ワールドサイドー3

「ったく……片づけるということを知らんのか、お前は」

「いやはやすまんの。つい夢中になって」

 大通りを外れた小さな喫茶店でトーストに齧り付きながら、アルはケラケラと笑う。そんなあまりにも気楽な姿にリチャードはこめかみを押さえたくなったが、生憎両手は新聞でふさがっていた。

「曲りなりにも、お前は拉致されている立場だ。あそこに戻りたいなら今のままでも構わんが、もう少し弁えろ」

「よかろう。考えておく。ところで、さっきから新聞越しに話をされていて、わしはとても不満なのじゃが」

 アルは最後の一口をもしゃもしゃゴクンとした後、ぶすーっととした表情を創ったが、リチャードは知らぬ顔で、というより見えていないので新聞の記事から目を上げることはなかった。

「時間が惜しいからな。必要な情報は手に入れておかなきゃならん」

 リチャードはコーヒーを飲むのにカップを取る以外は、新聞から目を離さない。皿の上はとうの昔に空になり、アルは手持ち無沙汰になった時間を埋めなくてはならなくなった。椅子が身の丈に合わず、宙ぶらりんになっている足をぶらぶらさせる。だがふと良いアイデアが浮かんだようで、アルは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 アルは右手で目を下に引っ張り、舌を大きくだした。ベロベロバーっとやった後、今度は鼻を潰してぶーぶーと鳴き真似を始めた。

「何をやってるんだお前は」

 リチャードは新聞を閉じ、眉を寄せる。

「わしをかまえ。暇じゃ」

 気を引くことに成功したアルは、自慢気に胸を張る。

「乙女というなら、それらしく静かに座っていろ」

 リチャードは森でのやりとりを思い出し、鼻息一つで一蹴する。アルはぶーぶーと膨れたが、一呼吸おいてふっと、目つきが鋭くなった。

「して、これからどうするのじゃ。帝国に渡るには、船に乗らなければならんのじゃろう?」

 アルの変化を感じ取り、リチャードの表情も引き締まる。

「もう少し小さな声で話すようにしろ。不自然じゃない程度に」

「ああ、これは重ねて失礼したのじゃ」

 まさか英国一の天才発明家と敵国のスパイがこんなところで一緒に朝飯を食べているなどと客は夢にも思うまいが、用心するに越したことはない。

「この街の南側に、小さな町がある。そこへ向かうぞ」

「また歩くのか?」

「ああ、昼のうちに移動するなら、変にコソコソしないほうがいい。お前はコートを着て、これを被ってろ」

 先ほど行きがけの駄賃とばかりにこっそりと盗んできた、キャペリンを取り出した。ワンピースと同じ真っ白な無地に、マスクと同じピンク色のリボンが巻かれていた。

「リチャードからのプレゼントか? ふふん、これだけでわしの心を掴もうなどと思わんことじゃ」

「服も何もかも、全部俺の支払いだろうが」

 といっても経費だがなと、帽子を手渡す。アルは嬉しそうに被り、左右の端をきゅっとつまんだ。

「可愛かろう?」

 服と同じ真っ白な一品だが、サイズは少しアルにとって大きいようで、つまんだつばを何回も下に引っ張った。

「顔を隠すためだ。俺の顔より、お前の顔の方が軍には見つけやすいはずだからな」

「くるくる回ってしまうのじゃが……」

「我慢しろ」

 今度はきちんと勘定を払って、煙に陰った太陽の照らす蒸気噴き出す街の中を進む。日中でも冬の冷気が晒されている肌を容赦なく刺していく。人の群れの中で逸れないように、リチャードはアルの小さな手を、包み込むように握って歩いた。

「次の角、曲がるぞ」

 リチャードは顔を隠すようにしてアルに告げる。アルもリチャードの手を握る強さが変わったことで事態の変化を感じ取り、小さく頷いた。

「走るな。振り返るな。少し俯いて歩け。怪しまれないように」

「う、うぬ……」

 角を曲がり、人ごみに紛れる。歩く速度は変えず、気配に気付いていないよう振る舞う。それを二度三度と続けたところで、リチャードは舌打ちを打った。

「本当にしつこい野郎どもだな……。ロンドンの同業者さんはよ」

 大通りを選んで曲がっていたが、とうとう少し暗く、人通りもない狭い路地へと駆け込んだ。

「お主、これでは袋のネズミとなるぞ! 奴らは街のことは知り尽くしているのじゃから!」

「そんなことは分かってる! いつまでも表にいたらきりがない! 追ってきたやつらをここで迎え撃つ!」

 角から飛び出す前に慎重に行く先を確認する。物が溢れた煩雑な細い路地は見通しが悪く、どこに誰が潜んでいてもおかしくなかった。

 リチャードは事態の打開を求めて、周囲を見回す。いつ見つかるか、追いつかれるかもわからない。その時は刻一刻と迫る。逸る気持ちが心臓の拍を加速させ、額に、手に、汗が染み出す。空気に漂う炭の臭いが、やけに鼻についた。

「なあ、上に逃げるのはどうじゃ?」

「上だと?」

 アルの指さす先には、屋上に上がるための取っ手が並んでいた。

「だがそこにも奴らが――いや、乗った」

「そうであろう? では、さっそくわしをおんぶするのじゃ」

「いーや? お前はここで、置いてけぼりだ」

「へ?」

 虚を突かれたアルの顔を前に、リチャードは不敵に、にやりと笑った。

「端の方に寄って、下を向いていろ。何なら耳も塞いでおけ」

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