まおまおにあって

かんらくらんか

まおまおにあって

 ちょっと昔のことだから、その場所が今どうなっているのかは、わからないのだけど、だだっ広い田んぼの真ん中に古びた小屋があった。

 いや、あったというのは、正確な表現じゃないかもね。


 ……なぜって、……ぼくらはその小屋についてそれまで考えたことなんかなかったから。その日急にその小屋が田んぼの真ん中に建てられたのかもしれない。たしかに古びてはいたけれど、そういう印象を受けたというだけのことで、なにより、ぼくらはほとんど毎日その近くを通っていた。通学路だし、学区の反対側の友だちの家に行くためには、田んぼの真ん中を突っ切っていくのがちょうどよかったからだ。


 もちろん、田んぼを踏み荒らしたわけではなくて、コンクリートでつくられた細い仕切りの上を通った。十字になっているところを二度曲がる必要があったけど、それ以外はずーっとまっすぐ行けば良かったから、慣れてくると駆けていけて、あぜ道を通るよりも、早く友だちの家に行けた。


 とにかく時間がおしかったんだ。子どもってそういうもんだと思わないかな?

 田んぼの泥に足を突っ込んで、靴をなくすことなんかへっちゃらで、それよりも友だちとたくさん遊ぶことのほうが大事だった。それこそ一分だって一秒だって無駄にできない感じ。

 まあ、何年もその道を行き来したけど、結局、足を突っ込んだのは一回だけで、靴もなくさなかった。今じゃ考えられないけどね、一回で田んぼに落ちるだろう、体ごと。


 ぼくらはその道とも言えない道を通っていたけど、小屋があるなんて気づかなかった。気づいていたなら、ぼくらが探検してみないはずはないんだ。そう考えると、やっぱり、あの小屋はあの日急にあの場所に現れた気がする。




 あの日、


「まおまお」


 と声がした。

 その声に気づいて、ぼくらは立ち止まった。


「まおまお」


 また声がしたぞ。

 猫か、じゃなくても、たいして大きくはない動物の鳴き声だと思った。

 気になって、古びた小屋に近づいた。

 声はなかからだった。


「まおまお」


 また声がして、ぼくらはそっと戸を開けたんだ。


 なかにはなにがいたと思う?


 なんてことはないよ、犬がいたんだ。痩せた犬なんだけど、馬みたいなたてがみがあった。鳴き声は猫のように聞こえる。


 たしかに不思議な犬ではあった。不思議な馬とも言えるし、不思議な猫と言ってもいい。まあでも、そういう動物もいるだろうと思えるくらいのものだった。頭がいくつもあったり、四足なのに羽が生えているとか、そういうものじゃないから、毛並みと鳴き声が変わっているだけの犬さ。


 ぼくらはしばらく、その生き物に見とれていたんだけど、同じように彼も、どこか寂しそうな目でぼくらを見ていたのだけど、はっと気づいたんだ。彼には首輪がなかった。自分と同じか大きいくらいの動物が、首輪も檻もなしに、こんな近くにいるなんて、はじめての経験だった。


 膝が震えてきて、しまいには腰を抜かしてしまった。すると今まで小さくなって震えていたその生き物が、ぼくらを睨んだんだ。彼が口を開けると鋭い牙が見えたし、ねっとりした涎がしたたり落ちた。呼吸もおかしくなっていて、興奮しているとわかった。ちょうど、ごちそうを目の前にしたって感じ。


 ごちそう? そう、それはぼくらのことだ。逃げようとしたけど、腰が抜けて立ち上がれず、両手をばたつかせて、後ずさるのが精一杯だった。


「くるな!」


 そう叫んだつもりだけど、声にならなかった。




 さて、ぼくがこうしてこの話を自分の体験談として語っている。つまり、ぼくは生き延びた。だけど無事じゃ済まされなかった。

 まずは靴をかじられた。あまりおいしくなかったんだろう、すぐにやめて、ぼくの体に覆いかぶさってきた。彼の前足がぼくの肋骨を踏み、生暖かい涎が顔にかかった。

 ぼくは両手を突き出した。判断は間違っていなかったはずだ。だって、首を噛みちぎられたかもしれないところを、……指で勘弁してもらえたんだ。右手の人差指と中指だよ。


 腕を振り回して泣き叫んだから、彼もすこしひるんで、ぼくの体から飛び退いた。ぼくは喪失のショックからか足がしっかりとしてきて立ち上がれた。

 必死に小屋から脱出しようとして、背中を向けたのが良くなかった。彼は元気を取り戻し「まおまお」とわめきながら、あろうことかぼくの股に噛み付いたんだ。

 食い殺されると思った、死に物狂いで、彼をけとばした。代わりに、ぼくの股は噛みちぎられた。そうして血まみれになりながら、なんとか家まで逃げ帰ったわけだ。


 ……あのとき、君が、ぼくを置いて逃げてしまったことは恨んではいない。きっとぼくだって、そうしてしまっただろう。昔のことだし、どうにもならないことだ。

 でも君が、なにもかも忘れてしまっていたのには、驚かさせられたな。君は覚えていて、しかし罪悪感から、あのときの話ができないのだと思っていたから。

 ぼくはというと、何年も、君の顔も見ることも、あの田んぼのほうを見ることもできなくなったわけだけど。


 謝らなくていい。それより、この話には、だれにも話していない後日談があって、それを聞いてほしいんだ。

 見ての通り、ぼくの右手には人差し指と中指がついていないのだけど、実は一度だけ生えてきたんだ。病院の包帯が取れて、一応完治して、しばらくしてからだった。断面がピンク色のケロイドになっていて、そこから生えてきた。

 母にも隠しながら、ぼくは指の成長を見守ったのだけど、毛むくじゃらの猿みたいな指が生えて、気に入らなくて自分で切り落としてしまった。……痛くて悲しかったよ。


 ここからが一番重要な部分だ。……ぼくは股も噛みちぎられた。そこにも変化があった。だれにも見せないようにこれまで生きてきたんだけど、君には見てほしいと思う。

 君がさっき言ってくれたように、ぼくを愛してくれていて、その気持ちは、なにがあったって変わらないのなら、見てくれるよね。どういうわけか膣があるんだ。毛は剃ってあって、そんなに悪い見た目じゃない。

 ぼくはね、子どもがほしいんだ。できるかな。ちょっと試してみてくれないかな。嫌だなんて言ったら、殺すからね。……ねえ、君を噛んだら、ぼくは人間に戻れるかしら。


「まおまお」

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