2019-3
はなびらが落ちて枯れてゆく花というものに、憧れたこともあった。
少年はそう、振り返る。すっかり老いてしまったわたしと違って、少年の容姿は、出会った時から変わらない。
わたしと少年の出会いだなんて、もうすっかり記憶の奥底に埋めてしまうくらいに昔のことなのに。
「いま、なにをかんがえているんですか。」
少年のすこし舌足らずな話し方も、あの頃から変わらない。丁寧な言葉遣いで、丁寧に発音しようとしていることはとてもよく伝わってくるのだけれど、少年の話す言葉はそう、わたしが日本に留学していたときによく聞いた、ジャパニーズたちの発音とよく似ている。
「きみのことだよ、それ以外に考えるべきことなんてなにもないさ。」
「あなたは、よくうそをつきましたから。」
わたしは嘘をついたことなんてないさ、と、言おうとしてやめた。わたしにとっての真実が、少年にとっての真実だとは限らない。わたしが老いるのは真実であるけれど、彼が老いるのは真実ではない。人間の姿をとっている、という次元でいえば同じ常識のうちに生きているはずで、真実もまた同じであるはずだが、彼とわたしに関しては逆もまたしかりというやつで。結局なんと返事をすべきか分からなかったわたしは、ぼんやりと、少年から視線を外して微笑むことしかできなかった。
「わたしたちは、うそをつくことはありません。このいみがわかりますか。」
少年は、いつも難しいことを言う。
君が、今は、はなびらの落ちる花のことなんてこれっぽっちも憧れていないということかい、と、脳裏に浮かんだ言葉は声にはならなかった。声を出そうとした喉はおそろしく急激に狭くなり、満足に酸素を取り込めなくなったわたしは会話どころではなくて、ひたすらに咳き込み肺が痛むのを押さえるばかりだ。少年は、それでもいつもと同じ容姿で、いつもと同じように微笑んでいる。涙でぼやけた視界でも、それは分かった。
「そのとおりです。わたしは、かれてゆくことにあこがれました。」
少年は、淡々と難しいことを言う。
わたしと会話をしているかのように。まるでわたしと少年が出会ったばかりの、まだわたしも少年だった頃のように。
かれてゆくことにあこがれました。あなたと、ときをかさねたいとおもいました。
そうしてしんでゆくならば、どれだけしあわせなことだろうとおもいました。
けれど、いまはそうではありません。
かれてゆくあなたが、うつくしいから。
少年は、平然とはずかしいことを言う。
わたしが喜んでいるのが手に取るように分かっているかのように、いつものつめたい、人形のようなほほえみを湛えて超然と言う。少年にはひとの気持ちがわからないのだろうか。わたしなどよりも何倍も、ずっとずっと長く生きてきた少年は、すがたかたちが同じであるだけで人間ではないのだろう。そんなこと何年も前に気づいていたはずだのに、今になって実感した。
「わたしを、ちゃんと、たべてくれるか。」
「わたしは、うそをつくことはありませんよ。」
わたしは、うつくしいものをたべて、いきているのです。
少年は、わたしが始めて見るふしぎな顔をして、言う。
ひびわれた身体。そのひびからなんだか得体の知れない植物が生えてきてしばらくが経ったし、何より今やわたしの身体は至るところが葉や根やのう胞まみれになって酷い有様だ。わたしのどこが美しいというのだろうか。少年は、またもわたしのことなど手に取るように分かるのだというように笑って、朽ちてゆく命は美しい、と言った。たしかにわたしは朽ちてゆく。老いて、弱って、どうしようもなくなってしまった。それに比喩ではなくほんとうに、わたしのひびわれから生えてきた図々しいものたちも近頃は朽ちていく。
「あなたは、ずっとわたしと、いきてゆくのです。」
少年は、破裂したのう胞、その中身で汚れたわたしの頬を撫でる。それはそれはうつくしい顔をして、わたしのことを、さも愛おしいというかのような顔をして、少年はわたしの頬を撫でる。
その細い、つめたい指先が心地よくて眼を閉じると、少年の笑い声がした。
意識が、その彼の笑い声を追うように遠く、わたしから離れていく。
わたしは、肉体が死んで、それで少年に近づけるのであればなんと幸せなことだろう、と、安らかな気持ちになった。
少年の指先が、笑い声が、わたしを少しずつ、わたしから引き剥がす。
あんまりにも心地よかったから、わたしは殺されているのだということに気づけなかった。
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