ワールドサイドー5

 太陽が水平線に沈み、幾つかの星が瞬き始めた頃。アルとリチャードは何気なく岸に寄せられていた、小さな船に乗り込む。それはもちろんこの国の誰かのものなどではなくて、二人を迎えに来ている潜水艇までたどり着くためにリチャードの仲間が用意したものだった。

「これが船か……あまりいいものではないの」

 リチャードが船外機のスイッチを入れる。真っ白な蒸気を噴き上げながら、喧しい音を立てて船外機の中の歯車が回りだす。ゆっくりと沖に進み出たが、船の揺れは小さいとは言えずアルは既に口を手で押さえ吐き気を我慢している。

「戦艦の設計なんかもやっていたんじゃないのか」

 設計をしたならば、完成した際にそれに搭乗する機会もあるはずだと、リチャードは問う。

「あったが、外には出してもらえなんだ。完成したときに写真で見ただけじゃったな」

「……そうか」

 リチャードが船を加速させたことで、船外機の音はさらに激しさを増す。それきり二人の間に会話はなくなってしまった。アルは気を紛らわそうと、景色を見渡す。近くの空は曇っているが、英国から離れるにつれ、空に星が増えていく。夜空と同じく真っ黒な海の中、船の通った跡にできた白い泡の線を見て、まるで船の尻尾のようだと感じた。そしてその尾の先には、自分の生まれた土地が、国がある。

 しかし、それについて感慨に浸ることはなかった。物心ついて少しした頃には軍施設の中での生活が始まっていた。そんなアルにとっては、研究室と庭が世界の全てだった。だからアルは、両親がどうしているのかを気にかけた。両親は娘が奪われたと思っているだろうが、これは自分が望んだことだ。自分の気持ちを伝えることができず、そしてもう二度と会えないであろう両親のことを想って、アルは右目から一粒、涙を流した。

 リチャードは舵を握っている。周囲に英国の巡回艇がいないか、望遠鏡を使って水平線を索敵しながら潜水艇が自分たちを見つけてくれるのを待っていた。

 二人は無言のまま、波に揺られ続けている。浜辺もすっかり見えなくなり、白い尾を見るのにも飽きて船に横たわる。だが、瞳を閉じても船外機のピストンや歯車の音、その振動が彼女の眠りを妨げる。船の床は固く、軍の施設にいた頃のベッドはふかふかだったなと思い出して、アルは誘惑を振り払うように首を振る。

 アルのそんな様子を見て、リチャードは船外機のスイッチを切る。アルは振動や騒音がなくなったことを不思議に思い、寝たまま顔だけで周囲の様子を伺った。突然の静寂がリチャードのおかげだと知り、アルは安心して再び瞼を下ろす。疲れていたであろう、アルはすぐに寝息を立て、夢の中へと誘われていった。夜は冷える。リチャードはコートを脱いで、アルにそっとかけた。

 リチャードは舵から手を放し、船は波に揺られるままに進んでいる。船外機の音が消えてしまえば、波の音、波が船にぶつかる音、吹き抜ける冷たい風の音。濃い霧越しに見える月の明かり。

 リチャードは、英国へ向かう船に乗り込んだ時のことを思い出した。帝国は英国の軍事力が急速に成長していることに危機を感じ、その原因を調査せよとリチャードに任務を課した。

 今乗っている船とは比べ物にならない大きな船に乗り、たくさんの乗客の中に紛れて入国し、身分を偽装して英国軍へと入隊した。様々な訓練の後、配属を転々と変えられながら調査を続け、五年以上を経て、ようやく努力は実を結んだ。原因は一人の少女であるという本国への報告を終えて、これで任務は終わりだと思った矢先、追加任務の連絡が届けられた。

 少女を確保し、本国へ帰還せよ。これは、貴官の最終試験でもある。

 そうして、今に至る。任務に失敗し、捕まり情報を引き出されることを恐れてか、リチャードは潜水艦がどこに潜伏しているのかを知らない。英国を出たことは既に他の仲間が連絡を取っているだろうと予測し、リチャードは英国から離れること、そして妹のことを考えていた。

 リチャードは任務を終えた。国に帰ることが許される。国にいる妹は元気だろうか。

 リチャードの両親が事故でこの世を去ったのは、リチャードが十六のときだった。三つ下の妹と二人残され、頼る親戚も見つからない。葬儀を終えた後、何をすればいいのかもわからず、二人は家に閉じこもっていた。今まで当たり前だったことが、当たり前ではなくなる。これまでと同じようには生きていけない。いつかはやってくる別れの時と言えど、少しばかり早すぎた。

 お互いに泣いて、慰めて、また泣く。そうやって幼い二人は、自分たちの中で心の中に整理をつけていった。最初に考えたことは、これからどうやって生きていくか。両親が残してくれたお金だけで、どれだけ生きていけるのか。

 そんな中、軍学校ならば生活の面倒を見てくれる上、学費なしで入学することができると知り、リチャードはその道へと進むことを決意する。妹は離れ離れになることに、そして軍人になることに反対した。たった一人の肉親が、自ら危険な場所に向かう。家族が死ぬことを、妹は頑として認めなかった。二人で何度も話し合い、兄の言葉をなんとかのみ込んで、それでもぼろぼろと泣きながらやっぱり行かないで欲しいと喚く。最終的には軍学校に進むことを認め、妹自身は親の残したお金を使い、全寮制の学校へと入学した。

 リチャードは陸軍士官としての道を歩んでいた。その成績は優秀で、エリートとして学校を卒業していくであろうと思われていた。訓練や兵学を学ぶ日々の中、リチャードはある科学者と出会うことになり――。

 リチャードは小さな振動を感じ取り、そこで意識を引き戻された。海上に泡が立ち始め、その数が多くなっていくにつれ振動も大きくなっていく。真っ暗な海面を突き破り現れたのは、帝国の国旗が描かれた四角い潜水艇の入り口だった。続いて縦長の形をした滑らかな半円のような形が水面に現れる。四角い入り口の部分はその半円の上と繋がっていた。入り口の栓が回り、蓋が押し上げられると、そこから帝国海軍の軍服を着た人間が姿を現した。

「よお兄弟、向こうの飯は美味かったか?」

 男の敬礼に、リチャードも同じように返す。彼はリチャードの軍学校時代の友である。成績もリチャードと一、二を争い、切磋琢磨するライバルだったが、陸と海、どちらを専門に選ぶかという時になって、二人はそれぞれ違う道を進むことにしたのだった。それぞれの場所で名を馳せて、帝国の軍を牛耳ろうと夢見て。

「そこそこってところだな。悪いな、グリッド。手間をかけさせて」

「気にするなよ。そこで呑気に寝てるのが、例の?」

「ああ、こんなちっこいのがって、今でも信じ難いがな」

 グリッドは小舟に向かって浮き輪付きのロープを投げる。リチャードはそれを受け止めて、ロープを自分の腰に巻き、アルを脇に抱えた。そのままボートから潜水艇に飛び移り片手でロープを伝い、潜水艇の中へと入った。梯子を下りると、中は鉄板むき出しで飾り気などは一切ない。通路は狭く、人が一人すれ違うのがやっと程度の広さで、リチャードは頭を下げないとぶつけてしまいそうになる。室内はとても静かで、蒸気機関の動く音も聞こえない。小さな明かりが天井に点々と付けられているのみで、お世辞にも室内は明るいとは言えなかった。窓はついておらず、閉塞感が強いことは否めない。

 リチャードの脇で抱えられていたアルがびくっと動いて、左右を見回す。

「むう……? ここはどこじゃ?」

 眠い目を擦りながら、見覚えのない景色に首を傾げる。

「寝ていて構わないぞ。ここは迎えの潜水艇の中だ」

「ほーう、なるほどの。どうりで聞き慣れない音じゃと思ったわ」

 今度はリチャードが首を傾げる番だった。リチャードの耳には、そのような音は聞こえていない。三人の息遣いや足音、それ以外に音は聞こえていなかった。リチャードの様子を汲んで、アルは答えた。

「帝国の蒸気機関はイギリスのものとは仕組みが違うということじゃ。わしは耳がいいのでな、お主たちが聞き取れんような小さな音も聞き取ることができる。聴診器要らずじゃな」

 ふふんと胸を張って自慢げに話すが、脇に抱えられたままでは威厳もない。

「まだ眠いだろう。迎えの船に着くまでまだ時間がある。寝ていろ」

「うむ、そうさせてもらおうかの……」

 アルは瞳を閉じると再び小さな寝息を立て始めた。そんな気を許した様子に、グリッドは驚きを隠さない。

「随分とおとなしいんだな」

 グリッドが言っていることが、性格的なことではなく、従順だという意味だと、リチャードは気付いていた。

「彼女は自分から望んでここへ来たんだ。もちろん、帝国のために兵器を作りたいってわけではないけどな」

「……可哀想に」

 彼女が望むものは、きっと今の帝国にはないだろう。あったとしても、それが彼女に与えられることはない。グリッドは軍帽を深く被り直し、つばを下げた。自分の国の現状を自分の怠慢であるというかのように恥じて、顔を隠すように。

「出発する。奥に休める場所くらいはある。到着したら伝えるから、お前も寝ておけ。疲れたろう?」

 リチャードの肩を叩いて、グリッドは前方の操縦室へと向かった。分厚いドアの押戸の向こう側に消え、ほどなく潜水艇が揺れ始める。リチャードはグリッドとは逆に通路を進み、横になれる場所を探し始めた。

 狭い潜水艇はもともと遠征用にはできておらず、長く中で生活するようにはできていない。小さな倉庫の扉を見つけ、中の様子を伺う。綺麗に掃除されてはいるが、今は積み荷もなくぽっかりと空いた状態で、横になるには十分といえた。

 リチャードはアルを床に寝かせたが、アルの顔が不機嫌な顔になったので、自分のコートを脱いで枕代わりに使った。満足そうにしたのをみて、自分も隣で横になる。

 感覚を研ぎ澄ますと、床を通じて蒸気機関の中身が軋み唸り、蒸気の噴き出す音が伝わってくる。小さな音だが、何とか聞き取ることができた。リチャードは今まで、この音が帝国と英国で違うなどと考えたことはなかった。しかし言われてみたところで、その違いに気付くことはできない。蒸気機関については軍学校で仕組みや構造などを理解し、必要ならば修理もすることができるというのに、その違いは音だけではとても掴むことはできない。リチャードは、アルという天才はやはり本物なのだと関心しつつ、久々の睡魔に身を任せた。

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