クロノスサイドー1
濃霧極まる夜の街。その一角のベンチに、一組の男女が座っている。正確には、座っているのは少女だけで、少年はベンチの上で横になり、少女の膝を枕にして微動だにしない。
「さあ、仕事の時間よ。起きて頂戴」
少女は少年のおでこをぺちぺちと叩き、それは少年が目覚めるまで続いた。
「……ああ、あんたか……っ!」
後頭部に伝わる柔らかい感触と、彼女の顔を見上げる位置から自らの置かれている状態を察し、勢い良く起き上がった。
「おはよう刻也。よく眠れたかな?」
「……ここは?」
照れ隠しも含んでいるのか周囲を見渡そうとするが、霧が濃いせいで奥のほうまで見通すことはできない。肌寒い風が、二人の間を吹き抜けていく。
「ロンドンよ」
「ロンドン⁉」
「刻也の知っているロンドンとは、かなり違うかもしれないけれど。とりあえず、落ち着いて話せる場所にいきましょ。もうすぐ冬になる頃だし、ここは寒いわ」
ユニは既に歩き出していて、刻也は慌ててその後を追う。入り組んだ路地の中を進んで向かった先は、あまりきれいとは言えない、小さなバーだった。ユニがドアを押し開ける。中には、新聞を広げ、タバコをふかす店主らしき男が一人、カウンターの向こうにいるだけ。挨拶の一つもなく、ユニもそれを気に留めるでもなく、店の隅の椅子を引き、足を組んだ。
「あなたも座って」
刻也は戸惑いながらも、勧められた向かいの席に腰を下ろす。
「君の歳がいくつなのかは知らないけれど」
「安心して。何も頼まないから」
ユニは先んじて、刻也の心配の種を取り去った。
「それにしても、随分と落ち着いているわね。いきなり拉致されて、どこかもわからないような場所に連れてこられたっていうのに」
「……落ち着いているというより、驚くだけの余裕がなかった。今は楽になったけどな」
刻也はあれだけ酷かったデジャヴが、ピタリと止まったことに驚いていた。最後の方は次に何が起こるのか、感覚的に分かってしまうほどになってしまっていたが、ここに来てからはその症状が一切でていない。
「楽になったのは当然ね。既に自分で結論を出していたようだけれど、刻也の住む世界では、タイムループの物語が展開されていたの。刻也の知らないところでね。このことも詳しく話したいところだけど、そうするには先に、私たち『クロノス』について知ってもらう方がいいわ」
『クロノス』。ユニやオクタの所属する、時間を通した世界干渉を目的とした組織。無数に存在する平行世界に移動することができ、そこで起きる出来事の改変、特に、タイムループが可能な世界での様々な活動を主としている。
「そうしてあなたの世界でタイムループに干渉した後、あなたが発見された。私たちが世界を去ってからも、世界が拒否反応を起こしていたから、おかしいと思ったのよね」
ユニは順番に、今までのことを語り始めた。
タイムループの始まった世界で、本来ループしている本人たち以外は気が付かないはずの時間の流れに気が付いた人間が現れたこと。そうした人間は極希に現れ、そのままでは一人の例外もなく精神が崩壊して、その世界から抹消されてしまうということ。そうなる前に、ユニ達『クロノス』が、刻也の救出を図ったこと。
「私たちがあなたを……助けた。そう、助けたのは、あなたに私たちの仲間になれる素質があったからなの」
一瞬、ユニの表情が曇るのを刻也は見逃さなかったが、それに触れようとはしなかった。
「それが、あの症状ってわけか」
「私たち『クロノス』の構成員は様々な世界を渡り歩く。そのときに、世界は私たちを排除しようと動き出すの。その手段は様々だけど、身体に直接作用するようなものは、私たちには通用しない。そういう体質を持っているの。私も、刻也も」
「つまり、君は——」
「ユニでいいわ」
「——ユニは、俺を『クロノス』に勧誘したいと?」
「申し訳ないけれど、刻也の名前はもうメンバーの一人として登録されているわ。だからこそ、こうして私と一緒にこの世界に来ているわけで」
「今からでも、それを断ることは?」
「できないわね。諦めてもらうしかないわ」
ユニは肩を竦め、自分の姿を確認するよう促した。刻也は言葉のままに見下ろすと、思わず目を見開く。
身につけていたジャージは影も形もなく、全身が黒を基調とした衣服に包まれている。ユニが着ていたのと同じロングコートに、伸縮性の高いワインレッドのズボン。薄手の真っ白な手袋に、肌触りの良い白シャツと、顔以外のほとんどの部分が覆われていた。左目の視界の違和感は片眼鏡のせいだと気が付いた。
「クロノスの制服よ。似合ってるから、安心なさい」
「まじかよ……こんな、知らぬ間に」
「いいじゃない。……ただ死ぬより、マシだったでしょう?」
ユニの口調も表情も変わらないというのに、刻也はその言葉から伝わってきたものに、思わず背筋を震わせる。
「それについては、感謝している。もう、半分狂ってしまっていたから」
刻也は深く頭を下げた。
「いいのよ。人員不足は慢性的で、こっちだって困ってる。お互い様ってこと。さ、他に聞きたいことがなければ、仕事の話を始めましょう。スケジュールに余裕はないの。マスター、二階の部屋を借りるわ」
紙幣を二枚机に置いて、奥にある階段を上っていく。マスターはちらりと目線をやっただけで、再び新聞に目を戻した。
二階には廊下を挟んで小さな部屋が二つ用意されていて、ユニは右手のドアノブに手をかける。ベッドが一つに椅子と机が一つずつ。清潔とはいえなかったが、ユニは埃を軽く払っただけで、ベッドにすとんと腰を下ろす。刻也は今にも壊れそうな椅子を引き寄せ、そうっと身体を預けた。
「これを見て」
ユニは腕時計を机の上に置き、表面を覆うガラス部分を二度叩く。すると、AR(オーグメンティッド・リアリティ)によって創り出された街が、空中に浮かび上がった。
「これはロンドン全域を表示した地図よ。あなたの世界のロンドンとは、だいぶ違うでしょう?」
刻也はユニに促され、ARに手を伸ばす。ぎこちないながらも、地図を操作して詳細を確認していった。
「ビッグ・ベンは、この世界にもあるんだな」
「……ああ、時計塔のことね。この街のシンボルよ。正確に、そして永遠に時を刻み続けることができる時計。この蒸気機関が発達した世界の中でも、最高の発明品だといわれているわ」
「蒸気機関?」
「あなたの住んでいた世界とこの世界は、まったく別物だと考えて。この世界では効率化、小型化等の高度な蒸気機関が世の中に広まって、至る処で利用されているの。外の霧は、その副産物ってところね」
蒸気機関の発達と同時に煤煙や排ガスによる環境の汚染が進行し、ロンドンの街は、今やスモッグに近い霧に呑まれてしまっている。立ち並ぶ家や工場には、必ず煙突が生えていて、そこから絶え間なく黒い煙がもうもうと湧き出す。人々はそれをよしとしないながらも、一度得た利便を手放せないでいた。
「それで、ここからが本題よ。私たちはこれから、ある幼女、及び数時間後に彼女と合流する青年を追随し、監視、護衛を任務として遂行する」
「……え?」
ユニは刻也の戸惑う声を無視し、喋り続ける。
「私たちの現在地はここ。目標である幼女の位置はここね。まずはここを監視できる場所へ移動する」
ユニは地図を操作して、二つの座標に赤い点を打った。
「あなたの腕時計にも、今回の作戦に関するデータが送ってあるから、時間のある時に確認しておいてね。いつだって仕事は、長丁場になるから」
「……あの」
「とりあえず店を出ましょう。質問は作戦開始位置でまとめて受ける」
ユニは時計を腕に巻いて、颯爽と店を出ていく。刻也はそれに遅れぬよう、ほとんど小走りになって背中を追った。
残された店主は相変わらず新聞を広げていた。しかし目は、壁越しですら二人の姿を正確に追い続けていた。虚ろながらも、敵意に満ちた瞳で。
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