シカオとケイコ
佐藤 損軒
手洗い
「あー、これだと0点だね」
「0点って、何がー?」
首を上に反らせ、後ろに立つエプロンをした男の顔を覗き見たケイコ。寝起きの自分とは対照的に、どこに出ても恥ずかしくない姿になっている彼に、
「今テレビで紹介されてた動画のことだよ」
彼、シカオはお盆に乗せてきた朝食の品々を、手際よくテーブル
「えー? なんかオカシイとこなんてあった? ちゃんと手ぇ洗ってたし、最後のなんてちょーカッコよかったじゃん」
「あー……やっぱりケイコも知らないのか」
「やっぱりって何それ、なんかムカつくんですけど」
「あ……言い方が悪かったよ。えーと、つまり僕が言いたかったのは、こうして動画を配信したりしてる人も含めて、百点の手洗いをしてる人はほとんどいないっていうことなんだ。だから嫌な思いをさせたならごめん」
頬杖を突き、自分の右側に座るシカオをジーッと
「……いただきます」
納得していないケイコだったが、自分の為に用意された朝ごはんを
――――――――
「で、百点の手洗いってどうやるのシーちゃん?」
見通しのいいダイニングキッチンで食べ終わった皿を洗うシカオ。その向かい側から、ケイコが軽く責め立てるような表情で先程の続きを要求してきた。
「あー……うん、じゃあ実践してもらったほうが早いかな。ケイコ、ちょっとこっちにきてくれる」
自分のすぐ横に視線を落とすシカオ、ケイコは視線の案内通りに夫のすぐ隣へと並び立った。なぜか、割りと上機嫌で。
「よしっと、じゃあ普段通りに手を洗ってみせて」
「ほーい」
「どう、これなら満点でしょ?」
「うん――0点」
「……は?」
シカオは笑顔で告げてきた。
「は? え? 何? マジ? マジでダメなの? え、これで? えー……、じゃあ、どうすれば百点になるの?」
眉間にたっぷり
「大事なのはここ。ケイコが百点を取れなかった原因は、ここにあるんだ」
そう言い、シカオが指を差した場所は、
“蛇口”だった。
「へ? なに言ってんのシーちゃん、それ水道だよ? 手でも何でもないじゃん」
「うん。きっと多くの人もケイコと同じ考えなんだと思う。だから間違った認識のまま、0点の手洗いをしてしまってるんだよ。いいかいケイコ、もう一度さっき自分がとった行動を思い出してみて。――まず最初に蛇口に触ってたよね? 洗う前の状態の手で。まぁ今回は外から帰ってきたわけじゃないからそれ程問題じゃないけど、もしこれが本番、外から帰ってきた状態の手だったら、蛇口には外から持ってきた菌が付着しちゃってるんじゃない?」
「えっと……、そう、なの?」
「うん、間違いないよ。僕は飲食店経営者だからね。こういうことには詳しくなっちゃってるんだ」
「そうなんだ。……あっ! でも、水道にバイ菌が付いたからって問題ないじゃん、その後で手を洗ってるわけだし!」
曇ったり晴れたり、ケイコの表情は山の天気のようにコロコロ変わっていた。
「…………う、うん、そうだね。でもさケイコ、最後に君は何をしたっけ?」
ケイコは数秒小首を
「そうだけどそうじゃなくて、手洗いの中での最後のこと、つまり」
シカオは目の前に突きだされたケイコの両手を静かに下げ、もう一度蛇口を指差した。
「水を止める為に蛇口に触ったよね? 手を洗う前に触って、その時の菌が付着してるこの蛇口に」
「うん。触ったけどそれが?」
シカオは固まった。口角だけを上げた笑顔で、三秒だけ動けなくなった。
「いいかいケイコ、もう一度言うね。最初に菌が付着した手で蛇口に触ったよね? そして手を洗った。で最後に、菌が付いてる蛇口にもう一度触った。じゃあ、今ケイコの手には菌が付いてるでしょうか付いてないでしょうか、どっち?」
ケイコは腕を組み眉を寄せ、分かりやすい考えてます状態に移行した。
「……シーちゃん、一個だけ質問、そんな簡単にバイ菌って物から手に
「
「……そっか、じゃあ、今の私の手は洗う前の状態と変わってないってことなんだ」
「そうだね。っていうか、もしかしたら洗う前より酷くなってるかも」
「えっ?」
驚くケイコの表情を確かめたシカオは、流し台の下。収納スペースの取っ手に掛けてある二つのタオルの内の一つを指差した。
「水気を拭く為にタオルを使ったよね? そのせいでもしかしたら、ケイコの手は洗う前より菌が多くなっているかも知れない」
シカオの表情から笑みは消え、真剣なものに変わった。
「菌は簡単に人から物、物から人の手に
真剣にものを語る夫の姿に、ケイコも感化されたのか、静かに話を聞いていた。
「もちろん、菌が体内に入ったとはいえ、百パーセント
「……うん! もちろんだよシーちゃん! だって、私が病気になったら、シーちゃんに
テレビで見る芸人のように、シカオは軽くコケてしまった。
「うん、そうだね。そこを教えてなかったね。まぁ、一番てっとり早いのは、手が泡だらけの時に蛇口も一緒に洗うことかな」
「水道も?」
「うん。それで手の泡を流した後に、洗い終わった綺麗な手で水を
「そっか、水道も一緒に洗って綺麗になってるから、これなら最後に触っても問題ないんだ」
「うん、正解」
――――――――
「じゃあケイコ、先に出るね。火元は消してあるから戸締まりだけ忘れないで」
「うん、分かってるって。シーちゃんも気をつけていってきてね」
靴を履き玄関のドアを開けるシカオを、ケイコは少し寂しそうに、玄関マットの上から見送ろうとしていた。
「そうだ。朝の続きになっちゃうけど、玄関のドアノブは一番感染源になりやすいから、触ったら必ず手を洗うようにね」
「あー……うん」
「……またやっちゃった。朝から
「ふふ、大丈夫だよシーちゃん、うるさいなぁって思うけど、嫌いになったりはしないから。それよりほら、いつもの」
そういい、瞳を閉じ、両手を広げるケイコ。対するシカオは軽く頬を赤らめながら、彼女の求める通りに広げられた腕の中に入り、いつもの出掛けの
「じゃあ、行ってきます。……そういえば、キスも感染リスクか高いって知ってた?」
「もーっ! ムード台無し! シーちゃんのバカッ!」
背中を押され、シカオは追い出されるように家を出るはめになってしまった。
シカオとケイコ 佐藤 損軒 @toentertainpeople
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