ワールドサイドー2

「どうしてわしがこんなところを歩かねばならんのじゃ……」

「恐らく車道には検問が張られてる。それじゃ逃げ切れんだろう」

 森の中に車を止め、歩き始めてから僅か五分。アルは不満を垂れ流していた。霧に染まった道を歩くが、視界の悪さからその進みは遅々としたものとなる。次第と口数が減る中、アルは何か言いたげにちらちらと男の様子を伺う。しかし反応がないと悟って、自ら口を開いた。

「して、一体どこに、連れて行こうと、いうのかの」

「最終的には帝国だ。だが、まずは仲間が用意している船に辿り着かなきゃならん」

 アルはついに立ち止まり、その場に蹲ってしまう。

「なあ、一つ、頼みたいことがあるのじゃが。それも、早急に」

「なんだ。今更帰せというんじゃあるまいな」

「服を……用意して、欲しいの、じゃが」

「服?」

 男が隣を歩く白衣の幼女を見下ろす。彼女は白衣の前をきつく締め、カタカタと震えていた。言葉がやけに途切れ途切れになっているのが寒くて震えているせいだと、男はようやく気が付いた。連れ出したときに彼女がほとんど裸になっていたのを思い出す。街に寄ることはリチャードにとってリスクでしかなかった。アルの要求を一蹴しようとして、彼女の弱々しく震える姿に、記憶の中のある妹が重なる。はっとして、胸の奥にじんわりと罪悪感が広がっていく。無意識に止まっていた思考と呼吸を、ため息のように吐き出した。

「なら街に行くぞ。夜が明ければ店も開く。帝国に到達する前に、死なれては困るからな。……それまでは、これでも着ておけ」

 男はコードを脱ぎ、アルの頭の上に雑に放った。

「乙女の裸を、見ておいて、随分と、偉そうな、やつじゃ、な」

「……ふん」

 アルがだぶだぶのコートを頭から被さると、その目の前に、男の背中があった。

「……なんのつもりじゃ?」

「街まで背負ってやる。その方がよほど早く移動できる。今のままでは森を出るのもままならん」

「……いい心がけじゃな」

「ぬかせ」

 アルは男の背中に登り、首に手を回す。男はアルが張り付いたのを確認して、ゆっくりと立ち上がり、歩き出す。男の一定の歩幅とストライドは、規則的で心地よい揺れを生み出し、背中にいたアルは、劇的な一日の果ての、強い眠気に襲われた。

「そうじゃ……まだ、名前を聞いておらんかったの……。基地内での名前は偽名じゃろう?」

「……リチャード・ハーベスだ。本名かどうかは教えん」

「信じるよ。調べる方法もないしの……」

 すぐにすーすーと寝息がして、アルの重みが少し増した。男は一度立ち止まって、アルをそっと背負い直す。

「仕事が子守りになるとはな……」

 リチャードはまた深くため息をついて、街への道のりを歩み始めた。


 *     *     *


 街の服屋が玄関を開けると、そこには既にお客が並んで開店を待っていた。背の高い男と軍用コートに白衣という些か奇異な格好をした小さな女の子。親子というには似ていないが、二人はしっかりと手を繋いでいた。

「娘に似合う、動きやすくて夜になっても寒くないような服を見繕ってやってくれ」

「わしに選ばせてくれてもいいじゃろう! それとも何か、わしが嫌がらせに高いものばかり選ぶとでも思っておるのか!」

「あのう……?」

「気にしないでくれ、少し不機嫌になっているだけだ」

 リチャードはアルと親子の振りをするということと、おとなしく急いで移動することを約束の下ここに来ていたが、店に入ってしまえばこっちのものだと、アルは数えきれないほど並んでいる色とりどりの服を前に、目を輝かせていた。

「こういった店に来るのは初めてか?」

 店主が店の奥に消えていったのを横目に、服を一つ一つ鏡の前で合わせているアルに、リチャードは何気なく声をかける。

「初めてではない……と、思うが。わからぬ。基地の外にいた頃の記憶は、少し曖昧じゃからな。ただ、自分の身に着けるものを、自分で選べる日が来るとは。……楽しいものじゃな」

 アルは手に取った服をすぐに取り換えてぽいっと放り投げてしまうので、隣には本当に服が山のように重なり始めていた。

「……できるだけ急げよ」

「わかっておる。わしも、もう少し自由を満喫したいからな」

 アルは年相応に、にいっと笑って、服選びを再開する。

 傍を離れ、近くの椅子に腰を下ろした。リチャードは基地の中で寂しそうに空を見ていた彼女を思い出し、誘拐されている現状を『自由』と表現し、生き生きとしている今の彼女を、複雑な思いを抱えて見つめた。帝国に行きついてしまった後の生活は、きっとロンドン基地での生活と変わらないか、それより劣るものになる。両親との今生の別れを対価に、ほんの少しの自由を得た。それは今後の人生を鑑みても、とてもじゃないが釣り合うものではない。リチャードは、祖国で暮らしている妹のことを想った。まだ妹がアルのように幼い頃、手を繋いで街を歩いて——。

「どうしたのじゃ、ぼうっとして。気を抜くとわしが逃げてしまうかもしれんぞ?」

 リチャードはアルの声で昔の思い出から引き戻される。深い翠色の瞳が不思議そうにのぞき込んでいた。

「どうじゃ? 似合うか?」

 ととっと離れてくるりと回ると、たくさんのフリルがふわっと浮いた。真っ白なワンピース姿はとても可憐で人目を引くことこの上なかったが、何か羽織ってしまえば大して目立つものでもないかと、リチャードは納得した。何より、自分で気に入ったものを選ばせてやりたいと思ったのだった。

「いいと思うぞ」

「じゃろう?」

 アルは両手を腰にやって、ふふんと満足げに笑う。

「さて、それでは次は腹ごしらえかの」

「その前に勘定だ。店主、勘定を——さて、いくぞ」

 リチャードは店主を探して店を見回した瞬間、店から逃げ出すことを決めた。

「まだお金を払っておらんぞ?」

「十分な額を置いていく」

 椅子に服の値段より少し多めのお金を置いて、二人はそっと店を出た。ドアについていたベルが二人にとっては警報で、慌ててその場を離れる。店主はそのベルに呼ばれて、フロアへと戻ってきたのだが。

「またいらしてくださ——お、お客さん!」

 客二人の姿を探して店を飛び出すが、表の道は既にそれぞれの生活の場に向かう人や車でごった返していたため、見つけ出すことはできなかった。店主は肩を落として、店に広がる惨劇に恐る恐る目をやる。そこには無残に、ぐしゃぐしゃになった服が山脈を為し、舞い上がる無数の埃が、差し込む朝日に柔らかく照らされていた。

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