第四十二話「木村圭人の事情4」
仏壇のある間を出て、狭い家を歩く。
やがて扉を開いて外に出る。
ちょっとだけのつもりだったけど……けっこう時間喰っちゃったな。
着替えるのも面倒だし、制服のままでいいか……。
アキラの家に向かう途中、エレベーターを待つ間の時間。
“それ”は聞こえてきた。
「それでね? 聞いてくださいよ。またうちの旦那ったら」
「あら、まだいいじゃないの。うちなんて愛もなければ金も無い。いつまでたっても出世しない」
「本当、うちの亭主もいつまでも情けない。うらやましい限り」
「……それでも浮気されるよりはいいじゃないですか?」
「そうでもないのよぉ。やっぱり男は金よ金。浮気されてもお金は入れてくれてるんでしょう?」
「そうよ、なら利用しちゃえばいいのよ。お子さんだっているんだし」
「それでも……私は……」
「わかるわ……でもね、愛なんてね。結局いつかは冷めるもんなのよ」
「そうよそうよ。男なんてどうせいつかは浮気するんだから」
「そうそう、離婚する時に慰謝料でももぎ取っちゃえばいいのよ」
「チ●コなんてもぎ取ったってしょうがないしね」
「本当、それね。何の役にも立ちゃしない」
「っていうか、もう勃たないんじゃない?」
「やだ……もう、奥さんったら……」
「がはははははっ」
母親の声と、近所の奥さんであろう輩どもの井戸端会議の声だ。
さんざん夫の悪口を言っては、けなして、叩いて、必死に会社で働いている男をゴミ虫けらのように扱う。
糞共の所業だ。
「それでね、私が何度言っても部下だ、の一点張り。腕組んで歩いてるの見たって言ってもなの」
「あらやだ酷い」
「確かに見たわ。アレは間違いなかった。ちゃんと奥さんの指示通り監視してたんだから」
「それに都合が悪くなるとすぐ昔の話を持ち出して」
「男ってそういう所、あるわよねぇ~」
「やだやだ」
「都合が悪くなれば誰の金で喰ってるんだ! って」
「私たち主婦だって給料くらいもらいたいものよ! ねぇ?」
「本当よ! セクシャルハラスメントね!」
「それ、都合が悪くなると、男だってセクハラで訴えられる時代だ! だって言うの」
「何それ」
「馬鹿じゃない?」
「本当、笑っちゃうわよ。男の癖に情けない」
「がっははははは」
――聞いてられるか。糞が!!
エレベーターが来ると同時に、逃げるように入り込む。
くだらない雑音を消すべく、閉まるのボタンを連打する。
くだらない。
本当にくだらない。
他人の悪口と愚痴だけを人生の楽しみにしている人生なんて、何が楽しいんだ!
くそ!!
情けない親だ。
なんて情けない……人生だ。
申し訳なく生きている人生なのに。
命を奪って生きている罪深い人生なのに。
アイツラは一生自身の過ちを省みる事無く、悪口と愚痴を楽しみに生きていくのだろう。
なんてもったいない。
何て残酷な話だ……。
くだらない、最低の、絶望的なまでの、糞以下の、モブ人生だ。
全ては弱いからいけないんだ。
心が? 頭が? 家柄が?
体が? 脳が? 遺伝子が?
――それとも、全てが?
いずれにせよ、力なき存在に主人公としての未来はない。
努力したとしても、どうせ無駄だったんだろう。
じゃあ、そんなモブの家柄と、血筋と、遺伝子を持った僕はどうなる……?
結局、同じ道を歩むのか?
これからも、ずっと?
もし仮にまかり間違って、子孫を残せたとしても――。
――その連なる命達は永遠に同じ苦しみを繰り返し続けるのか?
だったら、ここで受け継いできた命のバトンを落とすのが僕の使命なのではないか?
これ以上、終わらない絶望を繰り返さないためにも。
だって世の中は、幸せな人間こそが生きるべきなのだから。
勝つ事が決まっている、勝者の遺伝子こそが残されるべきなんだ。
負け組みの因子なんて、絶たれてしまえばいいじゃないか!!
僕の母さんは、きっと弱いから。不幸だから、それですぐ不愉快になり、他人を罵倒しながらしか生きられないのだろう。
実に無残でみっともない負け犬以下のモブ人生だ。恥ずかしいにも程がある。
そして父さんだってそうだ。
いくら出世しようとも、その地位は受け継げないレベルが限度。
そのために賭けた時間も、努力も、労力も、理解されず、報われず。
冴えないサラリーマン扱いで嫁からは罵倒され、挙句大切な宝物を全否定された上に捨てられて……。
その仕返しに浮気する事しか出来やしない。
そんな報復しかできないのに、法律は父さんの方を悪とするのだろう。
なんとも糞みたいな世界じゃないか。
そして父さんもくだらない悪口と愚痴を浮気相手に言って慰めてでももらっているのだろう。
なんて薄汚いモブ家族だ。
なんで、申し訳ない命を、ドブに捨てるような人生をおくる事にしか費やせない!?
そんな世界に何の意味がある? こんな世界に何の価値がある!?
父さんはかつてこんな事を言っていた。
『努力のできない奴は生きてる価値が無い』
じゃあさ、努力したって、結果の出せない人生に価値なんてあるの?
俺が稼いでやってんだぞ、って。確かにそうだよ。感謝してるよ。
それでも、酔っ払って酒に逃げる事しか出来ない。浮気して他の女に逃げる事しかできない。
そんな父さんの、会社で努力した人生の価値って何さ!!
モブの極み。
僕の人生の未来。そのお手本。
きっと、僕も将来はああなるんだろう。
あぁ、今の時代、きっとお嫁さんももらうのは難しいだろうから、それ以下か。
――絶望しかない。
いつまでも遊んでないで受験勉強、って言うけどさ。
良い大学に入ったとしてもたかが知れてるでしょ、僕の頭のレベルじゃさ。
ブラック企業確定――未来への不安――不信――社会への不満――不信――卒業後の――不安――。
今の面子ともいづれはお別れ。やがて散り散りになる未来。
会いたければ会えるだろうけど、道たがえれば疎遠となるは世の必定。
そんな世界で、大学出ようと会社はブラックで……遊ぶ時間無しに仕事三昧の人生。
友人との遊ぶ時間もなくなり、ただ死なないために仕事するだけの人生。
朝起きて出社して仕事して飯食って糞をして家に帰って飯食って糞をして寝るだけの人生。
たまにある楽しみは酒を飲むくらい。
仮に結婚できたとしも、育児に仕事で遊ぶ時間なんてまるでなし。
挙句、アニメやゲームなんて気持ち悪いって、嫁に趣味のグッズとか全部捨てられるのかな?
結婚してても、定年になった瞬間、どうせいろんな理由をつけられて悪者にされて離婚され慰謝料を一方的に奪われるんだろ?
そんな世界で誰が結婚なんてするんだよ。
孤独死万歳。
――まさに未来は絶望だ。
人はやがていつか死ぬ。死んで終わる。ならばせめて、生きている間は幸せに生きたい。
モブじゃなく、主人公として生きたい!!
申し訳ない命をくだらない不幸で汚すなんて罪深すぎるだろ!!
このままがいい――遊び続けたい――永遠に――大人になんてならなくていい――終わりなんて来なければいいのに――。
――このままずっとみんなで遊んでいたい。
――今がずっと続けばいいのに。
でも、その願いは絶対に叶わない。
時間は流れ、やがて誰もが社会の歯車になる。
主人公にはなれない。社会と言う大きな生物のパーツ。モブと化すのだ。
夢なんて無い。
世界は停滞している。
努力なんて無駄。
モブは、死ぬまでモブでい続けるしかない。
世界は、なんて残酷なんだろう。
それに引き換え、漫画は、アニメは、フィクションは、夢を見せるために実に幸せな嘘をつく。
誰もが主人公になりうるのだと理想的な偽りを吐き連ねる。
誰も主人公になんて、現実ではなれやしないのに。
だから、いつかは誰もが気づくんだ。
この世界では、決して特別になんかなれはしないという事を。
事実を。現実を。思い知らされる日が来るんだ。
煌めく星座も誰も呼んでやしない。本当、今日も明日も
まさに絶望の世界だ。
絶望しかない。
未来に希望が持てない。
これが現実か……。
主人公に……なりたいな……。
モブはもういやだよ……。
モブみたいな人生はおくりたくないなぁ……。
重い足を引きづりながら、アキラの家へと向かう廊下を歩く。
この団地の廊下……こんなに長かったっけ……。
あぁ、違うな。僕の歩みが遅いのか。
あんなに楽しみにしてたのに。
現実に侵食されてゆく。
僕の心は闇へと落ちていく。
――様々な悩み。まとまらないごった煮の思考。生きるのに不要なノイズ。本当にノイズ? 考えなくてもいい事だ。考えなくても生きていける事。それはわかっている。けど――考えない方が幸せなはずの事を考えてしまう。これは脳に問題があるのか? そんな事を思わせる社会構成にエラーがあるのか? わからない。わからないわからない。わからないわからないわからないワカラナイわからないわからないワカラナイワカラナイわからないわからないワカラナイわからないワカラナイわからないわからないワカラナイ……。
ただただ、幸せに生きられるはずの平和な世界なはずの今が、息苦しい……。
こんな悩みはきっと無意味なんだろう。それこそ申し訳ない命の使い方だ。それはわかっている、それでも、僕は思考してしまうのだ。
モブはいやだ。みじめな人生は嫌だ。今の世界はどうかしている。もっと改善点があるはずなのに変われない。革命の余地はある。革命の可能性がない。未来がない。だから嫌だ。理由なんて無い。なんか嫌だ。凄く嫌だ。もう嫌だ。死んでしまいたいほどに。この世界が嫌だ。罪深い命だと理解していても、この世界に生きる希望が感じられない!! 夢も希望も感じられない!!
漠然と何者にもなれないのだという絶望と、閉塞感。現実という名の
決められた未来。確実性のある不幸な予測。幸せな未来。それを得られない可能性。可能性の確実性。
全てが……絶望的なんだ。
ようやく、アキラの家の前へと辿り着いた。
……アキラが鞄から落としたのかな?
扉の前には、小説によく挟んであるチラシが落ちていた。
一面、踊るように描かれている文字に辟易する。
異世界、異世界、異世界異世界異世界異世界。どいつもこいつも異世界異世界。
異世界転生。異世界転移。異世界令嬢聖女日常エトセトラ。
まるで異世界もののバーゲンセールだ。
そりゃあ異世界ものが流行る訳だよ。
こんな夢の無い世界。誰だって見捨てたくもなるさ。
そりゃあ異世界に逃げたくもなるさ。
――だって、現実に魅力が無いのだから。
こうまで異常に異世界ものが流行るのも無理はない。
それはもう、誰もがこの世界を、見捨てているという証拠じゃないか。
だって、こんな僕でさえ、異世界でチートできるなら、転生でも転移でもいいから行きたいと、思ってしまっているのだから。
誰もが逃げたいんだ。この
希望の無いこの
だって、もはや希望がないんだもん。
だって、この世界には、未来に対する希望が無いんだから!!
正直、最近の流行り? スライムだのコブリンだの悪役令嬢だの聖女だのポーションだのスケルトンだの、はっきり言って異世界転生も異世界転移も、もう飽き飽きでどうでもいい。
――けど、もし実際に異世界に行けたら?
物語ではなく、本当に、もしも、異世界にいけたら?
生まれてしまったのだ、そんな歪んだ幻想が。
その歪んだ幻想を引き寄せたのは何だ?
この世界の、社会の、見えない、まだ認められていない、改善されていない、歪みのせいなんじゃないのか!?
だからその時、僕は確かに願っていた。
こんな希望の無い世界は嫌だ。だから――。
――もういっそ、異世界にでも行ってしまいたい、と。
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