第四十四話「*神倉徹の受難1」



 その頃、神倉徹は剣道部の主任である関口から、練習道具である木剣等を取り戻し、ゲーム部二次会会場である長谷川輝宅へと向かっている最中であった。


「……予想以上にかかってしまったな」


 職員室で神倉徹は、関口から必死に長時間の説得を受けた。


「無駄な事を……」


――もう、俺が剣の道に戻る事などないのに。


 神倉徹は、思い出す。剣の道を捨てた、あの日の出来事を――。




――俺はなんのために……。


 当時の神倉徹は、その後悔の原因さえわからないまま、答えの無い問いの渦の中に溺れていた。



 時は約半年前へと遡る。

 暗雲立ち込める空。田舎道場の前に神倉徹は立っていた。


 周囲は木々に囲まれており、ここへ来るまでに長い山道を登る必要があった。

 古式ゆかしい木造建築の道場。入り口からしていかにもな風体。看板が掲げられた門は、誰もが思い浮かべるであろう道場の門といった姿だ。


 その門を開き、進んだ先、和風の古めかしい道場へと入り込む。


 中央に座して座るは神倉徹の祖父。


 名は神倉さとる


 古流剣術の使い手である。


 七十に入る身としてはまだ若々しい、ロマンスグレーの髪をオールバックにまとめた、というより、後ろ髪に結びまとめた姿の老人。

 その姿は地味な色合いの和装にして、質実剛健たる一本の刀を帯びていた。


 神倉の家は代々秘伝の“一子相伝”である剣術を伝える一家である。


 神倉光明流。


 歴史に名を残さぬ流派である。

 その内容には忍術や陰陽の術もあるとされる。

 退魔の術などといった、オカルトめいた物の書かれた巻物さえあるというが、神倉徹には知らされていない。


 一説には、平安の世の時代以前からあり、鬼や妖怪あやかしを斬ってきた一族の末裔という眉唾な話もあった。


 源流へと遡れば、熊野、和歌山の神倉神社に起源を残すともされている。


 そんな眉唾な伝承なれど、生きるか死ぬかの極致にて戦うための技術である事だけは事実であった。


――戦場。


 古来より、人の身にて死地へと赴く戦士達。

 その戦士達が命をかけて編み出した秘儀、秘剣、それらをまとめあげたものこそが、古流武術。


――神倉光明流。


 その強さたるや、鬼や妖怪あやかしさえ人の身で倒せる術を目指し編纂されたと言う伝承も、あながち馬鹿にできない程のものであった。


 しかし、神倉覚の代となり、次代は娘しか生まれず。

 継ぐ者を欲した神倉覚は、次代に賭けて入り婿を取る。


 剣道と居合に長けた、代々警察に所属するような真面目な家柄の次男坊であった。


 だが元来、直径男子のみが唯一受け継ぐ事を許される一子相伝の秘伝奥義。

 その厳しすぎる修行についてはいくものの、その秘奥を身につける事ができず、入り婿真一は修行を断念。

 やはり血筋が必要かと、神倉覚は孫に男子が生まれることを渇望するのであった。


 そしてついに待望の男子たる徹が生まれた時、神倉覚は大層喜んだ。



――そして。古びた道場にて。




「やっと……後継者ができると、思っておったのだがな」


 神倉覚は無表情のままに言葉を紡ぐ。


「……御察しのとおりです。俺は剣の道を捨てます」


 神倉徹もまた、無表情のままに宣言した。


「家族を失ったからか」

「そうですね……おそらく、それもあるでしょう」


 その時、神倉徹は己が後悔の念の理由に、わずかに触れた気がした。


「たわけめが……あれは事故じゃ。何の因果関係も無いと言うに」

「それでも、俺が剣の道に費やしてきた時間を、家族との時間に割り当てられた道もありました」


 そう、この時に神倉徹は理解したのだ。己が後悔の真の理由を。


「それだけの時を費やした剣を……捨てると」

「はい」


 頭を伏せる事無く、目は祖父たる神倉覚の目を見続ける。


「そうか……」


 一方、神倉覚は頭を垂れ、悲しげに目を伏せた。


 そして――。


「――なれば、死ねい!」


 抜刀し、本気の殺意を持って襲い掛かる神倉覚。


 それは“わしから一本取れたなら辞めさせてやる”という意図に他ならなかった。


 それを理解した神倉徹は――。


 一切の情を捨て、近場に飾ってあった真剣を引き抜き、対峙する事で応えた。


――勝負は一瞬であった。


 防具なしの、真剣による戦いである。


 かすりでもすれば怪我は必然。

 まともに受ければ死すらありえる。


 そんな死線の中、神倉徹は、在りし日の修行の日々を思い出していた。




――そもそも、剣道は親父の勧めで、半ば無理矢理やらされたのがきっかけだった。


 当然、やる気がなければ結果も出ない。


 何が嫌かといえば、規定どおりの画一的な動作を延々と続けさせられる素振りが嫌だった。


 更に、声が出ていないなどの理由で点が得られないという、理不尽で不自然なシステムに違和感があった。


 もし仮にこれが実戦だとすれば、声など出したら相手にバレるじゃないか。

 気合など必要か? なぜ当てる場所に限定がある? 不自然だ。実戦的じゃない。


 それが、剣道の面倒くさい嫌な点であった。


 そんな折――連れられて来たのが祖父の道場だった。


「都会の画一的な練習ばかりでは限界があるだろう」


 開口一番にそういった祖父は、真剣を見せてくれた。


 それは、簡単な巻き藁斬りであったが、幼い子供であった神倉徹の好奇心は満たされていった。


 新鮮な感覚だった。何が新鮮かといえば、剣が斜めに走る事。


――袈裟斬り。


 剣道では禁じ手とされる斜めに斬る実戦的動作である。


 だが、ここでは基本中の基本。


 神倉徹は古流の剣術に惹かれ、剣の道に入ったのだ。


「まずは、実戦の感覚を掴む為に“試合で一切敵の剣に触れる事無く”勝って来なさい」


 一本を取られるとは、その時点で死ぬ事だと思って戦ってくるべし、と祖父に教わった神倉徹は初めて剣道の試合に出た。


 幼子であった事もあり、初の試合はズタボロだった。

 実戦的でないと言っておきながら、実戦ならば何度死んでいたか。

 悔しくて何度も泣いた。


 そのたびに、祖父は優しく励ましてくれた。

 その悔しさをバネに強くなれと。

 生きている限り、いくらでも強くなれる可能性があるのだから、と。


 そして、基本的な型稽古――これも、剣道などとは違い、無数の斬り方の組み合わせがあり、剣道の画一的に繰り返される動作とは異なり、神倉徹の心を惹くものがあった――により、重い木剣を自在に動かす事で全身の筋肉が鍛え上げられ、体をより実戦的に整えた。


 そして、ついに流派の秘伝。一子相伝の秘奥たる教えに触れる日がやってきた。

 神倉徹、七歳の時であった。


 頭上に林檎を置き、祖父が真剣で横一文字に斬る、という行である。


 当然、神倉覚の腕前なれば一寸たりとてミスをする可能性など皆無ではあったが、一歩間違えば死ぬ荒行である。


 まぶたを閉じる事無く、その動きを目にする事で敵の攻撃の真偽を見抜く力を養う訓練である。


 行動は二つ。一歩下がり、剣の間合いから離れるか、その場に居続けるか。


 対する祖父の剣も二つ。リンゴを切らずに寸止めする殺気の無い一撃と、真一文字に両断する殺気の込められた一撃。


 全て、真剣により行われる、一歩間違えば、死に至る危険さえある荒行である。


 そして、この修行には三つの段階があり。


 リンゴで行う第一段階と、自らの首で行う第二段階、やがては、目隠しをして肌で感じる第三段階へと至る。

 当然、首と目隠しの段階は、もし判断を間違えても、祖父である神倉覚が寸止めに切り替える事で事なきを得るのだが、数ミリ単位で薄肌一枚を切ることで、痛みにより失敗を理解させる荒行となる。


 そして、天才、神倉徹は、八歳にして第三段階をクリアした。


 これにより身に付いたのが――危険察知能力。つまりは、予知能力にも近い殺気感知能力である。


 殺気感知の力はフェイントなどを無効化する能力となり、剣道における虚実を見分ける力として存分に役だった。


 そして、死に近づく恐怖を味わう事で、偶発的に身に着けた超集中ゾーン発動能力。


 俗に言う超速思考クロックアップ能力である。


 一瞬を長い時間として知覚できる程に体感時間を圧縮拡張した超集中状態。これにより、予備動作や体重移動などを見るだけで、相手の攻撃軌道をあらかじめ予測できる。


 さらに殺気でフェイントなどの誘いもわかるため、戦いにおいて、存分に有利な働きとなる。


 僅かな予備動作に対する相手の反応動作に対し、更なる予備動作による反応を仕掛けて誘導を狙ったり、自分の仕掛けた予備動作の動きによって相手の動きを誘導し、操作して動かせるなど、剣道には様々な戦術が存在するが、相手の動きにおける先の軌道を理解した上で行動が行えるのだから、まさに予知能力者か覚りの妖怪が如き鬼神の戦いぶりを実現させた。


 更に、こちらは殺気による誘導さえできるよう、裏技も教えてもらっている。これではもう、相手はもはや掌の上も同然。


 ちなみにこれら知覚は、感覚的に、言語的思考を省いて、直感的感覚にて行われているため、虚と実を確実に嗅ぎ別けた上で、相手の動きを未来予知の如く予見し、素早く対応してあらゆる攻撃を捌きわけた。


――まさに見切りの極致である。


 こうして剣気や予備動作による相手の操作誘導支配と、相手の動きを読んでの体感時間拡張クロックアップによる動作の見切り。さらに殺気感知による虚実の看破を駆使した動きの見極めにより、将棋のように相手を追い込んで詰めて行くという戦闘スタイルにより神倉徹は、文字通り、不敗の天才剣士として結果を収めてきたのだ。



 こうして――天才とよばれる剣士が誕生したのだ。




――ゆえに勝てた。


 身に着けた技があったからこそ、勝てたのだ。



 刹那の想起の時間の中、ボトリと覚の腕が床に落ちた。



 それは、免許皆伝の証であった。



「冷やして病院にいけば繋がるはずです。そのための氷も用意してあります」



 極度に圧縮された思考、わずかな時間内での想起。

 その思い出に浸れども、剣の道を捨てるという結論は変わらなかった。



「それでは、長い間お世話になりました」



 神倉徹の祖父、神倉覚は無言のままに、それを肯定せざるを得なかった。




――ちなみに、神倉覚との勝敗の流れはこうだ。




 居合による抜刀術、横一文字の抜き打ちが迫る中、神倉徹は一瞬で跳躍し、神倉覚の肩を手にハンドスプリングの要領で回転して移動。神倉覚の背後に飾ってあった真剣を手に、抜き打ちによる真っ向――つまりは頭上へと真っ直ぐに打ち下ろす愚直な一閃を見舞う。


――寸止め。


 これで打ち倒した――と思いきや。


 温いとばかりに、横薙ぎ直後の姿勢から振り返りざま、斜め切り上げによる追撃。


 当然、寸止めでは終わらないであろう事を理解していた神倉徹は――。


 体を斜めにしつつ半身を引いての片手斬り上げ。これにより神倉覚の右小指一本を切り落とす。


――だが、それすらも、まだ手温いと、指を切られていない左腕での真一文字の横薙ぎ。


 対して神倉徹は、身を背後に一歩引いてからのわずかな隙を狙って――。


――絹切り。


 神倉透オリジナルの鍛錬により生まれた秘儀である。


 蝋燭台の上に置かれた林檎の薄皮を、わずか一枚のみ斬り裂くという、いわば殺さずの技である。


 元々は、相手との距離感を完全に支配するための鍛錬により身につけた一芸であった。


 これにより、神倉覚の左まぶたを薄皮一枚切り裂くも、未だ戦を続行する祖父の、鋭い片手突きが神倉徹を襲う。


 半身で避け、もう片方のまぶたも絹切りにより斬り裂いた。


 それでもまだ認めない祖父、神倉覚の刀を、神倉徹は刀を捨て、素手で刀を奪い取って投げ飛ばす。


 勝負あり――と、思いきや、捨てた神倉徹の刀を取り、神倉覚は転がった姿勢から即座に回転して起き上がり、そのまま逆袈裟を放つ。


 身を斜めにして避け、奪い取った祖父の刀で真上に切り上げ一閃。


 免許皆伝の、切り裂かれた腕がゴロリと転がり落ちる。


 わずか十秒の攻防であった。




 無言で、無表情のまま去り行く孫の姿を。まぶたを切り裂かれ血で視界を塞がれながらも耳で察知した神倉悟は――。


「口惜しや……あな口惜しや……」


――まぶたから流れる血と共に、血涙の如き涙を流し、むせび泣きつつ。


「……よぅ育った。ゆえに口惜しや……」


 天を仰ぎながら言葉を紡ぎだす。


「なぜに道を違えたか……!」


 その言葉に、神倉徹はただ無言のままに、己が道を行く事を決意し、進んで行くのであった。




 そんな、剣の道を捨てた日の出来事を振り返りつつ――今。


 住宅街を歩む神倉徹。目的地たる長谷川宅まであとわずか。




 だがしかし――。


 新たな道を歩まんとする神倉徹。その道をまさに今、ある男が阻まんと待ち構えている事を、その時の神倉徹は知る良しもないのであった。




 一方その頃、関口教諭のいる職員室では。


 充分に説得をした、しかしはっきりと、拒否の言葉を受けた。


 “新しい道を選ぶことにした”と。


 神倉徹の口から剣道部の入部拒否の言を受け、更に無電源ゲーム部なる部活へと入る事を伝えられた。


 周囲からの、宝の持ち腐れでは? との声もあった。

 だが、関口は理解した。彼が前向きに、新たな道を歩もうとしている事を。


 職員室にて、教員達がこのような会話を繰り広げていた事を神倉徹は知らない。


「今、彼に必要なのは心の傷を癒すことです。もし剣の道が必要となったならば、彼はまた、自分から始めることでしょう」


 関口は熱いお茶を飲みながら語る。


「その時までのまぁ、長い休み時間みたいなものです。むしろ、安心しましたよ」


 後ろ向きな思考の中にも、前向きな意思を見取って了承した関口ではあったが――。


「しかしアレですなぁ、変な方に走らなければいいですけどなぁ」


 両脇だけを残して見事に禿げちらかした頭が特徴的な“アレ”が口癖の滝沢先生が口を挟む。


「本当本当、ほらオタクって変な事件、起こしたりするでしょう?」


 “本当本当”と二回入れてから喋るのが特徴的な、ファットな女性教諭の渋沢先生も割り込んでくる。


「それって偏見じゃないですか」

「いやでもアレですよぉ? 引きこもりのほとんどがアレ、オタクな訳でしょう?」

「本当本当、オタクだから引きこもってるのか、引きこもるような性格だからオタクなのか……本当、あぁいった子達はねぇ」

「アレ、切れるとアレですよ? 何するかわからないし」

「本当本当、いきなり暴れだしたりねぇ」

「アレですよ。無差別殺人とかもアレでしょう? アレ、オタクだったり」

「本当本当、内気な子がはまる趣味ですからねぇ」


 散々な否定ぶりの両者意見を聞き、さすがに弁解の言を述べる関口教諭。


「いや、内気な子ほど社会でもいじめられる訳ですし。いじめられた結果、恨みでの反抗も多い訳でしょう? 事件を起こした罪をかばう訳では無いですけど。何の因果関係で事件が起きたかをかんがみれば、オタクだから悪いと決め付けるのはどうかと。むしろオタクが悪いのではなく、いじめられやすいくらいに内気な性格の子をフォローしきれていない社会にこそ問題があるのではないかと思いますがねぇ」

「まぁ、アレですな、我々にはどうでもいい話ですけどなぁ」

「本当本当、私達の給料には関係ない事ですしねぇ~」


 談笑しあう同僚を、関口はただ、呆れて眺めることしかできなかった。



――そして、そんな関口の前向きな信頼さえ裏切る結果になるとは――この時の神倉徹には、予測する事さえできようはずも無いのであった。



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