第二部

プロローグ

第五十四話「妖魔の王」



 そこは暗い洞窟の中だった。

 人の手の届いてないむき出しの土壁に、地べた。

 天上と壁には一面に光る苔が生えており、紫や黄色、緑に水色と、不規則に色を変えながらうっすらと輝きながら、瞬いていた。


 そこに、一体のローブを纏った人型と思われる存在があった。


 顔はフードに覆われ、さらに仮面で隠されており、見る事は出来なかった。

 だが、その恵まれた体躯から、それが男であろう事は想像できた。


 それほどに、そのシルエットは長身の、痩せた偉丈夫だったのだ。


 ローブの男は、己の手を弱々しく持ち上げる。

 その手は骨格は大きいものの酷く老いていた。

 浮き出た不気味な血管に、老いて枯れ果てた者特有の生気が無い、不自然なほどに筋張ってしわくちゃで不気味な腕、手。


 指の先に至っては、伸びきって螺旋状にゆるやかにねじくれた汚い爪と、骨と皮ばかりのおぞましい姿。


 ローブの男は、自らの手を見つめながら――。


「そろそろ限界……かな」


 と呟いた。


 その声は酷くしわがれた老人のような男の声だった。



『マジュダァ』



 ローブの男がたたずむ部屋……と呼べるようなものではなかったが、その入り口付近から音が発せられた。


 それは声、しかし声と呼ぶには余りに酷く醜い、グチャグチャとした口内を粘液で縛り付けた上に粘土でも噛み締めながら発したとしか思えないような、薄汚い金切り声を無理矢理低くしようと潜めて発したような形容しがたい音だった。


 それは体の性質上、口内の形状と舌の使い方、乱れに乱れた乱杭歯という条件が重なった結果であり、ゴブリン――この世界では妖魔アグレリオと呼ばれる――が発する特有の声、音、言語であった。


 それは中央に立っていたローブの男に向けてのものだった。



『命令どおり、持ってきた、我が主』



 ローブの男に対し、現れた妖魔アグレリオは流暢なゴブリン語、もとい妖魔アグレリオ語を口にした。

 流暢と言っても、先ほど延べた通り、特殊な口と声をしているがゆえ、その言語は他の人種からは理解もされないし、発音も難しく嫌悪されている。

 ゆえに、わざわざ望んでこのような言語を口にするような人間種は極少数と言える。



『ご苦労様。モリム』



 ローブの男も同様に、流暢なゴブリン語で返す。


 モリムと呼ばれた妖魔アグレリオは嬉しそうに口元だけ小さく微笑みながら、ピョンピョンと無表情にその場で飛び跳ねた。


 その妖魔アグレリオの背中には翼が生えていた。

 それは蝙蝠のような皮膜状の翼で、その先端に生えた牙はまるで悪魔を思わせる。


 そして妖魔アグレリオの特徴として、その顔は筋ばっていてしわまみれのようにも見え、特徴的な姿をしている。

 髪の色は純白を埃に塗れさせて穢したかのような汚らしい灰。肌は紫がかったくすんだ灰色。そして鬼のような捻れた角が一対、頭から生えている。

 瞳は血の様に赤く、口は耳まで裂け、その口に生えた歯といえばギザギザした牙のようなものが並び立つ乱杭歯。耳なんて長く尖っている。


 だが、その妖魔アグレリオは小柄であり、ほんのりふくれた胸部や、わずかにくびれたウエスト、柔らかな曲線を描くシルエットから、女性型であるという事が一目でわかるような容貌であった。


 モデル体型とは程遠いが、子供のような愛くるしさをほんのりと漂わせる存在が無邪気に喜ぶその姿は、ほっこりと心温まるものがある。


 角と翼が生え、筋張った姿をしているとはいえ、人に似た姿をしているのだ。

 そのように感じてしまう者がいてもおかしくはないのだろう。


 現に、ローブの男からは、仮面で顔は見えずとも、どこかゆるやかに弛緩した雰囲気が漂っているのだった。



『でも、重たい、もうちょっと待つ。今、ここ、運んでくる』



 少女型の妖魔アグレリオがローブの男のそばから離れ、部屋の入り口へトコトコ駆け出すと、そこにはちょうど姿を現す三体の妖魔アグレリオの姿があった。



『持ってきた』



 ドサリと、それ・・を地面に置いたのは、新たに現れた三体の中でも一番の巨体をほこる、額から一本の角を生やした妖魔アグレリオであった。


 その大きさは2メートルを軽く超える。



『これ、間違い、ないか』

『うん、ゴンド、助かったよ。ありがとう』



 ゴンドと呼ばれた男性型の巨大な妖魔アグレリオは、コクリと頷くと部屋から出て行った。



『ガヤヴァ、ジャラグもありがとう』



 残る二体に声をかけるローブの男。


 ガヤヴァと呼ばれた方は、165センチメートルほどのスラッとしたスタイルの良い女性型で、モリムと同じように悪魔を思わせる翼を背に、額には一本の角を生やしていた。


 一方ジャラグと呼ばれた妖魔アグレリオは、背に翼は無く、スラリとした筋肉質の体に腰ミノを巻いた、スキンヘッドの男性型だ。

 護衛なのか、槍を片手に持っている。

 身の丈は180センチほど。

 頭部には二本の角が生えている。


 二体とも小さく頭を下げる仕草をしてから部屋を出て行く。



 残されたのはローブの男とモリム。そして、ゴンドと呼ばれた妖魔アグレリオが置いていったそれ・・



 目を見開いて天を仰いだ姿勢のまま、微動だにしない人型のオブジェ。

 いや違う。これは人だ。かつて人だったものだ。

 ついさっきまで人間として生き、動いていたもの。

 全身に矢を射られた血まみれのそれは――。


 まごう事なき、つい先ほど命を落としたばかりの、山下武やましたたけしの体であった。



『死体、これだけ。他の奴、逃げた』

『ふぅん、そう……』


 顎に手を当て何かを考え出すローブの男を尻目に、



『我、治す』



 モリムと呼ばれた妖魔アグレリオはそっと死体の胸元へと手を伸ばす。

 やがて、その体にしっかりと触れると、呪文のような言葉を詠唱しはじめる。



『我、求める。彼の者。傷、治す。これ、古の秘法。我のみの術。治癒。治癒。治癒。痛い、痛い、飛んでく。呪文長い。これより先、適当』



 すると、地面に無数の淡い紫色の、様々な言語がびっしりと描かれた魔法陣が浮かびだす。

 そして奇妙な事に、モリムと呼ばれる妖魔アグレリオの口から続いて紡ぎだされたその言葉・・・・は、口の形状ゆえ、酷い吃音と滑舌の悪さではあったが、なんとまごう事なき日本語であり、内容は以下のようなものだった。



「あめんぼあかいなあいうえお、うきもにこえびもおよいでる。じゅげむじゅげむごこーのすりきれかいじゃりすいぎょのちょうすけさん。せっしゃおやかたともーすはいまなんどきでい。そのものあおきころもをまといてこんじきののにおりたつべし。あじゃらかもくれんひらけごま。すてーきていしょくよわびでじっくり。こんどはこくとうたぴおかみるくてぃーがこわい。てけれっつのぱー」



 長い詠唱の後、その妖魔アグレリオは力ある言葉、であるかのように最後の一言を発した。


完全なる治療パーフェクトヒール!」


 発動キーワードであろう単語を唱えた瞬間、周囲の魔素が反応し、モリムの手に淡いピンクの光が集っていく。

 やがてその光が溶け込むように死体へと流し込まれると……。


 スルリと、刺さっていた無数の矢が抜け落ちていき、傷が完全にふさがってしまった。



『できた……』



 よろりと体勢を崩したモリムの体を抱き寄せて支えると、ローブの男は目の前の死体に触れる。



『ご苦労さま』



 ローブの男の言葉にコクリと頷くと、モリムはその場からそっと離れ、地面に描かれた魔法陣の外に出た。


 そう、地面には新たな魔法陣が展開されていた。


 ローブの男が指で特定の形をなぞり、呪文を詠唱するたびに、淡い青、緑、黄色、赤、様々な色で無数の魔法陣が展開されていく。


 地面から六十五層。


 均一の差で縦に積まれた魔法陣はまるで塔。


 部屋の天上ギリギリまでの距離にまで至っていた。


 その魔法陣の一層一層に複雑な言語で無数の文字が描かれていた。


 それは、漢字であった。


 この異世界にとっての異世界。


 それは、死体の主である山下武やましたたけしの住んでいた世界。島国、日本で使われている言語である。


 正確には中国から伝来された文字であるが故、中国の文字とも言えるのだが。


 そこに中国限定とも言える文字は無く、すべからく日本国内で使われている漢字のみで形成されていた。



 一通りの呪文詠唱を唱え終わると、ローブの男は一息ついた後、仮面をはずす。


 その顔に、ゴブリンのような筋張った奇妙な醜悪さはない。


 年老いてしわだらけにはなっているものの、まごうことなき人間の顔であった。


 そして、見るものが見ればわかるほどに、その顔は酷似していた。


 先ほど転移してきたはずの異世界人、神倉徹に。


 正確には、年老いた果てにあるであろう神倉徹の姿、と言うべきか。


 ローブの男は付けていたその仮面を、そっと死体の顔の上に置くと、静かに手を伸ばした。


 袖から見えるその腕は、顔同様に老いて干からびていた。


 老いさらばえて死にかけた、枯れ枝のような手で、指で、それ・・に触れる。


 魔法陣の中央に倒れ伏す、山下武やましたたけしの死体の胸元へと手を伸ばす。


 そして、その言葉・・・・を口にした。



魂の憑依ポゼッション



 その瞬間、死体に触れていた手の肉がドロリと溶け落ち、その肉は地面に触れる前にサラサラと塵と化して虚空へと舞い散っていく。

 残された骨も同様に朽ちていく。

 フードの中の顔はしわくちゃにしぼみ、やがて肉が溶け落ち、残った骨も手と同様に塵となって虚空に溶けるように消えてゆく。

 フードがはらりと地に落ちる。


 そこに、もう男の姿はなかった。

 先ほどまでそこにいた、老いた神倉徹に酷似した男は忽然と姿を消していた。


 そして、死体であったはずの体、その指先がピクリと動く。

 閉ざされたまぶたが開き、瞳が左右にギョロリと動く。

 そして、むくりとそれ・・は起き上がった。


 やがて、自らの体を確認するかのように両の手を持ち上げて眺め、両手の稼動を確かめるように動かすと――それ・・は流暢な日本語を口にした。



「はっ……はははっ! やっぱりそうだったのか! いや、いいね! 実に良い!」



 言葉と共にかろやかに跳ね起きると、



「あぁ、軽い! 体が羽根のようだ! これだよ! 馴染むねぇ! 実に馴染む! もう何も怖く無い!」



 奇妙な謎のポーズを取りながらそれ・・は笑った。

 見るものが見ればわかった事なのだが、そのポーズはこの異世界にとっての異世界、地球の日本に存在する、とあるアニメ化もされた漫画に登場する格好に酷似しているものであった。



 そして――。



「冗談はさておき、これで合点がいったね。やっぱりこっちの体だからダメだったんだ」



 それ・・は、地に落ちたローブを拾い上げると、パンパンと土を叩き落す。



「向こうの人間の体じゃないとダメだったんだ……」



 呟きながら、タケシの死体だったものは、おもむろに着ている血まみれの学生服を脱ぎ始める。

 窮屈にでも思ったのか、トランクスまで脱ぎ捨ててしまい、ボロンと男のブツが零れ落ちる。


 ソレを見て、モリムが無表情に顔を真っ赤にしながら自らの目を両手でふさごうとする。



「おっと失礼」



 と口にはしつつも隠す仕草など見せず、むしろ興味深そうに腰に手を当てながらそれをしばし眺めるタケシの死体だったもの。

 そんな姿を、モリムは無表情のまま、指の隙間からじっくりと監察するのであった。


 やがて、そんな奇行にも飽きたのか、タケシだったものは拾い上げたローブを羽織ると、モリムの目を見つめ、おいでとばかりに両手を開き、流暢な妖魔語で問いかけた。



『さぁモリム。君に質問だ』

『はい、主』

『ボクの名は、な~んだ?』



 陽気に、笑顔……かどうかは仮面をつけているので見えないが、楽しそうに問いかけるタケシだったもの。

 その言葉に、



『マジュダァ。変な事、聞く』



 いぶかしげな声で返しながら、モリムは、



『貴方、我が主。偉大なる者。妖魔の王。様です』



 無表情に返すのだった。


 その言葉に、元タケシだったもの。いや、恐らくはローブの男が乗り移ったのであろうそれ・・は、しばし無言のまま天を仰いだ。



『そうか……』



 そして、悲しそうな声で、



『ま、やっぱり……そうだよね』



 虚空を見つめ、溜息を一つこぼしながらひとりごちる。



『わかってた事だけどさ』



 やがて、魔法陣のあった場所からゆっくりとモリムの元へ歩み寄ると、



『これもなんとかしなきゃね……』



 その頭を撫でる。


 モリムは猫のように瞳を閉じて、相変わらず無表情のままにだが、しばらく心地よさそうに口元だけ微笑ませると、その手を振り払って、雑に地面に置きっぱなしにしていた学生服を拾い、トテトテと部屋の入り口へと向かう。



『しかし、やっぱりアレだね』



 その言葉に、声をかけられたものかと振り返るモリム。



『……独りというのは寂しいものだね』



 元ローブの男が呟くとモリムは、



『マジュダァ。独り違う』



 その純真な眼でじっと見つめながら答える。



『私、いる。みんな、いる』



 そして小首を傾げ、



『主、何、悲しむ? 我、わからん』



 モリムは澄んだ瞳でローブの男だった者を見つめる。



『そうだったね。モリム。ありがとう』



 そう言うと、元ローブの男は微笑む。そして、



『さぁモリム、ご飯にしようか』

『ご飯!! 主のご飯、美味しい! 好き!』



 その言葉に再び、そっと悲しげな溜息をつくと、ローブの男だった者は元気一杯のモリムと共に、洞窟の奥へと去っていった。




 その頃。

 木村ケイトとその一行が妖魔に襲撃された森の奥深く。


 その大地に置き去りにされたカード……この世界へ来る直前に魔本より与えられていたカードである。

 死体回収時に落とされ、放棄された、空白だったはずの山下武やましたたけしに与えられていたカードに、変化が起きていた。


 実は、タケシが死んでしばらく経った頃に、うっすらと紫色の炎で文字が浮かび、その炎が消えると共に、空白だったはずのカードに文字が刻まれていたのだ。


 それは、鮮血のようなあかでこう書かれていた。




 DEAD END




 そして、カードはひらりと一陣の風に飛ばされ宙に舞うと、黒い炎に包まれ、灰となって消えていった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る