第34話 テイク・オン・サムバディ・フォア 2

 

 

 

 

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 わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。

                                       (ヨハネの黙示録 第十三章一節) 

 

 

 

 

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 『全員、ネットワークから切断しろ! 今すぐにだ!!』

 

 戦域に在る全ての通信網で少女の声が流れた。ドラゴンの出現からほとんど時間差は無かった。この意味を理解したのは、ドラゴンの全身に走った仮想電脳神経路ライン、その存在を知り、意味を理解する者だけだった。

 

 反応したのは二者。

 

 まずは各所に散らばっていた《蝸牛》隊の面々。彼女らには意思疎通の必要はない。危険だと、察した時には既に断ち切られていた。だから《蝸牛》の面々の入っていた自動機械オートマトンがふらっと自由落下したり、その場で力なく倒れた。

 

 《蝸牛》隊というものは、一人の女性によって運営されている。

 ある種の多重人格者である彼女の人格を無数に分割分裂、インストールしたものが《蝸牛》の自動機械オートマトンだ。自動機械オートマトン自体も特別製であり、内部の関連部位はブラックボックス状態。そのため、詳細を知るのは彼女らだけだが、ある人種は使用技術に察しがついていた。

 これも、仮想電脳神経路ライン。電脳、意識を介在する技術において万能に近いものを用いているのだと。


 そのため、いの一番に動かなくなっていた。


 一瞬後に、反応したのは――サクラ=〈兜〉=エーレンブルグだ。

 声を出すこともなく。管理者権限を振りかざしたと思えば、ネットワークに繋がっている機器全てを膾切りにした。強制切断ディスコネクト。一気に各種電子機器やレーダーにセンサー。更には〈黒兜〉ら、強化外骨格エクソスケルトンへの外部支援。つまるところ、外への出入りが丸々消え去った。

 ヨシカゲも同様で、グローバルネットワークから引き出していた各種情報が消え失せ、更には纏っている〈蟷螂=白金号カマキリシロガネゴウ〉から強制排出された。叩き出されたヨシカゲが見渡せば他の強化外骨格エクソスケルトンも同じ様に操者を吐き出している。

 

 「今の声は……」受け身から立ち上がって「カレン、か?」

 

 ――呟いた直後であった。

 

 この世のものとは思えぬ程の大音響が、全てを砕きかねないほどに鳴り響いた。

 それは生き物から出力されたもので、出力されたものではなかった。何故ならそれは正確に言えば生き物ではなく、けれども、生き物ではあったからだ。

 

 異形ドラゴンだ。死人の様な六指の手を六足と巨体の前中後と生やして、背中には黒鋼色の翼がある。首はまるで蛇が如く伸び伸びと天井を向いている。先端にはそれこそ竜らしい――しかし象牙の様な白ではなく、翼と揃いに染め上げた――牙を備えた爬虫類顔が鎮座していて――ぎょろりと人の目を無数に瞬きさせていた。

 そして、あまりにも凄惨な顎門を、顎が外れそうなほど大きく開け放っている。雛が餌を強請るのではなく、天井より落ちる水を飢餓に苦しむものが望むのではなく。ただ威圧を振り撒く為。


 かくして、仮想電脳神経路ラインは蒼く輝く。エンボルトの意思を反映するように、強く、強く。


 竜の咆哮ドラゴンブレス。吹き荒れる音の嵐は、閉鎖空間であるが故に大反響した。逃げ場の無い音は反射を重ねて大暴走スタンピードする。

 勿論、最中に居る者たちにとっては冗談ではない。音だけでも人は苦しめられる。これだけの大音量ならば、失神すらさせられる。 ただ、問題は音の次だった。音だけならばまだ死なない。鼓膜が破れても再生できるし、音に揺れて気絶してもまだ死なない。

 

 次に来たのは――炸裂エクスプロージョンだ。

 

 無差別ではない。選んだもの、選ばれたものが次々と爆音と爆炎。もしくは爆発に血飛沫と肉片骨片を飾り付けとしてバラ撒いた。 選ばれたものとは、今の人類を支える柱の一つ――電子機器だ。

 一部の強化外骨格エクソスケルトンが内側から吹き飛んだ――〈蟷螂=白金号カマキリシロガネゴウ〉も同様に。 

 だから、破片は一目散に周囲に散らばった。散らばったというより飛び散った。それも殺人的な速度で不規則に。

 

 さて、その至近距離にいたヨシカゲにとっての幸運を幾つか上げれば。

 

 一つ、強化外骨格エクソスケルトンの中に居なかったこと。居たとすれば、少し先で弾けとんだ〈シルヴァ・バレット〉のようになっただろう。

 

 二つ、ネットワークから切断されていたこと。切断されていなければ脳天が吹き飛んでいた。そうなったらどうしようもない。

 ちなみに、ベースキャンプの司令室内は血の海だ。女性士官も事切れているし、モニターの前で頭部を無くした死体が幾つか。弾け飛ぶのをどうにかさけたものの、まともに衝撃を食らったエーレンブルグは気を失っている。

 

 そして、最後に――。

 

 残響は止まない。爆音と咆哮はその尾を引き続ける。そんな尾を踏み潰していく地鳴り。足音だ。ドラゴンが動き出したのだ。咆哮一つで

 血煙と粉塵が空間を満たしていた。強制排出が機能していない。恐らく、それも先の爆発で吹き飛んだのだ。偶発的な仮想電脳神経路ラインの発動。このメガフロートを吹き飛ばす軽着付けとばかりの一撃で、人々はものの見事に粉砕されていた。

 これこそが異形の力であると。これこそが嘆きであると。これこそが恐怖であると。人の手に余る力が此処にあると。

 人の網膜に焼き付けんとばかりに威風堂々に、ドラゴンは征く。終わりの十三階段を、一歩一歩確かに踏みしめていく。

 

 「――ぐ、ああ…………」

 

 呻きながら、転がって。けれども現状を理解すべく覚束ない足に鞭を打ち、立ち上がり――見開いた。

 

 視線の先で「ああ……、」安堵の溜息を零し、「よかった。無事でしたか」微笑うユキカゲはヨシカゲの代わりとばかりに、そのまま崩れ落ちた。

 

 ――最後の一つ。それは、盾になってくれる人が居たこと、これに尽きた。

 

 「兄さん!」

 

 駆け寄って受け止めて、更にヨシカゲは気付く。血だ。尋常じゃない。いくら義体サイボーグでも流し過ぎでいる。ほとんど致命傷に近かった。服など穴だらけで、全身のいたるところを赤黒く染めつつあった。今すぐにでも治療施設に連れて行かなければ――ヨシカゲの臓腑を焦燥が焼き焦がす。

 

 「早く、手当しないと……!」

 

 「ん? ああ……?」顰めっ面で灰色のカーテンを掻き分けてきたクロウは「はっ」鼻で笑い「んだよ、死にかけじゃねえか」

 

 「クロウ! 手伝え!」ほとんど命令だった。睨む勢いでヨシカゲはクロウへ視線を送った。

 

 「やーだよ。俺ァ、」ちらりと地鳴りの方へ視線をやり「あっちと遊ぶからな」唇の端を大きく持ち上げ、歯を剥き出しに嗤う。

 

 すると足音だけが軽快に鳴った。後にはもう、クロウの姿はもう無く、視界一面にぶら下がった灰と赤の混ざった帳に斬り裂かれた跡だけが残っていた。それもすぐに周りの塵と塵が繋がって消え失せた。

 

 「ああ、くそ!」

 

 当てにした俺が馬鹿だった! ヨシカゲの胸中は穏やかじゃない自己嫌悪に塗れる。

 

 「……ヨシカゲ」血塗れの言葉を作って「もういいです。早く逃げなさい」

 

 「兄さん!」泣きそうだった。しかしユキカゲは堪えた。「ああ、そう呼ばれるのは実に嬉しい。ですが――早く、逃げて下さい」

 

 荒く息をつきながら「あれはもう人の手に余ります。狩人――癪ですが、咬切ケンゴに頼らざるをえない」

 

 「しかし、」ごほりと大きな血の塊が吐き出される「彼はまだ来ていない。もしかすれば来ないのかも知れない」

 

 「だから、なるべく遠く逃げて下さい」ユキカゲの言葉は懇願じみていた。「……駄目だ。兄さんを置いていけないよ」

 

 それでも、と離れないヨシカゲをどう突き放そうか。そうユキカゲが思考を巡らせた時。

 

 『御堂ヨシカゲ、聞こえる?』

 

 ――声がした。

 

 

 

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 回線を叩き落とし、ドローンが失われるのを察したカレンは直後、電脳世界フロムスペースに居た。

 赤いワイヤーで編まれた電子と数理の海。カレンの認識による補正を受けて、現実とほぼ変わらぬ超高層ビルディングの海が、超多重構造高層建造物の群生が視界の殆どを埋め尽くしている。

 

 ――あれは不味い。とても不味くてやばい。かなりやばい。

 

 一瞬で走り抜けた仮想電脳神経路ラインは、恐るべき速度であらゆる電子機器をハッキングし、爆裂させた。張り巡らされた攻勢防壁なんて無いも同然だった。真正面から激突し、光より早く粉砕する様が、カレンの脳裏には、まるで直接見たかのように精彩に克明に映し出されていた。

 というよりも、想像がついたのだ。あの仮想電脳神経路ライン。何よりもその直前、ケンゴとそっくりの男が現実で手繰った仮想電脳神経路ラインと同色だった。あれは精神性等が如実に現れる。ある程度の色彩の調整は可能だが、直ぐに元に戻る。だからあれもあの男の手のものだろう。ならば、それだけ出来て不思議ではないとカレンは感じていた。なにせ相手は現実世界で、この電脳世界フロムスペースと同じ、それ以上の事をやってのけるのだから。

 

 であれば、何故、カレンはこの様に疾走するのか。赤い大型機関二輪エンジンバイクを低く叫ばせるのか。

 

 簡単な事だ。あれを止めなければこのメガフロートが終わるとカレンは察したからだ。あの先に、ドラゴンの向かう先に在るものを彼女は知っている。だからこそ。

 

 「早く、行かなきゃ」

 

 止められるのは今、自分だけだともカレンは理解していた。

 現状を知っていて、あの仮想電脳神経路ラインの意味を知るものは自身だけだ。だから駆ける。彼の居るこの〈エンパイア〉を守りたいと思ったから。

 

 だが、カレンは焦るあまり、一つ失念していた。致命的で、最も重要な事。分かっていながらも焦りのあまりに思考に浮上しなかった事だ。

 

 「――ッ!」

 

 甲高くブレーキは鳴った。横滑りしながら速度をどうにか落として――――止まった。

 

 「――あっ」しまったとばかりに零れて「しまったぁっ……!」

 

 痛恨のミスだった。本当にもう、どうしようもない馬鹿……! カレンは思わず大型機関二輪エンジンバイクのハンドルを叩いた。

 崖っぷち――道がない。低層街の途中でワイヤーが形作る道が綺麗に消え去っていた。道だけではない。街そのものがネットワークから消え失せているのだ。

 周辺の電子機器を全て、ドラゴンによって破壊しつくされた結果だった。この電脳世界フロムスペースは電子機器の繋がりによって生まれた空間だ。基礎無くして、ビルを建てる事が出来ないように、電脳世界フロムスペースも電子機器という足場無くしては成り立たない。

 見事なまでの立ち往生。進むにも道がない以上、今のカレンにはどうしようも無かった。

 

 「どうすれば……」

 

 と、歯噛みするカレン。回り道などはない。この断絶の向こう側を目指さなければならない――焦りは焦りを呼ぶ。

 

 『――そこの貴方』

 

 集中しきったカレンには届かない。

 

 『――――』しばし沈黙。すっと息を吸う音『そこの貴方!!』まるで耳元で爆発でも起きたかのような大音量をカレンは聞いた。 

 「な、なんだよぉ!」思わず涙目「こっちは忙しんだ! 邪魔をする、」な、と最後まで言い切れず。

 

 一瞬目を周囲に向け「誰だ?」と、問うた。カレン以外のアバターは居ない。しかし見られている感覚を今になって、カレンは肌に感じていた。

 

 『失礼。アバターを晒せませんので音声のみでお願いします』

 

 女の声。カレンはそう感じた。いやに高くも、いやに低くもない。やたらと中間的な声。印象としてはそうだった。すぐにカレンは合成音声だと見抜いた。けれど、発声者は女だろう――これは勘だ。

 

 『お困りのようなので声を掛けてしまいました』

 

 「…………まあね」素気なくあしらっても事態は好転しない「確かに困ってる」だからカレンは会話をしてみることにした。

 

 ――この会話が実りあるのを願いながら。

 

 『やはりそうでしたか』白々しいと、カレンは思った。

 

 『実は私も困っていまして』は? 舐めてんの? カレンはそうも思った。 

 

 『力になってもらえませんか?』図々しいにも程がある、ともカレンは思った。

 

 だが、この声の主が只々助けを求めて声を掛けたのではない。とカレンは気づいている。

 

 「率直に言え」思わず口調をぶっきらぼうに「何をして欲しいんだ」

 

 『…………この先へ、』微かな言い淀み『低層街の先に向かってい貰いたいんです』

 

 「内容は分かったし、行けるなら行くつもりだけど……」

 

 再び断絶した道の方。断崖絶壁へ、天地を繋ぐ巨大な壁に視線を向けて。

 

 「どうするんだ?」

 

 『道はあります』断言『企業群の非常用回線を起動させます』

 

 「…………?」カレンは思わず小首を傾げていた。「…………どこの?」沈黙の後、決して聞き逃がせない台詞を鸚鵡返し。

 

 『はい』まるで首肯したかのような雰囲気『多国籍企業郡大日本帝国企業富士山がメガフロート各所に引いた回線です。勿論、非常用だからといってメンテナンスやアップデートは欠かしていません』

 

 するとそう、声は自信アリげに言ってのけた。

 

 カレンはちょっと目を泳がせて「えーっと、そのだな」言葉を選ぶ。「それは自分で使えばいいんじゃ?」

 

 『……ええ、考えました。実際はそのつもりでした。他人に、この重責を押し付けるのはあまりにも酷い』

 

 ――だけれど。悲壮が篭っていた。

 

 『私達・・は、が行く事を許さない。私達・・が行くのを拒んでいる』

 

 「……ごめん。全く意味分かんない」

 

 まるで意味不明とばかりの顔をカレンはしている。

 

 「とりあえず、あんたは行けないからボクに行けと?」――言われずとも行くが。内心で思いつつも尋ね返す。


 『そういう事になります』肯定『私は道を作る。貴方は道を使う。特に異論は無いと思われますが?』

 

 「まあ、」なんか癪だなとまた内心思って「無いね」頷く。「じゃあほら、さっさと行こうぜ。時間がない」

 

 沈黙。なんだよとカレンが眉を潜めると。

 

 『ところで、一つ、保険くらいあっていいと思いません? いや、というか我が社だけ奥の手を晒すのが癪なんですけれどね』

 

 「後半はどうでもいいけど、まあ、有ったほうがいいね。嬉しい」

 

 いくら死地に挑むとしても、生きて帰るのが前提だ。だから、有って損はないとカレンは至極当然とそう思った。

 

 『では、一つ要請してみましょう』

 

 

 

 

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 丁度その頃、〈マーキュリー〉エンパイア支部、最上階にて。

 

 「ちょっと」ぽつり零して「エロ画像会社のフォルダに入れてるの誰よ。やたらと硬いプロテクト掛けてたらバレバレじゃない。馬鹿でしょ」

 

 ブラッドフォードは逃げ出す準備をしていた。夜逃げである。ついでに社内ストレージやらデータベースやら隠しフォルダやらをひっくり返して、漁っている。CEO襲名からなる最上位管理者権限を振りかざしてあらゆるセキュリティを真っ向から合法的に突破できるから手間は無かった。大体の作業はオートでダウンロードしてくれるし、気になったものを暇つぶしに覗いてみるくらい。

 

 「ちょっと遊んであげましょう」

 

 にやにやと笑いながら軽やかにキーボードをタイプ。ものの数秒で幾つかウィンドウが開いて打ち込まれて閉じて。出来上がったのは開封型のトラップ。画像データに偽装して、開けば一瞬で社内ネットワークに持ち主の氏名と顔写真等がばら撒かれる仕組み。起こりを組み込むだけだから画像データの総容量はほぼ変わらない。相当に注意深くなければ気づかないだろう――実に悪意満点だった。 


 「……ん?」

 

 ふと視界の隅についたポップアップに気づいて。

 

 「このアドレス、誰かに教えた覚えはないけど」

 

 やや躊躇いながらも開封して目を通し――――非常に、とてもとても形容し難い表情を千変万化とばかりに何種類も浮かべると。

 

 「ぬ、かぁ……こんのを……」声と肩を震わせて「ど畜生がァァァァァァァァァ!!!!」野太く叫んだ。

 

 力いっぱいトランクケースを蹴り飛ばし――蹲った。爪先を抱えて、肩を別の理由で震わせながら。

 

 

 

 

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 『とまあこの通りです。〈マーキュリー〉の緊急回線の起動コードを受け取りました。いい囮になると思います』

 

 得意満面なのが予想がついた。が、カレンにはもっと重要な事がある。

 

 「……怖っ」――カレンは心底思った。後、声にも出ている。

 

 『そんなに怖がられるのは心外です』不満げな様子『ちょっとした責任追及をしただけ。今回の作戦妨害とかこの間までやってた秘密作戦の内容とか。夜逃げの真っ最中だったので色々と都合の悪い事も――』

 

 「やめて。聞かせないで。知りたくない」

 

 他社の情報を筒抜で、抱え込んでいるなんて公言されて怖くない筈がない。火遊びにも限度があるのだ。カレンは背筋が凍るのを感じた。此処までの情報網を持つ相手。しかもこの〈エンパイア〉を牛耳る企業群の一角の、その設備を――合法か不法か不明瞭だが――自由に使える相手だ。自身に接触してきたのも何かしらの思惑あってか――疑念がカレンの中に積もり募っていく。

 

 『……そんなに警戒しないでも…………」心外とばかりに呟いた。声の主が大体どういう顔をしてるかが想像がつく。

 

 「無理でしょ」カレン、即答『そんな……』がくんと頭を下ろした様な雰囲気。

 

 分かりやすく声の調子が落ち込んだ。思った以上に言葉に感情が現れやすい女だとカレンは思った。

 女――恐らく。しかし、こうも合成音声に感情を乗せるのは難しい筈だ。苦労している様子は見えない。極自然な調子。普段から使っている――? 考察が重なり、カレンの脳裏に正体の輪郭が描かれだした。その輪郭には先に抱いた疑念はあまり見受けられない。言葉の調子から見て、あまりそういう鬼謀を書く様なタイプだと聞こえなかったからだ。

 

 「とりあえず、行くよ」

 

 アクセルを捻って、ぎゅるんとタイヤを横滑り。また走り出せるような態勢に。横だった車体を前向きにした。

 

 「あ、そうだ。最後に一つ教えてよ」

 

 『なんでしょう?』

 

 「あんたは何でボクを行かせたいの?」

 

 『…………私は、〈エンパイア〉の景色しか知りません』

 

 ――ボクもだ。思わず、カレンは共感を抱いた。極自然と反射的に。

 

 『ここで生まれ、ここで育ちました。ここ以外の空と海と人は知りません』

 

 分かってしまう。カレンは理解してしまう。この感情は、故郷を思う気持ちはボクにもある、と。

 

 『それに、ここには大切な人も居ます。優しい妹が居るんです。妹は今、この先に居ます。この先できっと皆と共に戦っています』


 けれど連絡は途絶えました――悲壮が見え隠れする。生死不明。声にとっては気になって仕方ないだろう。けれど、行けない。

 嗚呼、分かる。分かるよ。一度の共感を呼び水にして、底が無いと思わせるほどに感情はカレンの内から湧き出てくる。

 

 『だから私には、貴方に行って欲しい。貴方が守りたいと思うものを守ってもらえれば、私の守りたいものや救いたいものもきっと大丈夫』

 

 ああ、そうか――カレンはそうして気付く。彼女はきっとボクと同じだ。ここしか知らなくて、大切な人がこの先に居る。そこに行けない。その歯痒さをボク達は共有しているんだ。

 理解した時にはもう、心は決まっていた。

 

 「自信の根拠は?」

 

 『言った通り、私は、このメガフロートをずっと見てきました。メガフロートの全てを――だから、貴方のことも知っています』

 

 「私を?」静かに小首傾げれば『はい、貴方を、貴方の兄を、父を、母を』肯定は全てだと語った。

 

 そして。

 

 『貴方の、助けたい彼も』真っ直ぐにカレンの胸を言葉は貫いた。『だから、お願いします。貴方しか頼れる人はいないんです』

 

 「――別に、ボクは最初から行く気だしな」カレンはライダースジャケットの肩を竦め「んじゃ。頼むよ」

 

 『分かりました』

 

 頷きを聞いた――刹那、断崖絶壁が、天を探して立つあまりにも完璧な壁。それは左右に割れて、真っ直ぐな道を二つ作り出したのだ。

 

 『よろしく、お願いします』

 

 「任された」

 

 視界が開ける。するとカレンの下で臓腑を震わす、低く低い咆哮エキゾーストノートは地鳴りめいて響き――赤のライダースジャケットは翻った。

 

 

 

 

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 〈エンパイア〉の何処か。部屋。広い部屋。明かりは一つだけ。部屋の中央で朧気に青を放つもの。

 暗がりに負けず踏み出し、明かりまでの闇を歩めば分かることだが、無数のケーブルが整然と各所の何とも知らぬ無数の機械から伸びて、生えて、あらゆる場所に繋がっている。 暗がりの先には真っ直ぐな通路がある。曲がりくねるのは側に這い回るケーブルだけ。

 その先には、縦長の大きな大きなカプセルのようなものが床と天井を繋ぐ様に有った。きっとこの部屋のケーブルや機械はこのカプセルの為にあるのだ。

 薄い青の液体に満たされた中には、一人の女性が浮かんでいた。女性――曲げた膝を抱き締めて、胎児のように丸まっている。真っ白な髪はカプセルを満たす液体に揺蕩っていた。齢は二十歳を過ぎたばかりか。もしくは手前か。一糸纏わず、膝で胸を押し潰すように浮かんでいる。

 彼女は瞼を閉じていた。眠っているのではない。閉じた瞳は前を映さない。もっと別の場所を、もっと別のものを瞼の裏で映している。

 

 そして今、彼女は内なる苦悶に心を震わせていた。


 『ほんと、最低ですね』 一つ、年相応の、体の通りの成熟した声が響く。


 『最低じゃないよ』 一つ、幼い少女の声が答えて響く。

 

 『ええ、最低なんかじゃありません』 一つ、大人ぶった少女の声が響く。


 『私達が出来ないことをしてくれるだけだよ』 少女は言う。『私達が怖くて行けないから……』

 

 恐怖に打ち勝てない事への許しを請うように。

 

 『私達〈観測者ウォッチャー〉は、観測不可を前に放棄せざるえなかっただけ』

 

 諭すように、これは罪ではないと。ならば罰はありえないと。職務怠慢でも職務放棄でも無い。職務の実行が不可だと。

 

 『それら全てを纏めて、は、あの子に押し付けたんです』

 

 背負った荷物を押し付けられた背中を今もなお見つめながら思う。

 

 『……私達だよ』

 

 『ええ、私達』

 

 幼く大人びて、二つ。同調するように言った。

 

 『……そうですね。いけないことです。独り占めなんていけないこと……いつも言っているのにね』

 

 動かない唇が今この時だけ、苦笑を浮かべたように誰かが居たのなら見えただろう。

 

 『出来ることはしたよ、私達』――ええ、間違いなくそうですね。

 

 『しました。これ以上にないほどに働きました』――ええ、勿論。とてもとても良く。

 

 同意を重ねる。重ねて彼女らは、姉妹たちは罪を分け合う。罪悪感を分けて、分けて、分割して。軽くして背負っていく。

 

 『――けれどまだ最上ではありません』まだ終わっていないから『続きです。まだ私達の〈観測ウォッチ〉は残っています』

 

 ――その瞼が持ち上がることがあれば、瞳が強い意思を宿していた事を知れただろう。

 けれど、それはない。ありえない。

 筋ジストロフィー等の重篤な疾患を抱えた上に、日光アレルギーから多数の金属アレルギーを持つ彼女は普通に生きることを何一つ許されていない。世界に拒まれながらも生きながらえているのはひとえに生まれが良かったからだろう。

 胡蝶の夢。人は夢の中で蝶になれる。ならば、夢を見続ければ人は何にでも成れる――だから、彼女ら、多国籍企業郡大日本帝国系列企業富士山治安維持連隊九番蝸牛は、常に終わらぬ夢の果てにいる。果てで、空と海と人々を見続けている。

 

 シオン=〈兜〉=サクライ――彼女は、誰よりも不幸で誰よりも幸運だった。

 

 

 

 

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