イサクの犠牲

安良巻祐介

 

 まだ日暮には早い筈なのに、空が燃えるように赤かった。

 足元に長く黒い影が伸び、その尖端が、祭壇とその上のものを――手足を虫のように縮めた細い身体を、少しずつ侵している。

 神のお告げによって齢九十を超えた妻が生んだ希珠のような御子を、私は自らの手で殺そうとしている。

 それもまた、神のお告げであったからだ。

 奇蹟によって、神はこの子を私に授けた。

 そして今、奇蹟によってこの子を私から奪い去ろうとしている。

 何故にそのようになされるのか、そんなことは考えるまでもない。神とは人の理の外に在るものだからだ。むしろ私などが神の真の心を理解できてはならぬ。

 ゆえに、今、この茜色の山の頂で、私は祭壇の薪の上へ横たわらせた私の子の首を刎ねんとする。

 時の狂うたような空の色は、これより流される犠牲の血の色か。子殺しの罪を成す赤い実の色か。それとも。

 ――――否。

 違う。本当はわかっている。

 神は告げた。神は命じた。

 けれど、違う。

 私は、刃を振り上げたまま、壇上の息子の顔を見た。

 それは、笑っていた。

 穢れ一つない顔で、そう、悲しみも恐れも怒りも苦しみも持たない、獣の仔のような顔で――ただ、笑みを浮かべていた。

 喉の奥から、奇妙な音を立てて、細い息が絞り出されるのがわかる。

 空の紅さは犠牲の血の色ではない。罪果の色でもない。

 それは、私の炎だ。

 私の胸の内で、畏れと怖れを焼き尽くすために私の心が燃やす、人としての本能の炎だ。獣を払い、獣を討ち、獣を弔うための炎だ。

 私の心の中で、唯一これだけが、神より賜うたものでなかった。

 私は振り上げた刀を、その炎で打ち鍛えた刃を、神の名の下にではなく、我が名の下に、我が子へ向かって振り下ろそうとする。

 私は知っている。その刃が我が子の首へは届かぬ事を。奇蹟は、また起きる事を。

 それでも私は、それまでの刹那、たった今、この時、この瞬間だけは、全身の全霊を以て、目の前のそれを殺さんとしよう。

 今、この時、この瞬間だけでも――私が私自身であるために。

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イサクの犠牲 安良巻祐介 @aramaki88

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