優しいあたし

弥広修治

優しいあたし

「空ちゃん、今日の司会また噛みっ噛みだったじゃん! もう素人って訳じゃ無いのに、どうしてそこまで緊張しちゃうの?」

「そんなの分かんないってばー! 茜ちゃん、いつも酷いことばかり言ってぇ……」

「でもあたし、そんな空ちゃんが大好きなんだよ?」

「知ってる……私も、後ちょっと優しかったら茜ちゃんのこと、それこそもっと大好きになるのに……」

「何それー! ありのままのあたしを好きになってよー!」

 今でもよく思い出す。同じアイドルグループで、あたしの大好きな空ちゃんと過ごした、すごく特別な一日。傍目から見たらただの日常ワンカットなんだろうけど、あたしにとってはスゴく特別な瞬間。だって、空ちゃんがあたしのことを好きって言ってくれて、それにもっと好きになる余地があるって言うことが分かった、大事な大事な一日なんだから。

 こんな毎日が、ずーっと続けば良いなぁって、いやきっとずっと続くよね、あたしと空ちゃんなら間違いなく一緒だよねなんて、その時は根拠も無い自信でいっぱいだったなぁ。


「そーらーちゃん! 今日も声が震えてたね!」

「機材トラブルはしょうがないでしょ~!」

 開口一番ふぇぇ~ってリアクションが似合いそうな調子で空ちゃんは言う。まぁ、あれは空ちゃんの慌てた反応が見たくて、機材がバグっちゃったようにこっそりギターを弾いただけなんだけどね。

「まぁまぁ、でもお陰で皆大盛り上がりだったじゃん、空ちゃんのどじっ子スター街道は今日も全力まっしぐら~」

「ふえぇ~、もうそれ以上はよしてぇ~!」

「あ、ふぇぇ~言った」

 泣きじゃくりそうになる空ちゃんは、今日も相変わらずに可愛い。ステージの上の真剣な表情と、楽屋のいかにもポンコツっぽい表情と、あたしの好きな空ちゃんをどっちも楽しむことが出来るなんて、我ながら随分贅沢な生活をしていると思う。

「もう、茜ちゃん。本当にちゃんとやってくれるの?」

「ん、何が?」

「だから、きっ、今日聞いてくれるって約束だったじゃん。青ちゃんに!」

「……あ~」

 ただ、そんな幸せな毎日にも、最近影が差してきている。最近、空ちゃんはあたしと二人きりになると、決まって面白くない空ちゃんになってしまうのだ。仕草は不安そうにおどおどしてて、でも話す口ぶりはうきうきと楽しげで、額面だけみたらすっごく魅力的なはずなのに、そんな空ちゃんを見てると決まって何故か、良い所で遮られた夢のように心がふさぎ込んでしまう。

 理由は、分かってる。そういう特別な空ちゃんはいつも、言葉や視線をあたしへ向けてても、心は別の人に向けているから。あたしを見つめるキラキラした目が、本当は別の人と重ね合わせてて、決してあたしをしっかり見てくれようとしないから。

「任せてて! さてではかの服部半蔵の如く、隠密に任務を完遂してみせようぞ~……ははっ、なんちゃって~」

「ぷははっ、カッコいい! それじゃあよろしくね、服部茜ちゃん!」

 でも、そんなつまんない空ちゃんは今日でおしまい。まるで忍者のように、あたしはひっそりと幸せを掴むんだ。忍の印を結ぶフリをして、そそくさと楽屋を立ち去った。


 あたしの空ちゃんライフに狂いが見え始めたのは本当に最近のこと。オフの日に空ちゃんに、一緒にランチへ行こうって誘われたのがきっかけだった。

 あたしの方からお誘いしたことはこれまで何度かあっても、空ちゃんの方から誘ってくれたことは中々無くて、ひょっとして財布でも忘れてきちゃったのかな? 全く、相変わらずおっちょこちょいだなぁ、なんてこと考えながら約束の場所に向かうと、気付かれたがりな空ちゃんが、何故か周囲の目線を過敏に気配りながら待っていた。

「やっほー空ちゃん」

「や、や、ほー……」

 少しぎこちない返事。普段からちょっと自信足らずな節はあったんだけど、それにしたっていくら何でもおどおどしすぎてて、あぁ、何か後ろ暗いことを隠してるんだってすぐにピンと来た。

「空ちゃん、あたしに出来ることなら何でも言ってね」

「えぇぇぇぇ!? 茜ちゃん、ひょっとして超能力者!? テレキネシスなの!?」

「違うよ~。っていうか、テレキネシスは浮遊術だし……」

 いつもと全く同じ空ちゃんに、あたしは少し安堵した。いつもと違う空ちゃんが見られるのは楽しいけど、少しだけ不安定さが垣間見えるっていうか、違和感が働いて怖くなっちゃうっていうのも事実だった。

「……茜ちゃん、今から私が話すこと、隅から隅まで全部秘密にしてくれるって約束してくれる?」

 あたしの名推理に恐れをなしたか、空ちゃんは素直に諦めてくれた。

「もっちろん! こう見えて、あたし口は堅いから!」

「ほんと? ありがとう、茜ちゃん!」

 らんらんとした気分だった。頼りにされるよりすることの方が多くて、だから誰かに頼りにされたことがすごく嬉しかったし、ましてや相手が興味のある空ちゃんだったっていうのもあって、まるで自分がお姉ちゃんになったような心持ちがしたのだった。

「茜ちゃん、それで、相談はね……」

 そこであたしは一部始終を知った。空ちゃんが、同じグループの青ちゃんが好きで好きでしょうがないこと、でも芳しくない結果が頭にちらつくせいで一歩が踏み出せなくて、だから代わりをあたしにこなしてほしいこと……

 空ちゃんは健気に一つ一つ言い紡いでいく。そんな空ちゃんに、あたしは二つ返事でこう答えた。

「うん、いいよー」

「えっ、そんなあっさり!?」

 何故かお願いした空ちゃんが凄く意外そうな声を挙げる。

「? どうして驚いてるの?」

「だって、絶対びっくりされると思ったもん。絶対嫌だって渋られると思ったもん。同じメンバーのことを、しかも同じ性別の子を好きになっちゃったんだよ?」

 言ってる内に顔がどんどん青ざめていく空ちゃん。さしずめ嫌な想像でもしてたに違いない。全くもう、変な所で想像力が豊かだもんなぁ。

「別に、あたしはそんな空ちゃんも面白いなぁって思っただけだよ。好きな相手が青ちゃんっていうのはちょっとびっくりだったけど、まぁあたしが空ちゃん大好きなのと変わんないかな、って」

「うーん、そうなのかな……?」

 その時のあたしは本当に、嘘偽りなくなくそう思っていた。他人の悩みにこうやって横から入れるのは何だか凄く楽しそうだったし、それに他の誰でもない空ちゃんのお願いだし、寧ろ、空ちゃんをからかうネタがまた一つ増えてラッキー、なんて能天気なことまで考えていた。あたしはまだ、空ちゃんの気持ちは友達の枠を飛び出した位の些末な物で、柄にもなくもっと仲良くなれば良いなぁなんて、自分以外のことに思いを馳せていたけど。

「……でね、その時の青ちゃんったら……」

 共有できる仲間が増えて気が楽になったのか、自分の思いの丈を吐き尽くした後、今度は青ちゃんについて色々と語り始めた。最初は楽しそうにしている空ちゃんが見もので、可愛らしいなぁって親身になって聞いていたんだけど、段々空ちゃんの言葉に影が見え始めてきて、その黒を真正面から浴び続けるのが酷く気持ち悪くて、いつの間にか空ちゃんの顔から目を逸らす回数が増えてきて、紅茶のカップをしょっちゅう口元へ運び続けていた。今まで空ちゃんにこんななおざりな態度を取った事なんて無かったのに、どうして?

 理由は探し出したらすぐに見つかった。空ちゃんの言葉が、何一つ、あたしに届いていないんだ。確かに空ちゃんの話し相手はあたしで、送り先もあたしで間違いないはずなのに、空ちゃんの声も言葉も、一つ残らず目を合わせようとしてくれず、あたしのことなんてどうだっていいかのようにひたすら別の物しか見てなくて……

「やめてよ、その話」

「……えっ?」

 空ちゃんの表情がぴしゃりと固まる。その一言で空ちゃんの意識が全てこっちへ向いたのを感じて、かなり心地がいい。戸惑う空ちゃんを見てたら徐々に心の余裕が沸いてきた。でも、それと同時に少しだけ悪いことをしちゃったな、って気持ちも沸いてくる。

「あぁごめん! 今時計見たら帰る時間過ぎちゃってたんだ、それで焦って考えるより先に喋っちゃってた」

「そ、そっか! ごめんね茜ちゃん、付き合わせちゃって! お題は私が払っておくね!」

 良い閃きだった。どうにか穏やかムードのままその日は終わることが出来たんだけど、その日から空ちゃんはみるみる面白くなくなって、あたしと顔を合わせる度にいつも同じ話を繰り返すのだった。きっとこのまま空ちゃんが恋する乙女のままだったら、あたしはきっと頭がおかしくなってしまうに違いない。

 そこであたしは閃いた。また閃きだ。じゃあ逆にあたしは、空ちゃんにお願いされた通り、その思いの丈を青ちゃんにそのまま、なんなら少し誇張を入れてぶつけてやればいいんだ。自分にも他人にも厳格で、常に人として、アイドルとしての正しいあり方を貫き通す青ちゃんならきっと、アイドルがそんなふしだらな気持ちを抱くなんて許されることじゃないとか、ファンの期待に背くことは出来ないとか何とかぶつぶつ小言を呟いて、空ちゃんの想いを突っぱねてくるに違いない。その一部始終を空ちゃんにそっくり聞かせて、諦めよう、この恋は叶わないんだよ、って囁いてあげれば、晴れて空ちゃんは元通り。ひょっとしたら数日は凹んじゃうかもしれないけど、まぁ、そんな空ちゃんも可愛くて良いかも。でも空ちゃんはメンタル弱いから、なるだけオブラートに包んであげた方が良いかな? どうやって言おうかなぁ、やっぱり適当にはぐらかすだけのが良いかなぁ? あたしの優しい考えに、思わず一人で薄笑いをこぼした。


 楽屋を覗いてみると、青ちゃんは丸椅子に座ってスマホを弄っていた。心なしか目は物憂げで、視線はスマホに当てられても、見てる先は違うような、そんな不思議な表情だった。

「あーおちゃん」

「あら茜ちゃん。どうしたの?」

 あたしが声をかけると、そんな表情はさっぱり消え失せて、いつもの優しげな笑顔に戻っていた。あたしの気のせいだったのかな? まぁいいや、今あたしが大事なのはそこじゃないんだから。

「ちょっと訊きたいことがあるんだけどさ、今大丈夫?」

「えぇ。何でも聞いてちょうだい」

 青ちゃんは笑顔を崩さない、さしずめ青ちゃんは、世間話かライブのアドバイスを尋ねに来たか、とでも思っているのだろう。空ちゃんの、あたしのこれからに大きく関わる、もっと重大なことなんて露も知らずに。

「ねぇ、青ちゃんの好きな人って誰?」

 だからあたしもなるだけ青ちゃんを戸惑わせないように、世間話をするノリで単刀直入に尋ねた。ちょっと不意打ち過ぎたかも。青ちゃん、確かこういう話はかなり潔癖だし、もうちょっとぼかして言えば良かったかなぁ、なんて思いながら青ちゃんの返事を待って、どうして返事を待つ暇なんてあるんだろうって気付いて、あたしは思わず青ちゃんの顔を見た。青ちゃんは、笑っていなかった。

「気付いてたのね、茜ちゃん……」

 重苦しい言い方で、青ちゃんはぼつぼつ呟き始めた。何だか嫌な予感がする。まるで心に夕立でもかかったみたいに、胸が突然もくもくざわざわと雑音が鳴り始める。どうしよう、このまま青ちゃんの言うことを聞いていたら、とんでもないことになってしまう気がする。確証は無いけど、間違いない。

 そう分かってるはずなのに、ここから逃げ出そうにも、話を遮ろうにも、耳を塞ごうにも、体が震えてどれ一つとして、まともに出来そうにない。あたしに出来るのは、この嫌な予感が、どうかでたらめ千万な気まぐれでありますように、と一生懸命に祈るだけだった。

「私、実はずっと、空ちゃんのことが気になってしょうがなかったの」

 その言葉は、最後まで覚悟を決められなかったあたしの心を、弾丸のように貫き通した。

「………………」

 青ちゃんが何か話しているようだけど、上手く耳へ入ってこない。心の中で色んな言葉がぐらぐらと回って、とても、正気でいられない。もう空ちゃんがあたしを見ることはない、もう空ちゃんがあたしに言葉を届けることはない、もう空ちゃんがあたしを見て、あの輝く笑顔が咲かせてくれることはない。あたしの面白い空ちゃんは、全部、何もかも青ちゃんのものに……

 気が付けばあたしは、必死になって青ちゃんに噛みついていた。

「でも青ちゃん、空ちゃんとずっといると苦労しっぱなしだよ」

「空ちゃんが背負う苦労なら、私はいくらでも背負い立つつもりよ」

「それに、空ちゃんドジだから足引っ張っちゃうかも」

「でもそれが空ちゃんの魅力じゃない」

「青ちゃん、いつも空ちゃんを叱ってばっかだったじゃん」最早、反撃にすらなっていない。

 段々声が震えてきた。青ちゃんは聞こえなかったのか、神妙な面持ちのまま首をかしげている。何だかそれが空ちゃんに見限られたことの決定打になった気がして、あたしは歯噛みしてもう何も言えなくなってしまった。

「茜ちゃん、でもどうしてそんなこと……」

 青ちゃんが怪訝そうにそう尋ねる。嫌だ、こんな現実、受け入れられるもんか! そう思った途端、楽屋の外へと飛び出していた。

ぐちゃぐちゃの気持ちが喉元にわだかまり、息が詰まって苦しくなる。足がふらふらもつれて、何度も壁にぶつかってしまう。心なしか息が苦しい、青ちゃんのことしか見ていない空ちゃんを見ている時と同じ、それなのに十倍も百倍もどろどろと煮詰まった気持ちがあたしの身体を蝕んでいく。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。もう面白い空ちゃんと二度と会えなくなるなんて絶対嫌だ。何か良い手段は無いの? 確実に空ちゃんの気持ちをあたしに、あたしだけに向けられたら、何とかして空ちゃんを、青ちゃんから奪い取れたなら……奪う? そうだ! 良いことを思いついた。まだ空ちゃんは青ちゃんからの返事を知らない。青ちゃんの返事は全部あたしの手一つにある。それならもう、嘘を吹き込んでやれば良いんだ。それも、とびっきりの、もう青ちゃんと話が出来ない、いや顔を見るのも嫌になっちゃう位傷つく言葉をたくさん、ありったけ。それで青ちゃんが怖くなっちゃった空ちゃんが露骨に避け始めたら、きっと青ちゃんも告白に失敗して嫌われたんだって勘違いして諦めてくれるはず。こうすれば空ちゃんの笑顔はまるごと全部あたしのもの。あたしの空ちゃんを奪う人間は、もうどこにもいない。また平和で楽しい毎日が戻って来るんだ。そう考えたら物凄く心が躍って来た。ただ、踊り逸るこの気持ちは、こころなしか血の気が失せているようだった。

 空ちゃんの楽屋が見えてきた。この扉を開けたら、空ちゃんはあたしのものになるんだ、もう一度、面白い空ちゃんに戻ってくれるんだ! そこに迷いなんてあるものか! ノックをする余裕も無く、あたしは扉を乱雑に開けた。

「空、ちゃ……」

 そこにいた空ちゃんを一目見て、あたしは何も言えなくなってしまった。空ちゃんは青ちゃんと同じ位置の丸椅子に座って、浮き出る程度の微笑みをたたえて、宙にぼんやりと目をやっていた。また、恋する女の子の表情。でも、その目の先にはあたしも、そして青ちゃんも映っていない。灯りに照らされて、きらきらと白く輝くその顔は、正に恋する空ちゃんだけの物だった。凍えて、死にそうになっていた気持ちにお日様が当たって、まるで雲一つない青空の下で、暖かい日差しを体いっぱい浴びた時のような気持ちが、いやそれよりもっと強い気持ちが芽生えてくる。でも、それと一緒に、あたしは気付いてしまった。

 この笑顔を空ちゃんに与えてくれるのは、世界で青ちゃんしかいない。あたしじゃ、役不足なんだ。たとえ無理くり空ちゃんの気持ちを奪ったって、その空ちゃんはこんなにも純粋で、屈託の無い笑顔をみせることはないんだ。

 ……それなら、あたしが選ぶべき道は、きっと……

 あたしは、決意した。

「そーらーちゃん」

「うわぁっ!? あっ、茜ちゃん! 青ちゃん、なんて言ってた?」

 ぼうっとしてた空ちゃんが我に返った。またその目に青ちゃんの影が宿る。あたしは極力空ちゃんを直視しないように気を付けながら、いつも通りのテンポで、抑揚で、用意していた言葉を放った。

「ごめん空ちゃん!」

「えっ、ごめんって、まさか……」

「あ、ううん、違うの! 悪い結果だったって訳じゃ無くて、どうやって切り出せばいいか分かんなくて、そこはかとなく仄めかしてたら、勘付かれて逃げられちゃったんだ」

「えぇぇぇぇぇぇぇ!? そんなぁ~!?」

 がっくりと、アニメでしか見たことないような動きで空ちゃんはうなだれた。

「だから、もう後は自分で聞いてね、ってことで!」

「ことで! じゃないよぅ! 茜ちゃんだけが頼りだったのに……」

 涙目になった空ちゃんがジッと見つめる。相変わらずの、臆病そうな瞳。少なくとも今のままじゃ、青ちゃんに告白なんて絶対に無理だろうなぁ。

 じゃあ、しょうがないや。このことは絶対誰にも言わないつもりだったんだけど、これも空ちゃんのためだ。

「空ちゃん、そう臆病にならないで」

「…………茜ちゃん?」

 あたしは無意識に、空ちゃんの両手を握っていた。とても暖かな、空ちゃんの手。今からあたしが紡ぐ言葉は、この温もりを敢えて手放すだけの、一つの得さえ無い言葉だけど、

「空ちゃんはすっごく可愛い女の子だよ。真面目で、頑張り屋さんで、正直者で、優しくて……」

 一つ一つ、言葉を紡いでいく度に、ぎゅうと心が締め付けて、息が詰まってしまいそうになる。これじゃあまるで、臆病な空ちゃんと大して変わらない。そうだ、確か青ちゃんは良く空ちゃんに、おどおどしなくなる方法をしょっちゅう教えていたっけ。

『空ちゃん、ポジティブになる方法は簡単よ。何か楽しいことを思い浮かべれば良いの。誰かに褒めてもらったことや嬉しかったこと、それにラッキーだった時のことをたくさん。そうすれば自然と勇気が湧いてきてポジティブになれるのよ』

 楽しいこと、嬉しかったこと、ラッキーなこと。それは、全部空ちゃんに関すること。あたしの冗談で笑ってくれたり、あたしがからかって涙目にさせちゃったり、ちょっと冷たい反応をしちゃって膨れっ面をさせちゃったり……

「あたしの冗談に思いっきり笑ってくれて、あたしのからかいを真摯に受け止めてしょげちゃったり、でも怒るときにはきちんと怒ってくれたり……」

 次々と、泡のように浮かんでくる思い出が弾けていく。その亡骸を燃料にくべて、あたしはその煙で息も絶え絶えになりながら、空ちゃんの好きな所を、好きという気持ちだけを隠して、ただひたすら送り続けた。

「ね、空ちゃんはたくさん魅力のある女の子なんだよ! すっごく、すっっごく面白い女の子なんだよ! だからもっと自信をもって、青ちゃんにアタックしちゃえ!!!」

 張り割けんばかりに声を張り上げて、あたしの、渾身のエールを、空ちゃんにぶつけた。全て、全て吐き出した。

 楽屋の中を、静けさが包む。ふと、両手に温もりがこぼれるのを感じる。掌の中が小刻みに震えている。空ちゃんは泣いていた。でも、それは目じりから上だけの話。涙に瞳を潤ませた空ちゃんは、とびっきりの笑顔で、あたしの顔を見つめていた。

「茜ちゃん、ありがとうっ……! 私、すっごく勇気がわいてきた! うん、私、頑張って青ちゃんにアタックしてみる! 優しくしてくれた茜ちゃんの分も、絶対、絶対成功させてみせるよ!」

 今までで一番、自信と希望に満ちあふれた声で空ちゃんは叫んだ。その声は、笑顔は、この一瞬だけ間違いなくあたしに向けられていた。知らなかった、優しい言葉のお陰で、意地悪なあたしにもこんな笑顔がやって来るなんて。

 空ちゃんはあたしに別れを告げて、勢いよく楽屋を飛び出して行った。影からひっそりと、小さくなっていく背中を見つめる。ふと、その空ちゃんの背中に、ある日の面影が重なった。壊し尽くした思い出の中で、ただ一つだけ大事にしまっておいた、あの特別な一瞬だった。

『あとちょっと優しかったら、茜ちゃんのこと、それこそもっと大好きなのに……』

 ねぇ、空ちゃん。今、やっとなれたんだ。やっと叶ったんだ。空ちゃんが望んでた、ちょっと優しいあたしに。でも、それがあたしの恋の決定打になっちゃった。こんな気持ちを知っちゃったから、あたしは幸せを、みすみす見逃す真似をしちゃった。でもね、不思議と後悔は無いんだ。どうしてかな? それが分かる頃には、空ちゃんはあたしを、どんな風に見てるのかな?

 すっかり空ちゃんの背中は小さくなってしまった。もう小指ですっかり隠れてしまう位だ。あたしは、空ちゃんが見えなくなるまでずっと、大きく手を振り続けた。


 空ちゃん。どうか、お幸せに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

優しいあたし 弥広修治 @dakusupa841

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ