第十話「*神倉徹~中編~」
現れたのは、長身痩躯の男。背丈はゆうに180cmを越える。
一見にすれば痩せた面長の美丈夫なれど、その身に蓄えられし筋量はいっぱしのアスリートでは遠く及ばぬほど。
日々険しい鍛錬に励み、かつ天に授けられし才を持つ者だけがたどり着ける恵まれし体躯であった。
神倉徹(かみくらとおる)。
目にかかるほどに長く伸びた前髪は彼の現状を物語るものでしかない。
フルフェイスの面。ただでさえ暑苦しい上に頭部を蒸す剣道の防具である。
剣道を続けるに辺り、部や集団のしきたりによって、または処理の面倒さによってという場合もあるだろう、多くの者が頭部を丸める事となる。
だが、この神倉徹の頭髪は今、半年以上は床屋にもいっていないと推察されるほどに、伸び乱れていた。
「誰だお前」
竹中が問う。
部の一員でもない。見覚えの無い男。
唐突に声をかけられ、内心おびえつつも竹中は虚勢を張る。
見覚えが無いのも無理は無い。
神倉はここの部員ではないのだから。
そして何より、竹中は剣道界に対する知識が浅かった。
ゆえに、幼少期より比べられ、剣道知識も豊富な風間が間へと入る事となる。
「知らないんですか? 神倉ですよ。全国トップの」
全国トップ、その言葉に竹中の眉が忌々しげに歪む。
竹中という男、自身の栄誉は声高に叫べども、他者の誉れなどゴミ糞にも劣るといった思考を持つ。
まさに嫉妬の鬼。武芸者の風上にも置けぬ精神の持ち主である。
「引退したとお聞きしていましたけど、復帰なされたのですか?」
「いや、残念だが、そのつもりはない」
その言葉にうそ偽りは無く、神倉がこの場にいるのも、偶然にも等しい出来事であった。
周囲はそれを望んではいるものの、当人には剣道界復帰の念は蚤の毛先ほどもありはしない。
「なら、部外者風情が口を出さないでくれませんかね」
言を取ったりとでも言うような顔で竹中が割って入る。
例え全国トップと言えど、年功序列を超え、実力主義思考であったとしても、それがすでに過去のものであれば、それは無いに等しい。竹中はそう考える。
ましてや遊び半分で剣道を始めた程度の男、不良の嗜みとして喧嘩に使える技を求めて武を志した程度の輩である。顔も知れぬ者に畏怖も敬意もあったものではない。
だが、竹中に取っては知るよしも無い知識であれど、剣道に精通した者であれば、少なくとも風間は“それ”を知っていた。この男にまつわる恐るべき伝説、その偉業を。
ゆえに「よくそれほどの無礼を恐れなく行えたものだ」とある意味『無知ゆえの勇』とでも言うべき言動を、悪い意味で感嘆しつつ、そして同時に呆れざるを得なかった。
神倉徹。
幼少期から剣道をたしなみ、小学校中学年時代にはすでに、個人戦においてあらゆる大会で常勝無敗。
出れば負け無し。全国大会でも当然の如く個人優勝をかっさらう。
いわく、常勝無敗。
いわく、存在自体が化け物。
剣道界に身を置く者においてその名を知らぬ者なしの神童である。
中学三年時、夏の全国で個人優勝を飾る。
高校一年時、先鋒からの5人抜きを繰り返し、無名の高校を優勝に導く。
玉竜旗優勝。インターハイ個人優勝、魁星旗優勝と三冠達成。
高校二年時、中堅を勤め、またも玉竜旗優勝。インターハイ個人優勝で二冠。
それだけではない。
この男。いかなる試合であれども、一度たりとて“一本も取られた事なし”。
優勝した際に受けたインタビューで彼は記者にこう答えている。
『剣の道ゆえ。一撃受ければ死は必定』
『一度でも一本を取られるという事は、実戦ではそこで死ぬと言うことです』
『真に勝ち続けるためには、一度の死もあってはならない』
まさに不可蝕の剣士(ミスター・アンタッチャブル)。
敵対する者の剣に対し、一度も触れる事無く制し続ける姿はまさに剣神、鬼神の憑依するが如し。
前人未到の大快挙を実現させた、まさに現代の怪物。
剣道界、長い歴史においてさえ、誰も達成しえた者の無い――人外の魔物。
――闘場の死神。
それを知らず、無知なるままに驕り高ぶる竹中のなんという滑稽な姿か。
「うちに編入したとは聞いていましたけど……」
どんな強豪校でも欲しがる逸材である。
それがこんな僻地に転入学。期待はできない。
だが、すがらざるを得ない。
「すまないな……」
されど、その期待も打ち砕かれる。
怪物、神倉徹は、去年、突然の引退を遂げる。
唐突に、あらゆる試合から姿を消したのである。
突如の引退。諸説あるが、事情に詳しい者にとって、想像の付かぬ者はいなかった。
ある事件が元凶であろうことは明らかだったからだ。
「……そのつもりもない」
手にしているのは私物であろう防具や竹刀。
何より恐るべきは、練習用であろう特大サイズの素振り用の木剣。
布にくるまれず、むき出しで持たれたそれは本赤樫製、長さにして120cm、その重さは3kgを越える特注品の八角木刀である。
神倉徹の父が、友人である木刀職人に頼んで作ってもらった一品。
彼が8歳になった際にプレゼントとしてもらった――“もはや形見となった”思い出の品である。
勝手に、叔母がここの顧問へと送ったと神倉は聞かされていた。
この黄星学園剣道部の顧問である関口康孝(せきぐちやすたか)は、かつて神倉と道場を同じくした先輩であった。
それを聞き、現状の神倉を慮(おもんばか)った叔母の計らいではあったのであろうが……。
――いい迷惑だ。
余計なことをしてくれたものだ、と神倉は入部を断り、癖のように毎日、惰性だけで続けていた練習用の私物、それを返してもらいに来ただけなのだ。
気を使って、無理やりにでも再開してもらうために、説得してもらおうとでも考えたのだろう。
叔母が、わずかでもいいから関口先生と話し、考え直してくれれば、との考えだったのであろう。
だが、神倉の引退への決意は固かった。
――全てを失った今となって、その対価として差し出した全てと比較し、得たモノ全てが、もはやわずらわしくなったのだ。
だが、引退したとはいえ、生活の一部となった習慣をいきなり変えるのは難しい。
ましてや、今まで自身の人生の全てとして捧げたものだ。
いきなり鍛錬を止める事はたやすくなかった。
今朝も神倉は、筋トレとランニングの後、愛用の木剣で素振りを行おうと手を伸ばした所、それが無い事に気づき、問いただした結果、件の叔母の所業を聞かされる事となったのだ。
稽古、どうせやるなら剣道も続けなさい、と。
姉さんも、みんなも、きっとそれを願っている、と。
――関口先輩も、同じ事を言っていたな。
いつでも帰って来い、と。
部長やレギュラーの生徒に嫌な顔をされる事は目に見えていたはずなのに。
今は辛くても、お前の体はいつかまた、剣の道を欲するから……か。
まるで辻斬りのような言われようだったが、強い信頼を感じた。
だが、神倉はそれを裏切る。
みなが勝手に期待する自分を、捨て去ることに決めたのだから。
――もう、剣など振るいたくはないのだ。
――なぜなら、“あの日”以来、何度も脳裏に“あの疑問”が焼きついて離れない!
「ふぅん、もうやらねぇ訳だな?」
いやらしい顔つきで竹中が歩み寄り、
「じゃあここから消えろよ、部外者さん」
にやけた笑顔でそれを告げる。
「だって、もうやめたんだもんな」
部外者は去れ、と。
「いつまでも先輩面しないでいただけますかねぇ」
剣の道を捨てたのだろう? と。
「あ、そもそもうちの部員でもないんだし、先輩でもありませんでしたねぇ」
そして、それは間違いではなかった。
「いきなりしゃしゃり出てきて先輩面すんじゃねぇよ部外者」
――だがしかし。
「俺が怖いのか?」
目の前の悪漢の所業を、漢として、一武芸者として、黙って見過ごすわけにはいかなかった。
それをすれば。
それこそ、自分が今まで何のために。
――全てを投げ打ってまで、“それ”を行ってきたかがわからなくなる。
そう、本能が告げていたからだ。
その言葉を挑発と理解するやいなや、竹中が鋭い鞭のようにしなる無手による一撃を放つ。
無造作な体勢から繰り出されたフリッカージャブ。竹中の素手喧嘩(ステゴロ)における必勝の技。
それを脅しのため、寸止めで放つ。
神倉の鼻の数ミリ先に、竹中の拳があった。
だが、神倉は微動だにしない。
瞬きさえせずに拳を、いや、その先にある竹中の目を見ていた。
「だっせぇ」
竹中は笑う。
伝説の武神様が1ミリも反応できないとは。
鈍ったか?
竹中はそう解釈した。
当然、実際は違う。
寸止めである事が“理解(わか)っていた”からこそ、微動だにせずにいたのだ。
竹中は、伝説を信じない。
達人だの、神秘化された武術のほとんどを唾棄すべき偽者と蔑んでいた。
言われてやっと少しだけ思い出した全国トップの神童様の噂とやらも、どうせただの創り話か、先のない剣道界が業者とつるんで盛った紛い物。創作の類と疑ってかかった。
――俺の牽制にも反応できないうすのろが。
嫌らしい笑みを貼り付けて竹中は嗤う。
「やられる前にさっさと消えれば? さようなら」
その言葉を耳にし、神倉は踵(きびす)を返して更衣室へと向かった。
「どこ行くんだ? 出口はあっち! 馬鹿なのか? もう二度と来んなよ? 先輩面されると迷惑なんでね」
荷物を持って歩む神倉。
その背中へと放たれた竹中の言葉に対し。
「そうしたい所は山々なんだが、調子に乗ったサル山のボスが気に入らない」
――成敗する。
怒気、いや殺気をはらんだ視線で神倉は返す。
“本物の殺気”というものを始めて浴びせられ、慄きながらも竹中は、
「おもしれぇ。全国トップとやらがどの程度のもんか、ご教授願おうじゃねぇか」
その場で防具を装備し始める。
手になじんだ竹刀を持ち、一振るいして高ぶる気持ちを抑える。
――負けても言い訳ができる。
――ましてや勝てば箔が付く。
一切損の無い戦い。
何より、引退して半年以上。
ほんの少し鍛錬を怠っただけで武術の実力は下がる。
格闘や武術経験者なら誰でも知ってる事。
竹中でさえ経験済みの真実であった。
――こいつ、過去の栄光に溺れて図に乗ってやがる。
――剣道を舐めてる。手玉だぜ。
完全に、彼我の戦力差を見誤っていた。
その事に竹中が気づくのは、無数の敗北を嫌と言うほどに味わった後の事となる。
「ケリをつけよう。思う存分、どちらかの心が折れるまで」
手早く着替えをすませた神倉が道場へと誘う。
「あぁ、知らないんだろうから言っておくけど、うちは顧問の許可無いと試合はご法度……」
言葉の途中、神倉の姿を見て“その事”に気づいた竹中が一瞬で苦虫を噛み潰したような不快を隠さぬ表情へと変じる。
「お前、舐めてんのか?」
現れた神倉。
その姿に、一切の防具が無い。
防具の下に着る袴姿へと着替えただけ。
「全て俺のせいにしてくれて構わん。それとも……怖いか?」
さらに挑発を重ねる。
「怖いなら、やめるべきかもしれんな」
あえて、意地悪く言った。
武には武にて、剣には剣にて、そして、非礼には非礼をもって。
彼の者が成した悪行を、そのままに返す。
「引退したとはいえ、全国一位と無名の素人の試合。ここで逃げても恥じゃあない。どうする?」
確実に食いつくよう、あえて相手のプライドを踏みにじる。
竹中がやったことと同じことをするまで。
そうして逃れられないように追い詰める。
「俺は強かった。そしてお前は弱かった。それでいいか?」
まさに、因果応報。
「上等だ!!」
――馬鹿が一人、餌に喰い付いた。
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