他にも助けてくれる大人はいただろ。親とか」

「ほんとうですよ。……半分は」

「もう半分は?」

「先生が好きだからです」

「またそんなことを」

「わたし、結構本気で言ってます」

 自意識過剰かとは思うが、前から見られているという自覚はあった。

 だけどなんというかそういう雰囲気ではなく、一歩引いているというか。

「なんで今日はそんなにぐいぐいくるんだ」

「今日、死ぬかもしれませんからね」

「……安心しろ。この国の警察は優秀だ」

「わたし、あんまり信用してません。なんですか警察って。警察が優秀ならなんですか軍って。」

「私に聞くなよ」

「先生、この町って息苦しくないですか」

「息苦しい?」

「わくわくするようなこともない。でも町の外には出られない。親とか親戚とか近所付き合いとか、そんなものばっかり」

 ……ああ。

 嫌というほど理解できてしまう。

「かといって変わるための、変えるための方法なんて知りません」

「…………」

「技術もなければ学力だって平均くらいだし、だから軍にも入れません。この町で生きてこの町で死んでいくしかないんです」

 大人たちが諦めきっていること。

 希望でも絶望でもない、穏やかな静止。

 何者にもなれず、ただ進んでいくだけの人生。

「つまらないわけじゃないんです。友達と遊ぶのは楽しいし、テストは嫌だけど勉強だってなんだかんだ面白いです」

「でもそんな毎日が続いても、わたしたちの人生はどん詰まったままな気がして」

「…………」

「だからごまかしていくしかないんです」

「……その方法が恋ってこと?」

「えーと、そうでもあって、そうでもないというか。目的と手段がごっちゃになったといいますか」

 そういうと五貝は、

「先生、恋ってしたことありますか?」

 あれ、もしかして私、馬鹿にされてる?

「そりゃさすがにあるけど」

 いい思い出はないけど。

「なら分かると思うんですけど、恋って最初から恋なわけじゃないですよね」

「……そうだな」

「なんというか、その人と過ごす日々が楽しくて、毎日うきうきして。初めはそれが目的だったんです」

「どういうこと?」

「先生って周りの大人の中ではそこそこ若いし、顔は、まーちょっと普通ですけど、優しいし」

「手頃な憧れの対象ってことか」

「それそれ、それです。暗澹たる人生が少しでも楽しくなればいいなって。」

「…………」

「でもなんか今日とか色々と格好よかったといいますか。あー」

「…………」

「ねえ先生、わたし──」

 五貝の口を手でふさぐ。すぐさま『静かに』のジェスチャー。その先を聞きたくなかったわけではない。むしろ何を言いかけていたのか興味はつきないが、ここで音を立てられるのはまずい。

 人込みの向こう。明らかに周りから浮いた黒服の男が見えた。

 五貝に視線で確認する。すぐに五貝が頷く。

 あれか。

 周囲にはさらに四、五人の男たちも見えた。

 増えている? 撒いたはずでは? どうしてここが分かった?

 疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

 この素早さを考えると、あながち軍が黒幕というのも間違えていないのかもしれない。だが男たちはまだこちらの姿に気づいていないようで、忙しく辺りを見回している。

 とにかくここを離れなくてはいけない。

「──ぷはっ」

「逃げるぞ」

「はい」

 走りだす。


 ※


 光にぐんぐんと近づいていく。

 道中の岩も、その他何もかもはね除け、最短距離で向かっていく。

 身体の傷が増えるが、その程度はおかまいなしだ。

 魚はそれほどに嬉しかった。

 あと少し。あと少し。あと少しだ。

 もうすぐ食べられる。

 おいしい餌がすぐそこに。


 5


 走っている。

 繁華街に奴らの姿を見てからずっと。

 すでに色々と限界だが、走らないと捕まるので走るしかない。

 角を曲がる。

 階段。

 一段飛ばしで下へ。

 次は十字路。

「先生! こっちはダメ」

 先行した五貝が指を差す。なら逆側だ。

 五貝の手を取り、駆け出す。

 段々と包囲網が狭まっている気がする。

 曲がり角。裏路地。地下道。どこへを通っても無表情な黒服たちが追いかけてくる。どういう訳か回り込まれている。

 まるでどこかに誘導されているような。いや、そんな訳は。

 気づけば警察署からはどんどん離れていっていた。人だっていつの間にか見かけなくなっている。だからといって止まることはできない。それでも逃げるしかない。

 一体何をされているのか分からない。

 追い込み漁か何かを思わせる手際。

 真綿で首を締めるようにじわじわと確実に追い詰められている。

「先生、急いで。もう来てるよ」

「分かってる……」

「早く!」

「もう全力だよ!」

 後ろからは男たちが視認できるところまで迫っていた。

 吐きそうになりながらも足を動かす。痙攣しそうになる太股を殴る。

 このままじゃあと数分が限度だ。

 そのとき見慣れた道に出た。私にとっての通勤路。五貝にとっての通学路。学校への道だ。

 それだ!

 あそこなら人もいる。建物の構造も把握しているし脱出経路だって何本も知ってる。

「五貝、学校だ。学校に逃げ込もう」

 五貝が頷く。

 よし。

 そうと决まれば話は早い。

「こっちだ」

 手を引いて脇道に入る。ショートカット。

 でこぼこの盛土を越えて林へ。

 獣道。

 走る。

 縺れる足。

 腐葉土が足に絡み付く。青々とした葉が肌を切る。

 それでもなんとか走り抜けると、そこは校庭だった。

 おかしい。すぐさま違和感を感じる。人の気配がない。時間的に部活が始まっていてもおかしくないのに、グラウンドには誰もいない。校舎からも音が聞こえない。今日は祝日でもなんでもないはずだ。

 なんだこれは。

 明らかな異常事態。まるで別世界に迷い込んだような感覚。

 頭の中で警報が鳴り響く。

 とんでもないことに巻き込まれているのではないか。

 これは私が何をしたところでどうにもならないのではないか。

 失敗。疑念。絶望。

 それに──、あれは、なんだ。

 見上げた空。

 青空の向こう。

 大きな影が。

 視界の半分以上を埋める何かが。

 何かがのたうち──、

「先生、何やってるんですか! 早く」

 立ち止まった私の手を五貝が引く。

 そうだ。

 何があっても立ち止まっている場合ではない。

 私は諦めてはいけない。挫けてはいけない。少なくとも五貝の前では。

 足を踏み出す。

 ここで踏ん張らなくていつ踏ん張る。五貝以外のことは後で考えればいい。今、何が起こっていても。

「五貝、旧校舎に逃げよう」

「え?」

「この時間に校舎から声が聞こえないのはおかしい。もう回り込まれてるかもしれない」

「でも」

「大丈夫。何とかする」

 背後からはガサガサと藪を掻き分ける音が聞こえる。時間はあまりない。

 校庭を横切り、旧校舎へ。

 扉を蹴破るように侵入する。

 真夏だというのにどこかひんやりとした温度。かび臭い湿った空気。こちらはこちらで異空間だ。

 ごくりと喉が鳴る。

 ええい、ままよ。

「こっちだ。急げ」

 軋む床。

 水溜り。

 苔。

 動物の糞。

 スプレーによる落書き。

 教室を通り過ぎ、配膳室を越え、職員室を横切る。全速力で駆け抜ける。

 見えた。

 視線の先にエレベーター。

 急げ。

 あれだ。

 抉じ開けるように駆け込み、『閉』ボタンを連打する。

 急げ。急げ、急げ急げ!

 冷静に考えてみたらこんなところで追い付かれたら逃げ場がない。

 嫌な汗が吹き出す。

 緩慢な挙動で閉まり始める扉。その隙間から黒服たちの姿が見えた。お互いの顔が視認できる距離。

 だがもう遅い。私はにやりと笑う。

 奴らがこちらへと向かう間にも扉は動き続け、スムーズな減速、そしてぴったりと扉が閉まった。

 私はすぐさま隠し持っていた鍵で管理パネルを開けると、トグルスイッチを操作する。空調のノイズに混じってパチパチと渇いた音が響く。

 くすんで白くなったランプがぼんやりと緑色に光り、籠が降下を始めた。内蔵が宙に浮くような感覚。もたれかかった壁を通して駆動音を感じる。

 沈黙。

 一秒、二秒、三秒。

 奴らから遠ざかっていくのを感じ、ようやく安堵の溜息が出た。

 私も五貝も渇いた呼吸をしながらずるずると腰を落とした。

「は……、は、はは」

 五貝は涙と洟でぐしゃぐしゃになった顔で笑う。

「……助かったぁ」

 そんな五貝を見て私も笑う。

 助かったのだ。

 それを実感した瞬間、今頃になって手が震えだす。

 私と五貝は何が楽しいのかひとしきり笑い、それからまた深く溜息をついた。

 疲れた。

 さて。

 このあとはどうしよう。

 このあと?

 警察に保護を求めて、それから──。

「先生、これどこまで下っていくの?」

「え?」

 五貝の言葉が私の思考を遮る。

 気づけばどれくらい経っただろう。一分? 二分? それとも三分?

 確かに異常だった。

 階数を表わすランプはいつの間にか消えている。それでも駆動音は続いている。

「え? ……あれ?」

 ぞくぞくと背筋に悪寒が走っていく。

 何が起きている。

 一体何が。

 私は周りを見渡す。

 所々黒くくすんだクリーム色の床。ヤニで曇った鏡。真新しいステンレスの手摺り。

 何の変哲もないエレベータ。

 それは疑いようもない。

 だがどこか違和感を感じる。

 あれ? そもそもなんでこのエレベータに乗っているんだっけ?

 私が五貝を連れて逃げて、そして?

 よく考えてみると私はこんなエレベータのことを知らない。旧校舎なんて来たこともない。

 なら、なぜ。

 ポケットに入っていたパネルの鍵。トグルスイッチの操作手順。

 なぜ、私は。

「先生、どうしました? 大丈夫ですか?」

 心配そうな五貝の声ももはや遠い。

 眩暈。

 回る視界。

 遠のく意識。

 思考が急激に回る。

 頭の中でサイレンが鳴り響く。

「先生? 先生!」

 五貝。

 私は。

 どうして。

 そのとき急な減速の振動とともに籠が停止した。

 到着を表わす軽い鐘の音。そして扉が開く。

 エレベータの扉の先、薄暗い通路にはあの男たちが立っている。一人、二人、三人。四人、五人。明らかにさっきより多い。

 五貝が息を飲む音が聞こえる。

 数瞬の間。

 頭を駆け巡る疑問に意識を囚われ、反応が遅れる。

「先生!」

 五貝の声で我に返ったときにはすでに男たちが動き始めていた。

 視線が一斉にこちらを向く。

 遅くも速くもない、まるで機械のような挙動。

 急げ。切り替えろ。ここで追い付かれたら袋の鼠だ。

 私は耳鳴りに顔を歪ませながらも『閉』ボタンを押す。

「え?」

 反応しない。

 もう一度押す。だが動かない。二度、三度、何度押しても、ぴくりとも動かない。

「クソッ!」

 ここまで来たのに。

 力任せにボタンを殴り付ける。皮が裂ける。痛み。

 嵌められた?

 考えろ。

 周りを見渡す。抜け道を探す。

 何もない。

 終わり? ほんとうに?

 その間にも男たちはじりじりと迫る。

 私は意味などないと知りつつも五貝を背中に隠す。

 一歩、二歩。距離が詰まる。

 あと数歩で私たちは捕まるだろう。

 どうなる? 殺される?

 精一杯あがいてやる。

 覚悟を決める。

 震える五貝の手を握りながらそのときを待つ。

 しかしそのときはいつまで経っても訪れない。あと数歩は踏み出されることはなく、男たちは完全に静止していた。

 直立不動。

 一体何が起きている。

 あまりの出来事に私も五貝もぽかんとしてしまう。

 ドッキリテレビ。アトラクション。勘違い。

 様々な憶測が頭の中で渦巻くなか、立ち並ぶ男たちの奥から声が聞こえた。

 壮年と思わしき、優しげな声。

「えーと、君は教師モデルか。怖がらせてしまったようだね。すまなかった」

 それと同時に黒い男たちが道を開ける。通路の壁に沿うように巨体が並ぶ。こう見るとまるで彫像のようだ。

 突然のことに私たちがさらに混乱していると、その奥から声の主が姿を見せた。

 上品な装い。柔らかな物腰。嫌味なく上流階級の人間であることを理解させる立ち振舞い。

「今回は君だけのようだ」

 知らない、男だった。

 そのはずだ。

 少なくとも見たことはない。この声も聞いた記憶はない。

「前回も君の同系モデルだったし、ほんとう君たちは優秀だ。新規に開発した甲斐があるというものだよ」

 男は私を見て満足げに笑う。誂えたような笑みが顔を覆っている。

 私は身構える。

 気を抜くな。状況は変わっていない。

 まだ何も解決していない。

「それに比べてこいつらときたら。こんなことにしか役にたたない」

 わざとらしい溜息と共に、男が手の甲で彫像のごとき男たちを叩く。

 さっきから何の話をしているのか。

 分からない。

 私は知らない。

『私』は知らない。

「さて、よく帰ってきたね。歓迎しよう」

 男が一歩、また一歩と私たちに近づく。

 私は後退る。

 その様子を心配そうに見守る五貝。だがそんな五貝に言葉をかけることもできない。

 男はただこちらに歩いてきているだけなのに、私は猛獣に睨まれた獲物のように目も反らせず、後退ることしかできない。

 ただただ純粋な恐怖心が私を動かしている。

 お互いに距離を保ったまま、ゆっくりと移動する。

 一歩、また一歩。

 時間の流れが遅くなっていくような錯覚。だがそれもすぐに終わりを迎えた。

 私の背中がエレベータの壁に当たる。

 ほんのこつんと触れただけなのに私はそれだけで失禁しそうなほどに驚いてしまう。歯の根が震える。

 それでも男は歩みを止めない。

 縮まる距離。

 一歩、また一歩。

 男が私の目を覗き込む。視線が交差する。

 鳶色の瞳。

 その奥の深い黒。闇。グラデーション。

 さらに奥の『何か』を認識したとき、カチリと、何かが噛み合う音を聞いた。

 瞬間、私は自然に膝を折っていた。

 動けない。

 膨大な量の情報が頭に流れ込んでくる。記憶、感情、目的、すべて。


 ※


 微かな光がだんだんと大きくなり、今やまぶしいほどになっていた。

 餌は近い。

 もう目の前にその気配を感じている。

 嬉しい。嬉しい。嬉しい。

 魚は久方ぶりにダンスを踊る。

 身体を捻り、回転させ、尾びれを一打ちする。

 何のテクニックもなく、ただ喜びだけを表現する原始的な動き。

 しかしそれは誰がどう見てもダンスだった。


 6


「……先生!」

 心配そうな五貝の声が聞こえる。だが私は答えない。ただ膝をつき、頭を垂れる。

「彼女、きちんと恋しているようじゃないか」

「はい」

 私は彼を知っている。

 私は彼に逆らえない。

「先生に何をした! 警察呼ぶわよ」

「警察!」

 彼──神様は笑う。

「警察などここにはいないよ。それに僕は君の先生には何もしていない」

 五貝は今にも殴りかかりそうなほどに激昂している。

 ここまで怒った彼女を見たことはない。

 だが、ああ、駄目だ。その人は。

 私は立ち上がると、五貝を拘束する。

「先生!?」

 暴れる。しかし解放するわけにはいかない。

 私は神様を守らなければならない。

 なぜなら私はそう作られているから。

「ははは、このとおり、君の先生は僕の味方みたいだ」

「……お前!」

「いいね、実に活きがいい。ここ数年で一番の出来じゃないかな」

「……突然出てきたなんなんだよ!」

「それはごもっともだけど自己紹介は省かせてもらうよ」

「先生っ!」

 叫ぶ。だが拘束は解けない。解かない。

 私は神様を守らなければならない。

「ほら、窓の外を見てみなさい」

 気にせず神様は五貝に話しかける。

 窓の外。

 そう、ここは地下だというのに窓があるのだ。

 私は五貝を窓の傍へと運んでやる。外の光景を見たらきっと驚くだろう。

「閉じた町。そして、その境界を管理する軍」

「…………」

「君は町の外がどうなっているか知っているかい?」

「──うそ」

「そんなものはないんだよ。あの町が世界のすべてだ」

 五貝の思考が手に取るように分かる。

 最初にその景色を見ると誰もが驚くはずだ。

 余りに綺麗で。

 窓の外。

 暗闇。

 いや、違う。

 赤。青。白。黄。

 色とりどりの輝き。

 溺れてしまいそうな光の奔流。

 まさに星の海だ。

 そこには宇宙が広がっている。

「こんなの嘘だ!」

「嘘なもんか。君がいるのは船の中だ」

「騙されないぞ犯罪者! 早く解放しろ!」

「……あー、ちょっと黙らせてよ」

 神様の言葉。私はその言葉に逆らえない。

 五貝を殴る。

 鈍い音。

「……ッ!」

 五貝が信じられないような表情で私を見る。

 やめてくれ辛くなる。

「さて、話を続けてもいいかな」

「…………」

「限られた土地。限られた資源。限られた人口。この世界はどこまでいっても限りなく有限なわけだ」

「……なんで」

「我々も極力再利用を試みているんだがね。完全な再利用などできない。どうしてもロスが出てしまう」

 五貝の身体から力が抜ける。

 自分でやっておいてなんだが、ショックかもしれないな。

「失なった資源は外部から入れるしかない。ってことで君の出番って訳だ」

「………」

「君にはこれからを釣り上げる餌になってもらう」

 窓の外には巨大な『魚』がいた。

 全長約五キロメートル。甲冑を纏ったような異様な姿。傷だらけの身体。意思を感じない独特の目。

 ゆらゆらとこちらへと向かってくる。

「あれはこの宙域に生息する生物でね。外殻は鉱石、肉は動物性タンパク。貴重な資源って訳だ」

「…………」

「そして中々特殊な習性を持っている」

「…………」

「恋を食べるんだ。それも特別な」

「先生は」

「ん?」

「先生もこいつらの仲間だったんですね」

「は! 仲間も何も。今回の要だよ、君の先生は」

「…………」

「あの『魚』は特別な波長の恋を餌として認識する。これはそのためにチューニングしたユニットの一体だ。もしこれに恋をしたのならばそれはすべての餌になりえる」

「…………」

「残念だったね。君の恋は偽物だ。この人形の出すフェロモンに釣られただけの、ただの勘違いだ」

 神様はからかうように、嘲るように五貝に言う。

 私はただそれを聞いている。

 五貝は、どうだ。

 泣くか、失望するか、それとも怒るか。

 五貝は、それを聞いた五貝は──、


 ※


 魚にさらに嬉しいことが重なる。

 この餌場には他の同族の気配がないのだ。

 大概の場合、餌場にはすでに同族がいて、一悶着を起こすのが常だった。

 それがいない。

 つまりこの餌は自分一人だけのものだ。

 こんなことが今まであっただろうか。

 魚は運命をつかさどる何者かに感謝した。

 だが、いつ同族がやってくるか分からない。

 早く食べてしまわなければ。

 魚は大きく口を開けると光を飲み込まんと向かっていく。


 7


 五貝は、恐怖に震えながらも吹き出すように笑顔を作った。

 赤く腫れた顔。

「安心しました。なら私の恋は本物ですよ、先生」

 こんな状況だというのに五貝は笑う。

 不敵に、満足げに、笑う。

「知ってました? 私、鼻炎で年中鼻がつまってるんです。フェロモンなんて効かないんですよ」

 その声が耳に届く。

 その音を脳が理解する。

 何でもない、いつもの強がり。

 お前は何を言っているんだ。

 フェロモンが通じない? そんなことに胸を張ってどうするんだ。

 お前は絶体絶命で、あと一時間もすれば『魚』の餌なのに。

 だが、五貝の言葉は瞬間私の中に広がり、そしてすぅ、と一切の抵抗感も無く染み込んでいく。

 やがてその言葉はどこかよく分からない場所で化学反応を起こす。何かがじんわりと熱くなり、重くなり、私を現実へと引き戻す。地に足が着く。

 変な感覚だ。

 ふと、無意識に彼女のことを見ていた。

 彼女も私を見る。

 目が合う。

 視線。

 瞳。

 熱。

 瞬間、なぜだか私は五貝の拘束を解いている。

 それがごく当たり前のことであるかのように。それが自然な状態であるかのように。

 一瞬、自分でも何をしているのか分からず、固まってしまう。

 五貝も固まっている。

 時が止まる。

 誰も動かない。奇妙な時間。

 一秒? 一分? 一時間?

 どれだけの時間が経っただろう。

「何をしている!」

 それも神様の怒声によって終わる。

 誰もが動きだす。

「走れ!」

 私は叫ぶ。混乱する五貝を突き飛ばす。

 身体が動いてしまったものは仕方ない。

 言い訳はできそうもない。

「先生!」

 五貝の声。

「いいから逃げろ!」

 そちらを見ずに返す。

 背後からは戸惑っているような空気。躊躇するような間。そして足音。

 よし。

 さて。

 あとはどれだけこいつらを押し止められるかだ。

 足を踏ん張り、拳を構える。

 ここからだ。

 と。

 違和感を感じた。

 黒服も神様も、誰も、五貝を追う素振りを見せない。そして静まり返った部屋に神様の拍手が響く。渇いた音。

「いやー、見事見事」

 先程の怒声とは打って変わって穏やかな声。

「本当君は優秀だね」

 なんだ。何を言っている。

 まるですべて終わったかのような。

「こりゃ開発部にはボーナスかな」

 こいつは何を言っている。

 今から逆転だ。

 目を覚ました私が、恋を知った私が五貝を助ける。

 そしてハッピーエンドだ。

 そのはずだ。

 それを、こいつは何を言っている。

 分からない。

 私には分からない。

 神様が指先で合図をする。

「え?」

 次の瞬間、脇腹からナイフが生えていた。

 じんわりと血が滲む。

 汗、土埃、草の汁、それらを上書きしていく赤色。

 遅れて、痛み。

 振り返る。

 いつの間にかすぐ傍には黒服が立っていて、私に刃物を突き立てていた。

 この距離で気がつかないなんて。

 そんなこと。

「さっきの時間で何か変わったとか、目が覚めたとか、支配から解放されたとか思ってない? 君は何も変わっちゃいない。そんなエラーを許すほど僕たちはザルじゃないよ」

 神様は同じように続けて合図をする。

 胸、肩、太股へと、生け花でもするかのようにナイフが刺さる。

 激痛。

 気づけば叫び声を上げていた。

 膝を折る。脂汗がじわりと額に浮かぶ。しかしそんな光景にも眉一つ動かさずに神様は続ける。

「自分の責務を忘れていたのも、思い出して彼女を拘束したのも、何かに目覚めて僕らに反逆を起こしているのも、隣に立った男に刺されるまで気がつかなかったのも、すべて想定どおりの挙動だ」

 私には分からない。

 頭が理解を拒んでいる。

 五貝は。

 五貝はどうなる。

「ああ、こっちはもういいから。彼女を捕まえてきて」

 神様は周りの黒服たちに指示を出すと、私の顔を覗き込むように屈んだ。

 すべてが上手くいったときの興奮にらんらんと輝く瞳。

「これで彼女は恋をしたまま死ねる」

「…………」

「そして僕たちはまた新しい資源を手に入れて、また静かに暮らしていける」

 黙れ。

「愛しの先生に裏切られたんじゃあ、彼女、恋をやめちゃうでしょう?」

「…………」

「それだと困るんだよね。彼女には最期まで活きのいい餌でいてもらわなくっちゃ」

「…………」

「ん、もしかしてあんまりよく分かってない?」

 違う。黙れ。

「まあいいや」

 額に銃口が触れる。金属の冷たさが薄い皮膚を挟んで骨に伝わる。死の温度。

「君は最初から最期まで、全部が全部、綺麗な偽物だったってわけ」

 神様の口が、目が、そして指が動く。

「それじゃ。お疲れさま」

 引き金。

 轟音。

 衝撃。

 暗転。


 ※


 奇妙なことが起きた。

 光はもう目の前に見えていて、喰らいついたはずなのに、なぜか餌にありつくことができない。

 何かよく分からない、壁のようなものが存在している。

 魚は苛だつ。

 すぐそこに見えているのに、こんなに最高の、これ以上ないほどの状況なのに。

 それなのに食べられない。

 魚はさっきまでの幸福がすべてどこかにいってしまったように感じた。

 だからといってこの餌を諦める気にもなれなかった。


 8


 誰もいない暗闇で私は目を覚ます。

 高い天井。いや、私が低いだけか。

 私の身体はまだあの部屋にあった。

 弾痕とナイフ、そして血溜まり。

 どうして生きているんだろう。

 血の足りない頭で考えてみるが、答えは出ない。きっと偶然だろう。

 その間にも出血は止まらない。大きな血管をやられている。目を覚ましたはいいけど長くはない。

 というか出血云々よりも頭を銃弾が貫通して生きているほうがおかしいだろ。

 笑えてくる。

 一人で笑った。

 咳こむ。口元を熱い液体が伝うが、それが何かは確かめる気力はない。

 それでも、生きている。

 どうしてか、生きている。

 生きているなら最期まで足掻こう。

 この反逆すらも想定どおりなら、そのとおり足掻いてやろう。

 身体に力を込める。

 五体満足。

 手、動く。

 足、動く。

 なんだ、バッチシじゃん。

 私は血で濡れた袖で口元を拭うと、ふらふらと立ち上がる。

 もう手遅れかもしれないけど。

 五貝は『魚』の餌かもしれないけど。

 そのときは私も一緒に死ぬだけだ。

 壁で身体を支えながら引き摺るように部屋を出る。

 精一杯の速度で進む。

 幸か不幸か痛みはじんわりとしか感じない。

 だが残り時間は限られている。

 できることは限られている。

 今できること。

 記憶のとおりではこの辺りに。

 あった。銀色のパネル。ネットワークインターフェースだ。

 見つけたと思った瞬間、かくん、と膝から力が抜ける。

 まだ。まだだ。安心するな。

 穴の空いた太股を思い切り拳で殴り付ける。激痛。

「────ッ」

 叫び声を噛み殺す。

 ははは。よし、いいぞ。まだ動ける。

 急げ。死ぬ前に。

 私が? それとも彼女が?

 どちらもだ。

 私は懐からナイフを取り出す。文字どおり懐から。ぶ厚くて鋭い、軍用ナイフ。

 それをパネルの隙間に挿し込むと全体重をかけてこじる。二度、三度。徐々に隙間が大きくなる。もう一度。

 がきり、と金属が捩じ切れる音が響き、パネルが開く。様々な端子が姿を表した。

 さて。

 次だ。

 私は手に握っているナイフに視線を落とした。さきほどの荒事を経ても1ミリも曲がっていない刃。光を反射するエッジ。

 これからすることを考えると、恐怖で手が震える。汗が吹き出す。

 失敗すれば終わり。失敗しなくても時間でアウト。ならばするべきことは决まっているはずだ。だが。

 この期におよんで不安になる。

 五貝。

 この恋は嘘ではない、と彼女は言った。

 彼女のことだ。きっと本当だろう。

 なら私はどうだ。この恋は本物か。

 分からない。分からない。分からない。

 この感情すら神様の思いどおりなら、私の気持ちなどは何もないのではないか。すべて偽物なのではないか。

 気の迷いで大勢を敵に回し、傷を負い、それでもなお足掻こうとしている。それすらも計算の内なら、私はどうすればいい。

 今際の際になってぐるぐると思考が空回る。

 少なくなった血液で頭がぼんやりとしてくる。

 私はなぜこんなことをしている。

 私は。

 不意に脳裏に五貝の笑顔が浮かんだ。高輝度LEDライトのような、笑顔。

 ああ、なんだ。

 そして私は彼女に逆らえない理由に気づく。

 あれば好意だ。私のような計算も何もない、純粋な好意だ。だから彼女の笑顔はあれだけ眩しく、そして打算だらけの私をこうも揺さぶるのだ。

 単純なことだった。

 私のこの感情が恋かどうかなど関係ない。あの笑顔が失われるのは駄目だ。

 それだけだ。

 偽物かどうかは関係ないんだ。

 クリアになる視界。

 浅い呼吸。

 覚悟を決めるように私は大きく深呼吸する。

 頭を垂れ、ナイフを両手で頭上に持ち上げる。

 行け、一気に。

 二度目はない。

 心臓が早鐘を打つ。

 じりじりと痛む傷。

 五貝の姿、彼女の笑顔。

 歯を食い縛り──、私は掲げた腕を思い切り首へと振り下ろした。

 衝撃。

 熱。

 肉が裂け、温かな液体が飛び散る。

 その奥に金属の感触。

 よし。

 切っ先で抉るように切開する。

 ずるりと何かがめくれると同時に急速に熱が失われていく。

 濁っていく視界。急げ。

 用の済んだナイフを放り投げ、失血で震える指先で首筋を探る。硬い。指先が隙間にかかる。これだ。引き出す。

 早く。

 意識が。

 最後の力を振り絞る。

 ネットワークインターフェースから目的のケーブルを引っ張り出すとそれを頚椎のポートへと差し込んだ。

 瞬間、凄まじい衝撃と共に私の視界は闇に飲み込まれる。


 ※


 魚は怒っていた。

 はっきりと光が見えているのに、届かない。

 癇癪を起こし、暴れまわる。しかし壁は壊れない。

 魚は怒っていた。

 壁にぶつかる度、身体に傷が増えていく。

 何度も、何度も。

 このままでは先に身体にがたがくる。

 それでも自分を抑えることができない。

 そのときだった。

 光が動き出した。

 突然ふわふわと魚を誘うように動く。

 魚は自分の努力が報われたものと思い、何かに感謝を捧げる。

 ああ、ああ、ようやくだ。

 ようやくご馳走にありつける。

 魚は一周ぐるりと光の周りを回り、壁がないことを確認すると、じっくりと距離を取った。

 ここまで焦らされた鬱憤を晴らすかのように助走をつける。


 9


 ノイズだらけだった視界が次第にハッキリとしてくる。

 眼前にはどこまでも落ちていきそうな暗闇が広がっていた。いや、闇じゃない。辺りに見える光、光、光。私はこれを知っている。宇宙だ。

 私はその中に浮いている。

 くすんだ鈍色の球体。所々剥がれかけた外装。傷だらけのキャノピー。いつの時代の代物かも分からない。そこは古い船外作業用ポッドの中だった。

 いや正確に言うなら私自身がポッドになっていた。

 上部のカメラが私の目、様々なセンサーが私の肌、おんぼろスラスターが私の手足。変な感じ。

 成功だ。

 私は私のままここにいる。彼女を助けるために。ならそれでいい。作り物の身体が別の作り物になっただけだ。

 ともかくまずは状況を知るべく、私は探り探り身体を操作し、あたりを見渡す。

 星の海にはさっきまで私がいた船が浮かんでいた。

 軸方向にゆっくりと回転する長大な筒。

 すべてを思い出した私はその名前を知っている。

 第三十一次太陽系外移民船。

 旅路の途中、とある惑星に捕まってしまった箱舟。

 その先端から臍の緒のようにワイヤーが延び、その先に私──ポッドが繋っている。

 そしてその中には横たわる五貝の姿があった。

 一瞬どきりとしてしまう。しかしすぐにマイクがその寝息を捕らえる。

 よかった。生きている。

 一安心。ほっと胸を撫で下ろす。

 さて。

 だがそれもつかの間のこと。脅威はすぐに訪れた。

 各種センサーが高速で近づいてくる物体を検出する。

 直後、目視でも観測する。

『魚』だ。

 鎧のような鱗。立派なひれ。その身体は全身例外なく傷だらけで、生き抜いてきた長い年月を思わせる。

 だが弱っているという印象はなく、むしろ生命力に満ち溢れているように見えた。

 口元から飛び出た針も気にしない。体から生えた銛も気にしない。

 その巨体が尾びれを一打ちし、こちらに直進してくる。

 言葉などなくとも分かる、明らかな捕食の意思。こんながらくたなど一飲みだろう。そうなれば五貝と二人、仲よく御陀仏だ。

 ここまできてそんな終わりかたは認めない。

 だがどうすればいい。何ができる。

 私は大急ぎで私の装備をチェックする。

 診断プロセス起動。

 急げ。

 兵装、なし。

 推進剤、残り僅か。

 その他、船外作業用アーム一本。

 以上。

 は! どうしろと!

 慌てて考える。

 すぐそこに迫っている。

 どうすればいい。

 考えろ。考えろ。考えろ。

 アラート。

 彼我の距離、約十キロメートル。

 光を反射する影。

 六キロメートル。

 大きく開かれた口。並んだ鋭い牙。

 二キロ。

 白く濁った瞳。

 五百メートル。

 駄目だ。

 推進剤──、

 擦る。

 ギリギリで噴射が間に合う。

 表面を撫でるような微かな接触。

 しかし、それだけで船体は紙風船のように弾かれる。

 加速。

 内部はまるでシェイカーだ。

 がらんごろんと五貝の身体が宙を舞う。

 どこまでも飛んでいきそうな勢いは、次の瞬間、母船からのワイヤーによって止まった。急ブレーキ。

 ああ、五貝が壁に。

 鼻血が。

 ああ……。

「……ててて。もーなんなんだよ」

 赤くなった顔を押さえながら五貝が身体を起こす。

「あーもー、くそ」

「五貝」

「え? 何これ? うわ! なんか身体かるっ!」

「五貝」

「え、先生? え? なんで?」

「五貝」

「あ、スピーカー? マイク?」

「無事か?」

「あー! 大丈夫も何もないですよー! あのあとすぐに黒服に捕まるは、何か薬嗅がされるはでもう何が何やら──」

「ストップ!」

「…………」

「落ち着け」

 五貝が混乱している間にもアラートが上がりつづけている。

 外壁に深刻なダメージ。すでに船外カメラで状況は確認済みだ。ワイヤー接合部の鋼板が、それなりに厚みのある鋼板が、べろりと捲り上がっていた。

 恐怖する。もしも鋼板がすべて剥れていたら。そのまま宇宙の果てまで飛んでいっていたかもしれない。

 もう次は受けられない。

 そしてさっきの噴射で推進剤は空。

 これ以上の自力での移動は不可能だ。

「起きて早々で悪いんだけど、今結構ピンチで、結論から言うと死ぬかもしれない」

「あー」

 五貝は窓から外を見る。

 誰がどう見ても絶望的な状況だ。

 武装は何もなく、僅かばかりの推進剤は無くなった。

 目を覚まさなかったほうが幸せだったかもしれない。

 だが、そんな状況だというのに五貝は笑った。

「先生、大丈夫ですよ」

「何が」

「わたし確信しました。恋は無敵です」

「何も大丈夫じゃない」

「大男に追いかけられたり銃で撃たれたり、何度死ぬかと思いましたけど、何だかんだ生きているじゃないですか」

「それは結果論だ」

「でも事実は事実です。今回も大丈夫ですよ」

「もし駄目だったら?」

「そのときはそのときです、先生。愛するわたしと死ねて幸せものですね」

「死んでたまるか。せっかく恋を知ったのに」

「なら生きましょう」

 考えるんです、と五貝は言う。一人で駄目なら二人で。そう言って笑った。

 遠く、『魚』が折り返す。もう一度こちらに狙いを定める。

 考えろ。今の私には何ができる。

『魚』が尾びれをゆらす。

「先生、何か思い付きました?」

「駄目だ。五貝は?」

「駄目です」

「…………」

「もうおしまいだあああああ!」

「さっきの余裕はどうしたんだ」

「そんなの嘘に决まってるじゃないですか! いいから早くなんとかしてください!」

「五貝! お前! お前なあ!」

 死は着実に近づいているというのに五貝はいつもどおりで、なぜだか私も笑えてくる。

 やっぱり私は死にたくない。五貝も死なせたくない。

 考える。深く。

 診断プロセスをキル。感情模倣エンジンを停止。生命維持以外のすべての機能を殺す。計算リソースに回す。記憶を探る。聞いてきたすべて、見てきたすべて。何かヒントは。

『魚』に食われるか、それとも船に戻って処分されるか。どちらも候補から外す。二人とも死なず、ここからも逃げ出せる、そんな答えを考える。

 魚。

 釣り。

 餌。

 針。

 牙。

 ぽつんと、一つだけ候補が浮かぶ。偶然の産物。二人とも死なず、ここからも逃げ出せる、方法。

「五貝、アームの操作を頼む」

「え?」

「アームで剥れかけた外装を剥がしてくれ」

 ワイヤーの接合部。捲れ上がった鋼板。

「そんなことしたら今度こそどっかに吹き飛んじゃいますよ?」

「いいから」

「知りませんからね!」

「ううぅ……。えいっ!」

 五貝の操作でべきべきと音を立てて鋼板が剥がれる。そこに繋がった母船からのワイヤー。船外作業用のアームのみでかろうじて保たれている繋がり。

 これで準備ができた。

「先生、ここからは?」

「アームにワイヤーを絡ませて」

 カメラ──目線を『魚』に向ける。睨み合い。

「それで」

「合図をしたら口に向かって剥がした外装をキャストだ」

「キャストって?」

「そんなことも知らないのか!」

「え?」

「投げるんだよ。魚釣りだ」

「失敗したら?」

「死ぬ」

「うえー」

『魚』が私たちを飲み込んだら母船のやつらは『魚』への攻撃を始めるだろう。それに巻き込まれたら死ぬ。かといって逃げないと『魚』に食われて死ぬ。『魚』が死んだときに生き残っていても母船に回収されて殺処分だ。

 そうならない方法は一つ。『魚』にも飲み込まれず、船からも離れる。推進剤のない私たちにできること。ワイヤーを『魚』に引っかける。そして『魚』に逃げてもらう。

 さあ、勝負だ。

『魚』が動く。大きく尾びれを打つ。加速。速い。

「ファイブカウントだ」

 五貝が頷く。

 器用にアームを操作し、ぶら下がった外装をぶんぶんと振り回し始める。

「五」

 ぐんぐんと距離が縮まる。重なった鱗が恒星からの光を乱反射する。

「四」

 眩しい。牙が見える。そしてその奥には底無しの暗闇。

「三」

 傷だらけの身体。生物としての歴史。

「二」

 意外にもつぶらな瞳。

「一」

 五貝のキャスト。

 がくん、と。

 衝撃。

 音。


 ※


 噛み砕き、吸い込み、飲み込む。

 それら一連のプロセスが終わると、光はもう見えなくなっていた。

 魚は幸福だった。

 口を閉じ、目の前から光が消えたとき、魚はいつも満ち足りていた。

 全身に力が漲り、また次の場所へと泳いでいくことができる。また自由に身体を動かすことができる。生きていくことができる。

 前も、そのまた前も、そうだった。そして今回もそのはずだった。

 しかし今、魚は勝ち取ったはずの幸福感が急激に萎れていくのを感じていた。

 なぜだろう。

 魚は考える。

 口は確かに閉じた。光は消えている。何かが口に入った感覚もあった。

 では、なぜ。

 力が漲らない。自慢の尾びれが重い。身体が泥のようだ。傷が痛い。

 なぜだ。

 なぜ、空腹のままなんだ。

 魚は泳ぎだす。

 光は見えなくなってしまった。もうここには用はない。

 また次の光を探さなければならない。

 また彷徨わなければならない。

 魚は知らない。

 その姿の後には千切れたワイヤーが揺れていることを。

 そしてその先端には小さな球体がぶら下がっていて、それは大きな光を放っている。


 10


『魚』の口から延びるワイヤーにぶら下がったまま、宇宙を彷徨う。

 近くから見れば見るほどこの『魚』がどうやって泳いでいるのか分からない。それでも計器を見るにしっかりと移動しているようなので、きっとそういう生物なのだろう。

 キャノピーからは遠く星たちが見える。

 赤。青。白。黄。

 色とりどりの輝き。

 溺れてしまいそうな光の奔流。

 まさに星の海だ。

 視界一杯に広がる幻想的な光景に私も五貝もしばらく見惚れてしまう。そこには船も、追手も、含まれていない。

 ひとまずは安全と言えそうだった。

 だが安心かというとむしろ問題は山積みで、考えるほどに頭が痛くなってくる。

『魚』の行き先は分からないし、運よく引っかかったワイヤーは自力では外せない。残りの酸素量だって心許無い。不安だらけだ。

 それでも。

 それでも今、私は生きている。五貝も生きている。

 身体が無くなったりしたけど『魚』の餌にもならず、今こうして星を眺めていられる。

 恋は無敵だと最初に言った人は誰だったろう。

 結果論かもしれないけど今の私はそれを信じられる。

 恋は無敵だ。

 そのとき、星を眺めていた五貝の腹がなる。

 空腹の概念が無くなった私はすっかり失念していた。体内をサーチして食料を探す。しかし元の用途を考えるとそんなものは積載している訳もなく。

 ああ、あまりに絶望的で笑えてくる。

 これじゃ逃亡じゃなくて遭難だ。

 やはり全然無敵じゃないかもしれない。

 しかし今のこの晴れやかな気持ちが私の口から精一杯の冗談を吐かせる。

「えーと、釣りでもしてみる?」

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恋と暗闇と釣り糸 @kuriki_sasa

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