2019-2
午前八時三十分。平時であれば既に電車に揺られ、職場で青白いモニタを眺めているはずだった時間に彼が、こんな小高い丘の上でなにをしているのか。気になるというひともいるのであろうけれど、結論から言うと彼はなにもしてない。ただ、そこにいるだけだった。
事の発端は、彼が起床したこの日の午前六時まで遡る。
その起床時間は彼にとっては三十分の寝坊にあたり、それゆえに彼はどたばたと身支度をして慌てて家を出たのだが、治安の悪い地域の安アパート暮らしであるというのに彼は、家の鍵をかけ忘れた。加えて、今日は同期のほとんどが休暇を取得する日――というのも、前の週末、定例の愚痴会と化したあまりにも実りのない飲み会で、とうとう彼らの不満は爆発したのだ。ボイコットだ、ボイコット、と誰だかが主張し始めたのを皮切りに、この日、飲み会に顔を出していた者の実に八割が「体調を崩す」と決めたのだった――で、会社に抗議をすることの重大さよりも顧客に申し訳がない気持ちの方が勝ってしまった彼は、休んだ同期たちの分まで残業をする覚悟だった。
つまり、彼の帰宅は遅いと見込まれる。そして、アパート周辺の治安は悪い。物取りに入られる可能性と入られないで済む可能性は天秤にかけるまでもなく前者の方が大きい。彼は、遅刻連絡用に社用メールアドレスの下書を開きながら走った。
それが、午前六時十二分。
彼は走りながら、気付いた。
いくら片手でスマートフォンの操作ができるデジタルネイティブといえど、いくら画面を見ずにフリック入力ができるほど使い慣れているといっても、走りながら、指先、視線のぶれる状態では無理がある。
彼は生来の生真面目が故に冷や汗をかきながら、上長の番号を呼び出した。電話帳に登録している番号はしばらく更新していなかったが、旧来の習慣、文書よりも音声、音声よりも対面を重んじる上長からの着信は数日前にもあったし、明らかに見慣れたそれがこの数日の間に変わっているとも――デジタル機器になじみのない男が相手であることも相まって――思えなかった。
何度かのコールの後、いつもならば三コール程度で受話されるのに、と彼は悩んだ。会議中であれば後日詰られることは目に見えているからだ。悩んで、悩んで、待った。
そして、今に至る。
七時までずっと電話を掛け続け、それでも応答がないことを不思議に思った。おろおろしながら、それでもたどり着いた自宅までの道のり、行き交う人のないことに気付いた。
隣室からいつも聞こえる優雅な大学生の笑い声も、店先で居眠りをしている雑貨屋の老婆も、留学生らしきコンビニの、日本人よりもずいぶんと肌の色の濃い女性もいなかった。あぁなるほど。彼は気付いた。
もう、頑張らなくてよいのだ。
ストレスで胃痛を起こすことも、腹を下すこともない。
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