interlude

第九話「*神倉徹~前編~」




――俺は何を間違えてしまったのだろう。



 むせ返るような汗の匂い立ち込める剣道部の道場にて、神倉徹(かみくらとおる)は心の中でひとりごちた。


 彼の眼下には、呆然と膝立ちに立ちすくむ長身の男の姿。


 交流はほぼ無いに等しい。

 だが、絶望に近い失望を与えたことを神倉徹は予感していた。


 恐らく、三年に渡る努力――いや、下手すればそれ以上か――を否定され、絶望と失意の底に落ちている事に、もはや相違あるまい、と。


 顔面全てを覆うフルフェイスの防具に遮られ、その表情は良く見えなかったが、彼にはそう思えるだけの自負があった。

 堅牢にして安全な剣道の防具。だが、体こそ守れども、心まで守る事、能(あた)わず。


――あれだけ打ちのめしたのだ、もはや立ち上がる気力さえなかろう。


 神倉徹は男を見下ろすと、静かに帰路に着く。


 佇む男は、ただただ静かに目の前に転がる無数の敗北を反芻する事しかできなかった。




 現状を説明するにはいささかの時の逆行を必要とする。


 始まりはささいな事。


 通りすがりの神倉徹が、件の男ととある生徒との、激しい剣幕にて行われる口論を見かけた時より始まった。



――。



――――。



「ふざけんな! あんたのやってる事は指導でもなんでもない! ただのいじめだ! 虐待だ!!」


 強い口調で罵声を浴びせる若き男子生徒。


 その後ろには守られるように、一人の男子生徒がおろおろと立ち尽くしていた。

 その者の体格は、少々小柄で、しかしふくよかであった。


 一方、かの生徒の眼前には、にやにやとその罵声を聞き流す丸坊主姿の男子生徒。

 いかにもな先輩風を吹かした傲岸不遜な表情である。


 この長身丸坊主の男。名は「竹中幸雄(たけなかゆきお)」。


 ここ私立黄星学園における三年生徒であり、この剣道部において、現状における最も先達たる生徒であった。


 さて、罵声を浴びせし若き生徒。名を風間司郎(かざましろう)という。

 この少年は、ここ黄星学園においては新人ではあるものの、小学生にして全国大会ベスト8を二回。中学三年時に全国大会ベスト4に輝いた経歴もあり、その将来に期待される、まさに希望の星たる若人。


 されどその前に立つ男。三年の竹中幸雄には特に秀でた成績は無く、ただただ三年生徒というだけで先輩風を吹かすだけ。しかも、酒や煙草は当たり前、後輩に指導という名目で無理やりパシリを命じ、特に被虐体質の高い、彼らで言う所の“有能な新人”に対しては『万引きの強要』さえさせるような、度し難い程の不良生徒であった。


 ゆえに、その現実を目の当たりにした、本当の意味で“有能な新人”たる風間司郎の正義感に火が付いた。

 かような蛮行を許すまじ。と、彼の者の心を奮い立たせたのである。


 そして、風間の背後にて立ちすくむ生徒。

 安部時彦(あべときひこ)は、秀でた成績も特に無いただただ無名なる標準的な一年生徒であった。

 彼はダイエットのために何かスポーツを――数日間たまたま体育で行った剣道が楽しくて、つまりは経験があったと言えるから――そんな単純な動機で剣道部を選んだような生徒であった。


 小柄でふくよかな丸い体躯。そして何より、自信も無く気弱な性質。

 “笑っていればきっと幸せは訪れる”とでも洗脳をされてきたかのような、困ったときはすぐににやけた笑みを浮かべる悪体質。

 彼の内面と外見は、被虐性の高い生贄を求める悪漢には他でもない、実にわかりやすいほどにその悪意を向けやすい“的(ターゲット)”であった。


 そして、ここ黄星学園剣道部には、今年に至るまで、成績の秀でた生徒は存在しなかった。


 個人、団体戦共に秀でた結果を出せず、大会は常に一回戦負け。稀に進んでもせいぜい個人戦で三回戦進出が関の山。

 ただ趣味で、それならばまだ良い方。場合によっては、体よく暴力を振るう相手が生まれる組織、として集っただけの悪漢がたむろするような、もはや黄星学園剣道部は、そんな不良達の巣窟、としか言いようの無い場と化していた。


 結果が出せなければ部の沽券に関わる。特に体育会系は難しく、その性質は顕著である。

 そこで、学長の決定した案こそが、スポーツ推薦および、特待入学制度であった。


 三年前から始まったこの制度により、様々な体育会系の部活がわずかではあるが、結果を残すようになりはじめていた。


 この調子で行けば、彼ら新規特待生達が三年に、卒業後にその教え子達が三年に、となる内に、必ずや大きな成果が出るはずだ、とまさに学長の推察通りの結果となっていた。


 だが、現実はそう甘くない。相手が人間であるが故、想定外の問題が発生したのである。


 優秀な特待生を、この年功序列主義の日本国家において“先輩”と呼ばれる“年齢だけで甘い汁がすすれる立場”であった若者達が、わざわざ率先して、組織の利益なんぞのために自己の利益を廃してまで動く、などと言う事は、そもそもありえない話だったのだ。


 現に、神倉徹の目の前で起きていたのはまさに、その年功序列主義の結果たる、先輩風を吹かせた悪漢生徒による、指導という名目による虐待と、それに反発する優秀な特待生と言う、年功序列主義の生み出した弊害の縮図とも言うべき構図そのものであった。



「違うんだよ~司郎ちゃぁ~ん。有能な君にはわからないかもしれないけどさぁ~、武道ってのはねぇ~? 常日ごろから当たり前の行動が鍛錬じゃなきゃぁいけないんだよぉ~。だからねぇ~。彼にもそれを知ってもらうためにだねぇ、素早さと気配を消す鍛錬としてだねぇ~」


「そのために万引きを強要したと言うのであれば、貴方はもはや武人ではなくただの盗人です。自らの罪を暴露してしかるべき罪についてください」


「はぁ~? なんでぇ~? 俺は何も知てないのにぃ? 知ってるぅ? 犯罪ってのはねぇ~? 犯罪を実行した人が罰を受けるんだよぉ~? 勝手にやったそいつじゃなくてさぁ~、何で俺が罰を受けなきゃならないんですかねぇ~?」


 にやにやと余裕の笑みを浮かべながら竹中は顔を近づけて風間司郎を挑発する。あわよくば手を出させて、暴力と言う名目で罪を押し着せ風間司郎を退部へと追い込もうと言う算段であった。


 だがしかし。


「彼にそれを命じたのは貴方でしょう。ならば立派な強要罪または教唆罪です」


 この男、風間司郎。その程度の挑発に乗るような安い男ではなかった。


「きょう…さ? 難しい言葉使わないでよねぇ~。そもそも証拠はどこにあるのかなぁ? お店の人がそう言ったのぉ? どこのかなぁ~? もし彼が何もしてなかったならさぁ~。俺も無罪だよねぇ~? 違うぅ~? げひひっ」


 冷静な反論に対し、無知蒙昧にして曖昧な返答を返す竹中。


 この男。竹中幸雄。理解力と知識に乏しいゆえ根拠こそは無かったが、少なくとも罪とは実行犯にあり、裏で誰が命じようと、明確な証拠さえ無ければ自分に罪は被せられまいと本能的に理解しているのだ。

 ゆえに何の反省の精神も無く、彼は風間司郎を見てあざ笑うのだった。

 まさにクズの所業である。


「おい、軍曹~。俺、お前の事いじめてるかなぁ?」

「え、えっと……」


 おどおどと安部時彦は口ごもる。


 “軍曹”とは安部時彦、すなわちいじめ被害者たる件の生徒のあだ名であった。

 元ネタは有名な戦争映画であったが“微笑みデブ”などと呼称してはいじめにあたり、教師から面倒な小言を受けかねないと竹中が判断し、周囲にバレる事無く馬鹿にできる画期的な妙案としてたどり着いた結果がこのあだ名“パイル軍曹”であった。


「なぁ? いじめてなんかいないよなぁ? アイツ、なぁんか勘違いしてるよなぁ~?」

「ぁ、ぇ、えっと……うぇひへへへ」


 本人に自覚が無ければいじめとは言えない。


 ……果たしてそうであろうか?


 パシリまではまぁ、本人の意思で行っているのであれば、先輩と後輩として、準マネージャー的な活動の範囲内であると、あまりに激しい嫌がらせでも付随していない限り、風間も止めるには至らなかったであろう。


 だが、酒とタバコの強要。そして万引きの命令は常軌を逸しているとしか風間には判断できなかった。


「未成年の飲酒。喫煙は違法行為です。ましてや窃盗の強要なんて……」

「おいおいおい、なに酷い事いっちゃってんのぉ? そんな証拠どこにあんのさぁ~? なぁ?」

「う、うん……うへひへへへ……」



 まさに四面楚歌であった。

 安部にとっても公にされては困る秘め事。ゆえに証拠を提示できない。

 それを知っているがゆえに竹中は秘密の共有と言う形で口封じを行える。


 ゆえに――悪事がバレる事はない。


 仮にバレても証拠が無ければしらばっくれればいい。安部だけが罪を被ってのうのうと竹中は逃げ切るのだ。

 それこそが、世に悪党がはびこる原因。悪党世にはばかる。悪党とはただ違法行為を行う者を言うのではない。

 証拠を残さず、自らは法を犯さずに他者を虐げ、己が欲望を満たす力を持つ者の事を指す。


 だから、正しき主張はまかり通らず、力ある悪しき者の企みこそが勝る。

 それこそがこの世の中の摂理。


――これこそが、現実。


「それでも、貴方の悪行を見過ごす事はできません。関口先生に話させて頂きます」

「お前。なめんなよ?」


 竹中の口調、雰囲気が変わった。


「別にいいんだけどさぁ。証拠も無いし、困るのはお前一人だろうからよぉ。けどさぁ、お前のやってる事。格好悪いよな」

「は?」


 さすがに無視はできなかった。


 何を言っているのだ? この男は。

 あれだけの悪行を行いながら、それを叱咤する行為が、格好悪い?


 風間は憤ると共に困惑することしかできなかった。


「そう、すっげぇ汚ねぇわ」

「どういうことですか? 言っている意味がわかりません」

「ようするにさぁ、潰したいんでしょぉ? 俺の事ぉ」

「……は?」


「ようはさぁ、俺に勝てないから、剣で決着付けたくないからそれ以外の所で潰して、楽して上に立ちたい、とかそんなんだろぉ?」

「何を言って……?」


 風間にとって、まったくもって身に覚えの無い、愚かな疑いであった。


「そうやって外で潰してさぁ、有能な他の生徒の代わりに出場してさぁ、大会で勝ち続けてきたんじゃね? って言ってんの」


 だが、それはまさに聞くに堪えない屈辱的な侮蔑。

 彼の汗と涙の結晶たる、努力の成果に泥を塗るような、命を賭けても覆さねばならない汚名。

 まさに、彼の人生全てに対する侮辱。いや、それだけではない。今まで彼と戦い、互角の戦いの果てに何とか勝ちえてきた好敵手達、その努力、人生さえも愚弄する行為であった。


 ゆえに――。


「だったらすぐに着替えろ!」


 許すことなどできなかった。


「決闘だ!!」


 風間司郎。彼が剣道と出合ったのは小学一年時の頃であった。

 病気がちな一人息子が、せめて病に打ち勝てるようにと、親心から学ばせた武術であった。

 そして、それは功をなし、見事、風間司郎は病に打ち勝った。

 苦しんでいた喘息は消え、病気がちだった体はたちどころに病とは無縁な健康体となった。


 そして、それだけではなかった。


 才覚を現したのである。


 努力を繰り返し、勝つための術を考え、自らを鍛え続けた。

 ただひたすらに。

 最初は勝つのが嬉しかった。他者に打ち勝つ事が楽しかった。

 やがて、勝ち続ける内に両親が喜んでくれるのが嬉しいと思えるようになった。


 その頃からだった。


 朝、昼、晩、と。思考が剣の道に入り始めたのは。

 勝つための動き、相手の動きの予測。勝つための動きのパターン。

 体を動かす時のみならず、常在戦場として思考が切り替わった。


 24時間。寝ている時間以外が、彼にとっての修行の日々と化した。


 やがて――。


 剣の道にて彼の者に叶う者なし。


 道場内にて、近隣道場に至るまで、天才少年剣士と呼ばれ、その異名が広がっていった。


 いつしか、東の神倉。西の風間と呼ばれるほどに、全国とは言わないまでも、近隣の剣道生徒からは知らぬ者の無い所まで来ていた。


 だが、その努力、いや、彼の人生そのものとも言えるものが今、目の前で踏みにじられたのである。

 三年などではない。己が半生以上とも言える時間を費やした、その鍛錬が。結果が。全てが。泥を塗られあざ笑われたのである。


 許せるはずが無かった。

 しかしそれは、竹中の思惑通りでもあった。


「勝手な事いうなよ~。忘れたのか? うちの部、活動時間外、しかも顧問の許可なしでの試合はご法度だぜぇ~?」

「黙れぇゃぁ!! お前は今、絶対に口にしてはならない事を言ったぁ!!」

「お~怖い怖~い。どうちたのぉ? 真面目なお正義君じゃなかったのぉ? ルール破るのダメダメ~ってお話でちだよねぇ~? お前そのダブルスタンダードやめな? 頭悪く見えっから」


 風間の冷静を見事に欠く実に長けた話術。


「お前だけは絶対に許さない」

「あれれ? 図星だったのかなぁ? 怒るって事はぁ~、本当の事言われちゃったからぁ、激おこでちゅぅ~プンプンって事だよねぇ~?」


 身に覚えの無い汚名。さらに否定すればする程にのめり込む泥沼。


「……もう言葉はいらない。わかったよ。そこまで言うなら今すぐお前にわからせてやる!」

「え~? お話しようよぉ~。対話ができないとかさぁ、何でも暴力で解決とかさぁ、それこそお前がさっき言ってた違法行為? とかやる奴の考え方なんじゃないかなぁ?」

「うるせぇ!! お前はここでぶっ潰す!!」

「あ~怖い怖~い。俺は止めたからねぇ~? お前が勝手に俺に試合を強要してきた、って事でいいんだよねぇ~?」




――このまま試合を行い、わざとでもいいから負傷をでっちあげる。



――教師にそれを報告する。勝ち負けは関係ない。潰れるのは風間の方。げひひっ。




 これこそが、竹中の竹中たるゆえん。他の有能な同年代を潰し、追い出し、追い払いながら、実力無く主将の座を奪い取った手腕の一つであった。



 ゆえにこそ、それを偶然耳にした神倉徹には黙っている事などできなかった。



 部を担当する顧問教諭の許可も無く、勝手な試合を私怨で行うなど、それこそ厳しい部であれば、大会への出場権利を剥奪されかねない。いや、そういう流れに持っていこうとしているのは明白であった。


 つまりは、竹中こそが“ソレ”を狙う者。場外の舌戦にてライバルを潰さんとする者なのだから。



 偶然通りがかった神倉徹。その目の前に広がっていたのは、誰もが“見ればすぐにきびすを返すであろう、係わり合いを持つべきではない面倒ごと”そんなシチュエーションであった。


 だがしかし――。



「一汗流したい。手合わせを申し込む」



 神倉徹は躊躇する事無く、その場に割り込んだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る