2019-4
遠くへ来た。
生まれた家にはもう戻れないくらいの遠くへ、ひとりで。
そこでの暮らしは案外、悪くはないものだった。
細菌のわいていない水、死骸ではない食糧、人間の顔だちもみなまるくふっくらとしていて、幸福そうだった。わたしもそこで暮らしているうちに、きっと彼らのようにまるくふっくらとした顔だちになるんだろう、と予感をしては、幸福な気持ちになった。
飢えることなんてひとときもなかったし、皮膚の削げ落ちるような痒み、痛みに襲われることもなくなった。大きく澄んだ川では子供たちが遊び、大人たちは沐浴をしていたものだけれど、水嫌いのわたしなんかはその川べりの芝生が柔らかいところを何よりも気に入っていた。
わたしはそこでの生活を気に入っていたが、17年と少しが過ぎた頃、生家へ戻らなければならなくなってしまった。
そこの生物はみなさほども生きないものたちであったから、17年なんて短い間であっても彼らとわたしは友人だった。友人は、わたしが帰らなければならないと言ったとき、非常に悲しそうな顔をした。べつの友人は、笑った。わたしはその友人のことが他のどの友人たちの中でもいっとう好きであったから、彼が笑ったことが嬉しく、笑った。
「じゃあさ、土産でも買ってきてよ。」
「なにがいいの、おまえは。」
「土地がいい。」
友人は、土地、といってまた笑った。土地なんてなにもないぞ、と言っても聞かなかった。作物も実らず、価値もなく、汚染すらされて「ただあるだけ」のそれにどんな意味があるのだとわたしは首をかしげる。友人は、そんなわたしを見て言う。
「はて、あんな価値の無いもの。って顔してる。」
「その通りだ。価値も無いし、夢も無い。」
「夢は必要か?」
「……必要だと思う。腹は膨れないし、金にもならないけれど、おまえは夢を大切にすると思ってたから。」
「その通りさ、おれは夢を大事にする。だから土地がいいのさ。」
結局わたしはよく分からなかったけれど、友人が冗談ではなくて本当に土地をほしがっているのだということだけは分かった。
わかった、じゃあ土地を土産にしよう、と言ったわたしに、友人はまた笑う。
「おれの夢はな、おまえの隣に住むことさ。」
わたしの夢も同じだった。けれどわたしは言えなかった。
夢を大切にしていないのだろうか、それとも、友人のいう夢と、わたしの思う夢は違うのだろうか。そんなふうに思うとすこし切なくて、涙を流せるにんげんならば、きっとわたしも泣いていたろうと思うくらいだった。
ここへ帰る、一日前。
そんなやりとりをして、友人と、久しぶりに同じベッドで眠って、彼の寝息を閉じ込めた瓶を作った。
清浄な空気、そして、大切な友人の生きているあかしが詰まった瓶は今でもわたしの宝物だ。
わたしが死ぬときには、この瓶の口をあけて中身をすべて吸い込んでしまってから死にたい。
「おまえ、また変なこと考えてたろ。」
「そんなことない。昔のことを思い出しただけだ。」
「おまえの昔っていつだよ。」
「……たぶん、17年前のこと。」
隣に住む友人は、それって17のときのことじゃないのか、と、声をあげて笑った。
「17っていうのは、同じものじゃないのか。」
17年前と、17のときっていうのは違うものだよ。友人はまた笑って、しわくちゃの顔をいっそうしわくちゃにして、その明るく真っ直ぐな目を細めてしわの中に埋もれさせる。友人のこの笑い方が、こうして笑うのが、その頃からちっとも変わっていないように思えてわたしは、友人に異議を申し立てることにした。
「同じものだ、たぶん。だっておまえも、わたしも、何にもかわっていやしない。」
「そう思うのはおまえだけだよ。おまえは本当にかわっていやしないけれどね。」
何も学んでいやしないし、何にも知らないままだし、今だってトマトが苦手だし、スナック菓子に目が無いだろう。
友人の言うのは、すべて本当のことだった。
わたしは今も、昔もトマトが嫌いで、スナック菓子が大好きで。
「でもな、おれはもうスナック菓子なんて食べられやしないし、トマトだって、スープにしなくちゃあいけないんだ。」
土地が変わるほどの長い時間変わらないでいることなんて、にんげんさまにはできないんだ。
友人の声は、言われてみればあの頃よりも、すこしばかり低くなっているような気がした。
青い鳥の尾の引く 魚倉 温 @wokura
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