クロノスサイドー9

「いたたたたたたたた!」

「何、してるんですかぁ?」

 こおーっと息を吐くオクタ。刻也はそおっと振り返る。オクタを見て、刻也は元の世界で見たSF映画のキャラクターを思い出した。

「そこにはぁ、ユニ姉さまがいらっしゃるんですよぉ」

「へ、へえ、そうなんだ。そいつは知らなかったなあっていたたたた」

 華奢な体のどこにどんな力があるのか、オクタの力が更に強まり、刻也の腕をねじ切らんとする。

「しらばっくれてもだめですよぉ? 自動でドアが開かない時点で、その部屋に人がいることはわかるじゃないですかぁ」

「あー……なるほど」

 頷いたものの、理不尽を感じていた。ここにきて一時間と経っていない自分に、部屋のシステムを把握しろなんて無理な話だ、と。しかし今は、オクタに歯向かうべきではないと刻也は理解していた。

「私ですらユニ姉さまの一糸纏わぬお姿を直接見たことはないというのに――」

「じゃあ間接的にはあるのか……あ」

 自由に動く方の手で口を押える。だが、口から出た言葉は戻らない。青ざめた刻也とは対照的に、微笑むオクタ。その目は一切笑っていない。

「うふふ……刻也さんったらお喋りですね……」

 オクタは刻也の首根っこを掴み、廊下の奥へと放り投げる。刻也は顔から床に突っ込み、大きな音を立てた。

「なんかちょっと前にもこんなことあった気がする……」

 刻也はロンドンでの基地の、ユニにされた仕打ちを思い出した。血は繋がっていないが、似たもの同士かと変に納得してしまった。

 オクタは倒れた刻也に馬乗りになり、すっと手刀を構えた。

「記憶、飛ばして差し上げましょう。そして、いい子にしてあげます。あなたの世界では、壊れた機械は叩けば修理できるのでしょう?」

「それは迷信だから! できたとしても熟練のおかんだけ! あと俺人間!」

 もはや人の扱いすらしてもらえない。刻也は暴力から逃れるためなんとか抜け出そうともがくが、オクタはビクともしない。重心を抑えられていて、小さな力だというのに起き上がることはできなかった。

 抗議も虚しくオクタの手刀が高く振り上げられ、一気に振り下ろされる。

 しかし、ドアがスライドする音がして、オクタの手刀は刻也の首に添えられるような位置で停止した。

「あら? 二人とも、何してるの?」

 刻也が顔を上げると、そこにはタオル一枚を身体に巻き付けた、風呂上りのユニの姿があった。頬は紅く、桔梗色の髪や身体に付いた水滴が煌めき、それが四肢を伝って滴り床に落ちる様はなんとも艶めかしい。刻也とオクタはそのユニの姿に見惚れ、ユニの言葉に反応できずにいる。

「大きな音がしたから慌てて出てきたのだけれど……」

 ユニはオクタと刻也の態勢を見て、目を白黒させていた。二人ははっと意識を取り戻し、ユニに詰め寄って弁解を始めた。

「ね、姉さま姉さま! 刻也さんがユニ姉さんのお風呂を覗き見しようとしていましたので、懲らしめていたのです!」

「いや違うって……確かにそう見えても仕方ないのは認めるけれども!」

 二人の勢いに押されて、ユニは先ほどまで入っていた風呂場へと追い込まれていく。中は脱衣場と浴場が分かれていたが、ユニは二人に押し込まれる形でそのまま浴場へと進み――事件は起きた。

「あっ」

 浴場への入り口は狭く、オクタの足に引っ掛かり、刻也は態勢を崩した。前を行くオクタの背中の上に覆いかぶさり、オクタはユニを押し倒し、まるでドミノ倒しのように倒れこんだ。

「いたー……ちょっとオクタ! 大丈夫⁉」

 オクタは鼻からつーっと血を垂らし、失神していた。思い残すことはないというかのような笑顔。

 倒れたはずみに巻いていたタオルがはだけてしまい、生まれたままの姿を晒しているユニ。その胸の上に、オクタの顔が着地したのだった。ユニは起き上がってオクタを揺するが、起きる気配はない。おーいと呼びかけながら頬をぺちぺちと叩いてもなお反応がないのを見て、はあっとため息をついた。

「刻也、悪いんだけど、オクタを部屋に連れて行って……あら?」

 刻也は既に風呂場から廊下へと避難している。ユニの裸が見えそうになって、オクタが襲ってくると予測したのか、危機を感じた野生動物のように飛び出した。

「気絶……? いいけど、絶対に先に服を着てくれよな。俺の命に関わるから」

 刻也はオクタが襲ってこないならと風呂に戻ろうとして、ユニが裸でいたことを思いだし、踏み込もうとした足を留めた。

「前も言ったけれど、そんなに気にしなくていいのよ? えーと、オクタの部屋はモニタールームに戻って正面のドアから行けるから。階段を上がって右奥のドア。進めばわかると思うわ」

「了解」

 刻也はオクタだってそうやって説明してくれれば良かったのにと心の中で愚痴りながらユニからオクタを受け取り、お姫様抱っこで進む。

 モニタールームの正面の扉をくぐると、そこには大きな木製の螺旋階段が設置されていた。手すりにはつる植物や花々の彫刻が施され、色鮮やかに塗装されている。今までの無機質で冷たい雰囲気とは違い、温かさや心地よさを刻也は強く感じた。階段を登りきると赤の絨毯が敷かれた円形のホールがあり、正面には二つの扉。ホールの左右の端に通路が伸びている。ホールの天井はガラスのような無色透明な素材でできていた。それを通して時折強い光が瞬いて、刻也は目を瞬かせた。天井の先には不規則な形をした階段が、上下左右に揺れ動きながらさらに上部まで繋がっている。光の源へ向かっているようだった。

 刻也は何かに吸い寄せられるように一歩、二歩と進む。目は光にくぎ付けになり、どこか生気が抜けていくようだった。

「んっ……」

 オクタが刻也の腕の中で、もぞりと動く。刻也は精神を取り戻したようにその光から目を切って、首を振る。オクタを抱え直し、ユニの言った通り右側の通路を進む。

 通路の床は木張り。左側の壁はログハウスのように丸太を積んでいる。そして右側には壁ではなく、森の景色が広がっていた。湿った土や岩の上には苔が生え、大木が見渡す限り連なっている。木々の合間を埋めるようにシダの植物が地面を覆う。

 刻也は足を止めた。目を見張り、息をのむ。ここは室内なのか。それとも、既に外に出ていて、先ほどのモニタールームは地下にあったということなのだろうか。刻也は森に踏み出そうとして、止めた。つま先が廊下と森の土の境界に触れた時だった。こちら側と向こう側では、何かが違う。繋がっているのに、空間的に断絶されているような。そんな強い不安が刻也を襲った。

 寄り道を諦めて、刻也は森の小径のような廊下を進む。その突き当りに、扉はあった。古びた森小屋に取り付けられているような扉。中心には『オクタ』と彫られたプレートが掛かっている。

 刻也はゆっくりと、その扉を押し開けた。その中の様子に、刻也は開いた口が塞がらなかった。そこは一種の儀式部屋となっていた。部屋の中のどこを見ても、ユニに関わる物で溢れている。ユニの戦闘シーンの映像を切り取ったポスター。手製らしきユニの縫いぐるみ。下着姿の抱き枕。ユニの顔をプリントしたマグカップ。本棚の本に並んだ背表紙には、ユニの行ったことのある世界ごとに分けられたアルバムが入っている。

 刻也はオクタをベッドに寝かせ、足早に部屋を離れた。オクタにこのことをなんと説明すればいいだろうと頭を抱えながら、刻也は来た道を引き返す。左手の森は変わらずどこまでも深く続いているように見え、その静けさはなぜだか暖かく、懐かしい臭いがすると、刻也は思った。

 刻也がホールまで戻り、さてシャワーでも浴びようかと考えながら螺旋階段に向かった時,カタンっと何かが落ちる音がホールに響く。螺旋階段正面の右側の扉が少し開いていた。刻也は扉に近づき中の様子を伺う。中は薄暗く、開いた扉の合間のから差すホールの光だけが部屋の中に細く伸びている。扉を開くと、何か引っかかる。それは一冊の本だった。

「これが落ちて、取っ手に当たったってところか」

 部屋の壁は本棚でできていた。隙間なくみっちりと詰められ、天井高く続いている。部屋の一角にはティーセットが置かれていて、小さなコンロの上で、火にかけられたケトルがコトコトと音を立てていた。目の前の本棚にちょうど一冊分のスペースが空いていたので、刻也は本を拾い上げ、そこにしまう。背表紙にはタイトルが書かれていたが、刻也には読むことができなかった。本棚を眺めても、読むことのできる文字は書かれていない。

 部屋の中心には深く腰掛けられそうな高級感溢れる椅子と寄り添うように置かれたサイドテーブル。

 その上には本ではなく、原稿用紙の束が置かれていた。左上に開けた穴に紐を通して纏めている。刻也は原稿を手に取った。刻也の世界の言葉で書かれた小説だった。ぱらぱらと捲っていくと、束の半分を過ぎたあたりから、何も書かれていなかった。文章も途中で止まっていて、完結していない。出版され、公にされたものではないことは明らかであった。

「でも、どこかで読んだことがあるような……」

 違和感を持ちつつも、刻也は原稿用紙を元に戻す。部屋を出る前にもう一度原稿用紙の束に目をやりながらも部屋を出た。螺旋階段を進み、モニタールームへのドアが開くと、テディベアを抱えたユニがモニター前の回転椅子に座っていた。一番大きなモニターに映る、アルとリチャードを見つめている。画面の中の二人はまだ眠っているようだった。刻也に気付いたユニは回転して振り向き、労いの言葉をかける。

「刻也、お疲れ様。悪いわね。お風呂もまだなのに」

「いや、構わない」

 刻也は続けようとして、口を噤む。本当に聞きたいことの代わりに、もう一つの疑問をユニにぶつけた。

「オクタの部屋までの通路の横にあった森は一体全体なんなんだ? この支部はどこかの世界の森の中にあるってことなのか?」

「……そうねえ。なんて説明したものかしら」

 ユニはあごを抱えたテディベアに埋めて、じっと考えていた。長くなりそうだと感じた刻也は、近くの椅子を引き寄せて、ユニの正面に腰を下ろした。

「まず後半の質問に答えると、私たちが今いる場所は世界ではないわ。ただの空間なの」

「……というと?」

「書いたほうが分かりやすいわよね」

 ユニが宙に手を伸ばすとそこにはARのボードが現れた。ユニがボードに触れると、その軌跡が文字となって浮かび上がり、固定されていく。

「ただ空間があって、そこで生活しているだけでは世界とは言えないのよ。歴史があって、時間が流れていて、そこに運命の力が働いていて。何より、世界の意思があること。これが最も重要ね」

 ユニはキーワードをボードにまとめ、文字をそっと押し出す。すると文字はボードを抜け、刻也の前に整然と並んだ。

「私たちがいる場所は、ただの空間なの。私たちが存在するためだけにある場所。だから、私たちの希望通りに空間は変化するの」

「その結果が二階の森ってことか?」

「森だけじゃなく、今いるモニタールーム含む全てね。あの森はオクタが望んだからできた場所よ。あの子は刻也と同じスカウトされた人間でね。森に棲んでいたから、あれが落ち着くと言っていたわ」

「そういうことか……」

 踏み入ってはいけないと感じたのは、あの場所が彼女のための場所だったから。彼女の起源である、大切な場所だったから。刻也の不安げな表情は状況が腑に落ちたことで、少し和らいでいた。

「ありがとうユニ、また何かあったらよろしくな。そろそろシャワーでも浴びて休むわ」

「そうね。刻也の部屋はまだきちんと整備されていないから、奥の部屋を使ってね。休めるようにオクタが用意してくれているはずよ」

「助かる」

 手を挙げて感謝の意を伝えて、刻也はモニタールームから再びシャワールームに入る。ユニが使った側はなんとなく避けて、反対側の風呂場に入った。構造は全く同じで、刻也は手早く服を脱ぎ、シャワーのハンドルを捻った。心地よい温度に調節されたお湯が頭に降り注ぐ。

 シャワーが床を打つ音。それは他の音の一切をかき消す音のカーテンとなった。余分な音が追い出された中で、刻也は思惟に耽った。あの小説はなんだったのか。

 もしかしたらユニの書いているものかもしれない。寧ろそれが自然だが、それならば自分が読んだことなどあるはずはない。些細なことであるのに、どうしても気になってしまう。

 刻也はガラスについた湿気を拭う。映った姿は、鬱なって頬がこけているわけでも、目の下に隈があるわけでもない。擦り傷が少しある程度の、健康的な身体。何でもできる気がしていた。

 だが、ユニに救われる前のこと。刻也は自分が何をしていたのかと思った。だが、どれだけ記憶を手繰っても思い出すことはできなかった。覚えているのは日常の概略ばかりで、あれだけ繰り返した同じ日々の内容ですら思い出せない。

 まるで記憶と引き換えに、新しい身体を手に入れたかのような。

 刻也はシャワーのハンドルを閉める。きゅっという音に少し遅れて、シャワーが床を打つ音も消えた。両の頬を打って、風呂場を出る。用意されていたタオルで身体を拭き、肌触りの良い寝間着に着替える。

 刻也はユニの指示した奥の部屋に向かう。ドアが開くと同時に部屋が明るく照らされる。照らされて見えたのはベッドがたった一つ。それ以外には、転移部屋に負けず劣らず何も置かれていなかった。欲しいものや内装は全て自分の望む通りにしろという配慮なのか。オクタが面倒になって放棄したのか。刻也は苦笑いをしながらベッドに倒れこむ。たった一日だったが、刻也にとっては濃密に過ぎる一日だった。刻也はすぐに寝息を立てて、それを察知したのか部屋の電気も同時に消える。

 それを外からそっと覗く影があった。ユニは刻也が寝たのを確かめて、テディベアを片手に二階の資料室に足を運ぶ。机の上の原稿用紙の束を少しずらし、火にかけていたケトルを上げ、白磁のティーセットを取り出す。ハイビスカスの茶葉にお湯を注ぐ。湯気と共にハイビスカスの甘い香りが立ち上った。ユニはくんくんと香りを楽しんで、機嫌よく椅子に腰かけた。少し待ってから紅茶をカップに注いで口をつけ、喉を潤す。テディベアを定位置の膝上に乗せ、ほっと息を吐いた。

 原稿用紙を手に取って、表紙をめくる。

「これを読むのも、何度目かしら……」

 そう言いつつも、原稿を読むユニの目は輝いていた。まるで待ち続けていた新作を読むかのように、夢中になって原稿をめくり続ける。あっという間に最後のページに辿り着いて、ユニは原稿用紙を置いた。冷めてしまった紅茶をそれでもおいしそうに味わう。サイドテーブルの引き出しに原稿をしまって、資料室をあとにする。

 ユニの部屋は、二階ホールの左手の通路の先にあった。ただ、その通路には何もなかった。ただまっすぐ、部屋に通じる通路があるのみ。ユニは自らの部屋に向かって歩きながら、通路の壁に触れる。だが、通路の様子に変化はない。何も起きない。ユニは俯いてととぼとぼと歩を進め、自らの部屋のドアを潜った。部屋の中はユニの憧れでできていた。天蓋付きのベッドに、絢爛な飾りを施された楕円形の全身鏡。擦ると光を放つ石を加工したランプ。深紫色の模様が描かれたティーセット。クローゼットの中には華やかなドレスや日常服が目移りするほどにかかっている。これらは全て、ユニが訪れた世界で手に入れたものだった。この空間でユニ自身が作り出したものは一つとしてない。

 ユニは睡眠をとるべくベッドに潜り込む。興奮冷めやらぬ中、何度も寝がえをうち、読んだ物語の続きに思いを馳せた。それでも、いつかその時はきて、夢の中へと導かれていった。

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