クロノスの気のままに
涼成犬子
少年の物語の始まり
薄暗い部屋の中、一人の少年がパソコンの青白い光と向き合っている。不規則な打鍵音が走る度、画面には文字が増え、時にそれが全て消去されていく。
冷気を遮るため締め切った窓に、無数の雫が線を引く。暖房の生温い風がそうさせているのだろうが、少年の額にも雫が浮かんでいる。
少年の顔色は悪く、僅かに呼吸も乱れていた。体調の悪化が始まったのは、一か月ほど前。
通っている高校で見た、無人の教室の景色がきっかけだった。最初は違和感程度だったものが次第に過剰になり、過度な回数の既視感に変化していった。ただそれがあまりにもリアルで、曖昧なものではなく確信として、その景色を見たことがあった。それはなんだか未来予知にも似たもので、次に起こることがなんとなくわかってしまうほどで。その精神的な疲労が少年の心を蝕み、体調にまで影響を与えていた。
「……とりあえず、こんなもんか」
使い古したノートパソコンに文字を打ち込んでいる間は、それを感じることがない。自分の紡いだ文字列は初めて見るものばかりで、少年はそんなことに安心している自分の異常さに気が付きながらも、どうすることもできない現在をただ受け入れ、消費していた。
明日になっても、きっとこんな日々が続く。夢までもが自分に牙をむくような気がして、少年は眠ることさえ躊躇い、苦痛を覚える。
そうしてまた一週間が過ぎ、二週間が過ぎて、少年は愕然とした。日付が巻き戻っていることに。自分は確かに一か月以上を過ごしたはずだったというのに、目の前に広がっている無人の教室は、記憶にあるそのままの世界だった。
少年は自分の置かれている状況に、一つの答えを出した。自分は今、繰り返す時間の中にいる、と。また時間が流れて、あの教室の景色が見えて。自分が永遠に、これ以上の時間を生きられないと確信してしまった。
そして、またパソコンと向き合う。自分で作り出したものだけが、この世界で新鮮といえるものだったから。
「また……」
しかし、非情にも同じ景色は幾度となく繰り返される。終わらない、進まない時間の中で、自分の生が停滞しているのだ。
精神的な限界が近づいてきているのを、少年はひしひしと感じている。次第に出かける時間は減って、ひたすらパソコンの前に座り、自分の心情と空想を綴り続ける時間が増えていった。
何度繰り返したか、数えるのを辞めてしまったある日。
「何を書いているのかな?」
少年は、キーボードを打ち込む指を止めた。女性の声。反応薄く、ゆっくりと、背後からの声に答える。
「なんでもいいだろ?」
突然背後に人間が現れても、今の少年には驚くだけの余裕が残っていなかった。
「確かにそうだね。私が現れた件とも、関係のないことであるし」
狭い部屋であるから、椅子に座る彼と壁にもたれかかって腕を組む少女の距離はすぐ近くだというのに、その距離感はどうにも遠くにあり。
「君と出会うのは初めてなはずだ。もう何回繰り返したかわからないけれど」
「そう。やはりしっかりと自覚できているみたいで、なにより」
「勝手に本をいじるなよ」
気配を感じたのか。少年は振り向くことなく釘を刺すが、少女は少年の言葉など構いなく、本棚に綺麗に収められた中から一冊を抜き出し、それをじっくりと観察した。開いてページを繰ることもなく、ただ見つめていた。
「それで、何の用だ?」
「ああ、ごめんなさい。君を救いに、もとい勧誘及び回収しにきたの。壊れてしまう前にね」
本を本棚に戻して少女は少年の横に立ち、肩に手を添える。少年はその白い手袋に包まれた手を一瞥するも興味を失い、パソコンの画面に再び文字を走らせ始めた。
「それで、救ってくれるというのは? 宗教の勧誘ならお断りだ」
「どうせなら、ちゃんと顔を正面で話したいのだけど」
打鍵音は止まり、少年は少し間をおいてから、ゆっくりと少女の顔を見た。
片眼鏡を通した桔梗色の瞳と、鋭い顔立ち。雪のように白い肌を、小さな桃色の唇と、瞳と同じ桔梗色の艶やかな長髪が、鮮やかに彩る。足まで覆い隠してしまっている黒を基調としたフード付きのロングコートに、赤と黒のチェック柄のミニスカート、さらに黒いニーソックス。左手首には重厚な造りの腕時計。少年に微笑みかける姿は、控えめに言って美しかった。
「
差し出された手を、少年は闇のように黒い瞳で見下ろした。
日本人とアメリカ人のハーフとして生まれた刻也は、生まれ持った胡桃色の髪と日本人としては少し異郷寄りの容姿をしている。目元には不眠症故の隈が出来ていて、顔は頬骨がうっすらと浮き出てしまうほどに痩せこけていた。上下はともに着古し擦れてしまったジャージ姿で、刻也の雰囲気をより一層暗いものとしていた。
「聞きたいことは山ほどあるけど、そちらの要件から聞こうじゃないか」
「へえ。それは随分と有難い配慮ね」
「内容によっては、こちらは何も答えず、お前をここから追い出す」
「どうやって?」
「力ずくで」
ユニはどう見ても細身で、男である自分ならばそれは容易なことだと、刻也は考える。しかし、ユニはそれを聞いても微笑みを崩さない。
「そういうことなら話は早い。場所を変えましょう」
「場所?」
刻也がそう聞いたときには既に銀に光る銃口が突き付けられていて、銃の持ち主であるユニはやはり、微笑んだままだった。
「続きは、別の世界で。また会えたらだけれど」
その言葉の終わりと同時に刻也は意識を失い、床に倒れこんだ。対象の意識を刈り取る、精神干渉系粒子銃(マインドブラスター)。音もなく発射された形なき弾丸が、刻也の脳を貫いたのだった。
ユニは銃を腰のホルスターに収める。耳を覆うイヤホン型のデバイスに触れ、口を開いた。
「オクタ、今から彼をそちらに送るわ」
「了解。お疲れ様です、ユニ姉さん。久しぶりの素体ですから、丁重に扱わないと」
「失神しているだけだし、問題ないはずよ」
通信機の向こう側から聞こえるオクタの声はユニよりも幼く、しかししっかりとした雰囲気を伺わせるものだ。
ユニは腕時計を外し、刻也に向けてかざす。すると青白い光線が横たわる刻也の身体をなぞり、それが全体に行き渡った瞬間、刻也の身体は消えていった。
「転送完了。私もそろそろ……あら」
ユニも自分にスキャンをかけようとして、ふと手を止める。薄暗い部屋を照らすパソコンの画面。ユニはそこで踊る文字たちに引き寄せられるように、画面をのぞき込んだ。
「ユニ姉さん?」
オクタは静かになってしまったユニを訝しむ。
「……ああ、ごめんねオクタ。少し見入ってしまっていたの」
「何にです?」
「黒木刻也の生み出した、ちょっとした物語よ。……ねえオクタ」
「なんでしょうか?」
「例の実験の話、受けるわ。彼、私に頂戴。……もちろん、そうなってしまったらだけど」
「……珍しいですね。ユニ姉さんが『騎士』を指名するなんて。分かりました。上に伝えておきます」
「ありがとう、そっちに戻るわ」
ユニはそこで通信を切り上げ、自らにスキャンをかける。自らの身体が転移され、消えていくのと同じように、パソコンの画面の中から彼の紡いだ文字が、物語が消えていく。彼女はそれを目の端で捉えながら、だれもいない部屋で呟いた。
「私に出来る全てを以って、幸せを掴ませる。それが、私の流儀よ」
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