ワールドサイドー10

 日はとうに沈み、雨雲が月を隠す夜。帝都の隣の街で、ひっそりと動く影。工場勤務のような機械油で汚れた作業着に帽子を被った男が、細い路地裏を歩いている。雨がぽつりぽつりと降っていても、男はお構いなしでズボンのポケットに手を突っ込んでいた。

 路地裏の道沿いに、地下に通じる階段がある。階段の入り口の扉には紫色の看板が掛けられ、小さなバーの店名が掛かれている。男はその扉を開いた。ドアを閉め切ってしまうと明かりは壁に設置された蝋燭のみで、お世辞にも明るいとは言えない。階段の角度もなかなかのものだが、男は手すりを掴むことなくしっかりとした足取りで階段を降り切った。

 男が店内に踏み入ると、バーテンダーがカウンター越しにいらっしゃいませと迎える。店内の隅に置かれた蓄音機からはジャズが流れ、青白い照明が室内を照らす。カウンター席とテーブル席があったが、客の入りはまばらだ。格好はそれぞれスーツから男のような作業着まで様々である。彼らは新しい客をちらりと見ただけで、それぞれの酒や話し相手に興味を戻した。

 男はカウンター席で一人で飲んでいたスーツの男の隣に腰を下ろす。

「彼と同じものをくれ」

 バーテンダーは拭いていたグラスをしまい、準備を始めた。男はすぐに隣のスーツの男へと身体を向けた。

「情報を売りにきた」

「……どちら様の紹介ですか?」

 スーツの男は警戒の色を浮かべ、作業着の男に向き直る。スーツの男は情報屋であり、この街の情報の全てを握る覇者だ。普段は凡庸に会社に勤め、副業として情報屋をしているのだった。だが、彼の正体を知る者は目の前のバーテンダーだけのはずだった。情報屋はバーテンダーには絶対の信頼を寄せていたし、何より彼の驚きの表情が無実を物語っている。

 情報を欲しがる者は大勢いるが、情報を売る時は必ず二人以上の人間を介していたし、仲介人には情報が分からないように情報を買うことのできる人間を会員として絞り、その会員だけに暗号化した情報を解く方法を教えていた。

 だというのに、目の前の男は自らの正体を知っている。はったりだとは思えなかった。

「別にどこだっていいじゃあないですか。深入りはやめましょうよ。私と貴方の関係は、金と情報。それ以外に何が必要だって?」

 その通りだった。相手が何者なのか。それは立派な情報だ。情報屋は動揺して情けない姿を晒したことを恥じた。咳払いをして、居住まいを整える。

「それで、情報とは如何なるものでしょうか。まずは話して頂かなければ価値もわかりません」

「そうだな。確かに売りに来たとは言ったが、正直なところ金は要らないんだ。その代わり、私が貴方に渡す情報を街中、いや、帝都にまで広めて欲しい。もちろん、情報の出所は分からないように。できるか?」

 情報屋は金は要らないという男の言い分を信じてはいない。警戒度合いとしては、これまでの人生の中で最も高まっていた。作業着の男の真の狙いを読み取ろうと、彼の佇まい、表情、口調。得られる全ての情報を見逃さないようにしている。

「できるかできないかで言えば、容易くできますとも。誰もが興味を引く内容であれば、ほんの少し情報を漏らすだけで、それは無責任に拡散されていきます。さながら病原菌のようにね……」

 だが、作業着の男からは何も読み取ることができない。少なくとも、目や耳から自然と得られる情報からは、怪しい部分が何一つとしてないのである。それは情報屋にとって、とても不気味なことだった。

「それは頼もしい。ならば、貴方にお願いしよう」

 作業着の内ポケットから一枚の真っ白な手紙サイズの封筒を取り出す。鮮血を思わせるような真っ赤な蝋で封をされている。

「これがその情報です。それでは、私はこれで。夜道には気を付けてくださいね。私に言われるまでもないかもしれませんが」

 作業着の男はお金を置いて席を立つ。

「頼んだ酒は彼に出してあげてくれ。ああそうだ、仕事が終わっても連絡する必要はありませんよ。効果は目に見えるでしょうから。それでは、私はこれで」

 男が出ていったのを見て、情報屋はほっと息を吐いた。圧力のような緊張感は久々で、疲れの滲んだ顔になっていた。バーテンダーの差し出したペーパーナイフを受け取り、手紙を開封した。

「お前たち、奴の正体を探ってこい。分からなくても二日後には一度戻って成果を――」

「その必要はない」

 バーテンダーが客に扮した部下に命令を下そうとするのを、手紙を読んでいた情報屋が引き留める。

「私すら全く知らない情報を持っていて、なおかつこれを広めることで利益がある相手。心当たりは一つしかないね」

 手紙にはこう書かれていた。情報屋は、店内にいる人間全てに聞こえるように読み上げた。広めることこそ、依頼人の望みなのだから。

「イギリスの兵器開発者、レミニアル・マキシード博士は生きている。そして、帝国で新たなる大量殺戮兵器を作ろうとしている。……帝国民の世論を動かして、国にダメージを与える。――依頼主は、英国だ」

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