第30話 ドゥ・エブリシング・ハプンス・アズ・イッツ・ハプンス
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翼は、羽撃くことを知らなかった。二足を以て歩むことしかそれは知らなかった。
それは空を知らなかった。羽撃くべき空を知らなかった。生まれたその時から、天を奪われ這いつくばることしか知らない。それは、機能として存在していないのか。もしくは、強く刻まれた心象風景が原因か。
知らぬ。何も知らぬ。ただ、今は生存衝動それを動かしている故。
鏖殺などは過程である。殺戮衝動は異形としての矛盾と合致が巻き起こすもの。意思の融合。存在そのものの矛盾。それらの結果として現出するものだ。存在するだけで物質界の理を歪める。歪めた結果の軋轢が人命を押し潰すのだ。
物質として在りながら現象としての性質をバラ撒く。故に、それは純粋なる物質界のものでは殺せない。
だから、今、こうして。
――音のない着地。
相見える――電光石火。
――交差する白刃の雨霰。
雪辱を果たすべく。黒衣翻って、ケンゴ/狩人、見参。
互い、最初の邂逅と変わらぬ様相。黒衣と少年。無貌と黒眼。狩人と異形。ぴんと張った緊張の糸。まるで時間が逆戻ったかのよう。変わったとすれば、場所だろう。低層街。
故、ここを
これ以上、進ませない。壊させない。殺させない。狩人としての
逆らわない。これに素直に乗る。紛れもない本心と共に、ケンゴ/狩人の
右の
ちかりちかりと、覚束ない風に路地を薄暗く染める街灯は瞬いていた。沈黙は瞬きの合間に満ちていた。その一瞬、一瞬よりも少し長く、照明が止んだ時。
――
奇っ怪な音色が大気を蹂躙する。先を取った開戦の号砲は、必殺でもある。喰らえば前回の繰り返し――否、否である。これは前回の比ではない。ギュルリと微かな音をたてて収束した
無形無色の死神は、吐き出された鎌を振り被り、ケンゴ/狩人の喉笛にたたっ付ける。それも一つではない。幾つも何重も真正面から、円を描く様に多角的。この狭い路地に逃げ場はない。しかも、これに触れてはならない。大気をうねらせる死滅の旋風は、存在そのものが死神だ。あるとすれば上、もしくは後ろ。しかし、後者は論外だ。一直線に進むものから逃れるのに下がる等、愚者の所業として嘲笑われても仕方ないだろう。
すれば、上しかない――相手の手数を削り取るのは、戦いでの必須技能だ。それは規模を問わず、ルールを問わず、生死を問わない。いかなる状況でも通ずる法則になる。
つまるところ、
なら、ケンゴ/狩人はどう出るか。熟考の暇はない。時は待つことを知らない。刻み続ける秒針が足を止めるのは、世界が回ることを止めた時だ。故に、思考の回転は秒針を上回らなければならない。もしくは、思考を捨て去らなければならない。幸運にも対敵は、時より遅く、光よりも遅い。その速度はまだ、瞬きを超えていない。それを選ぶだけの余地はあるだろう。
――ドクン、小さな鼓動が掌を叩いた。
走馬灯めいて、ケンゴ/狩人の脳裏に言葉が蘇る。
『やつの
先代狩人。コールド=J=オールドリッチ。彼だ。彼の言葉がケンゴ/狩人の中で再生されていた。
『この世に波のような振る舞いをもつものは多い。故にヤツは強敵だ。物理的な、視認しえる攻撃をメインに扱う今までとは格が違う。俺はともかく、過去の並み居る狩人でさえ味わったことのない、初遭遇に値する難敵だろう』
確実に彼は対敵の情報を告げる。ケンゴ/狩人も分かっている事だ。だが、反芻し、現状を改めて認め直すというのはとても重要な事だ。知識や認識を共有したとしても、これを行うだけで思考のまとまりが違う。咬切ケンゴという狩人は、狩人として未完成であるが為にこれが効く。
『だが、活路はある』
――ドクン、ドクンと掌を伝わる脈打ち。
『そうなぜ、俺がここまで相手の種をつまびらかに語れるか、そこにある。
まあ、直ぐに理解するだろうし、詳しく言ってやる事もないんだが……折角だ。未来の弟候補とやらにアドバイスの一つくらい送ってやるのが兄の勤めだろう』
――鼓動が高鳴る。強く、強く。存在を強調する。
『……おいおい…なるほどなんて顔すんなよ…この前ふりどうすんだ……。それでも、言ったからには貫いてやるさ。得意なんだ、貫くの』
笑み消して、無表情を取り戻す。ここでコールドに蘇っていた人間味が死に絶える。
『現状のところ、音波を媒介しなければ
しかし、と間を置いて。
『対象的に、狩人とは無数にして一である。俺たちの真髄は、ある種の
――鼓動が連続する。抑えきれない鼓動は、連続を超え、連なり、一直線に――――そして。
『つまるところ、この身は腕に脚に頭、血液から細胞、更には原子と分子に粒子。理論上、全てを自在に操れる』
無数のスパーク。
『俺は鋼糸が限度だったが……カレンが選んだなら、これくらいは容易いことだろう?』
やってみせろとばかしに口端を歪めた幻視を斬り裂くように、暗がりを斬り裂くように雷鳴は顕現した。
死神の音色が到達寸前で掻き消された。間髪を入れず、第二波、第三波。正しい。隙きあらば波状攻撃を行える
『なあ――――?』
雷鳴が、コールドを置き去りにした。地平の彼方、彼の姿は一瞬で点となる。躰が思考を置き去りしたのだ。それほどの加速。その時、ケンゴ/狩人の躰は言葉通りの雷鳴に成り果てていた。
波、その中でも音波を得意とする
狩人が消失した。影も形もなく、雷光だけが残り香めいて、そこにいた痕跡となる。存在の証明をしていた。
それも一瞬だった。
刃鳴り散らして火花散る。多方から刃金が打ち据えられ、縦横無尽と雷光が尾を引き瞬く。空間に幾何学的ラインを引いて、逃げ場を奪う。
一瞬の会敵。
けれども、こればかりは持て余すようだ。
『――――波を捉えるのに音を使っている種が割れた時点でもう、終わったも同然だ』
ケンゴ/狩人の脳裏に蘇る声色。コールドが追いついたのか、ケンゴ/狩人の思考が躰を御する為に追いついたのか。分からない。ケンゴ/狩人自身、分からなかった。何よりも、声が過去ではなく現在に語りかけていた。
雷光こそは、現象の発生に起因するに過ぎない。現象の排泄物だ。事実の根幹はその先にある。
『俺達は
唄うように、しかし、
『して波や粒子というものは、世界に満ちて、偏在している。粒の集合体。それはまるで、我々のようではないか?』
すると、知識の隙間が埋まる。ケンゴ/狩人の無理解が理解へとすげ替えられる。ジグソーパズルの一手を埋めるような、書物を読み耽り、知識へ変える快感などはない。ただ、事務的な。元々知っていたものに成ってしまう。
『トンネル効果……――』
――量子力学に、そういものがある。詳しい説明は長くなるので割愛するが、よく聞く話を挙げれば、生身の人が、壁に体当たりをし続けるといつか壁をすり抜けるというのが有名だろう。だが現実、不可能の分類になる。数多あるといっても少ないほどの粒子達全てにトンネル効果――粒子間の反発が働かないという奇跡があれば可能だが……粒子数と同数のダイスを振って、全て同じ数を出す事が出来るというレベルの確率にある。有機体であれ無機物であれ無限はありえない。人は可能性を数理の上に見出していながらも、未だ手を届かせることが出来ない。当たり前だ。数式とは事象を現す。しかし、顕しはしない。理屈を示せても、現実に成し得るかは別の問題だ。
『いや、それでは』
だが、それではこの現象は現れない。すり抜けはあっても、速度にはならない。説明できない。おかしな事を説明し得ない。
しかし。だが、そう。毎度であるが――――彼らに常識は通用しない。
『だから、騙くらかした』
人の心理を読んで――いや伝え聞いた口端がさも悪ぶって歪められる様を、ケンゴ/狩人は見た。
『ダイス目全てを同じ数にまるっと揃える……』いや、首を振って『いかさまよりも手品の域だ、どれもこれも――別のものを別のものに置き換えるなど』
呆れて零して、閃光。刃の一閃である。意識を介さない、反射の域。不意に投げ付けられたボールに手を翳す如く。
別のものを別のものに、アポートとアスポートという超能力がある。前者が取り寄せ、後者がその逆。今、ケンゴ/狩人が行ったのはそれをセットにした技能だ。
『全くもってその通り』だがまあ、と繋いで『勝てればいいだろう?』
『ああ、そうとも』然りと頷き『全くもって、その通り――――!』
ケンゴ/狩人は同音同字を返して見せた。ならば、今現在することは唯一つ。
雷光より刃が改めて、世界に姿を顕した。それは恐るべき轟音を伴い、密度の高く籠もったこの狭苦しい路地、
――殺意はあらゆる方から襲ってきていた。
四方八方。在らざると在ると関係なく。雷光の尾を引いた必斬が殺意を纏って在ったのだ。
その時、
だから、必然とばかりに
今際の声は無く、
「いや、
だが、それを是としない声が一つ。
その時、ケンゴ/狩人の視界から、落ちる首が立ち消えた。霧散したのではない。その様子は見えなかった。溶けるように消える様は視界に映らなかった。
声は、ケンゴ/狩人の後ろからした――無論、振り返る。すぐさま、声を聞いたのと同時に。
視線が伸びる先、解けて消えゆく筈の、命運尽きたはずの
「やあ、ケンゴ。久しぶりだな」
すっと、何かが変わる。何かからまた別のもの。理解し得る姿に。
それは、ふっと口角を持ち上げていた。見慣れた顔。酷く良く似た顔。毎朝、鏡に映る虚像。誰よりも見知った顔。しかし、その姿に明確な差異があった。似て非なるもの。気質か、存在してからの経過年数からか。そこで生じた歪さ。それは映るものがおかしいのか、生まれた虚像が間違っているのか。
まあ、ケンゴ/狩人は哲学的な悩みに時間を費やすタイプではない。口より手が出る方だ。つまり――
偏在する粒子の中で刹那を数百分割し、駆け抜け――眼前に到達すれば袈裟と振られる
その合間を遮る半透明の障壁が、
「――うそ」
誰とも知れず言葉を零したのはカレン。ドローンの向こう側で彼女は見覚えの在りすぎる風貌に驚いたのもあった。聞かされていないから当然だ。瓜二つ。一卵性の双子よりも、根本的な何かを共有しているかの如く、似て違う男達。それが並んだ事への感情を現す言葉。だが、その次の瞬間、男が操ってみせた技術への驚愕も言葉には乗せられていた。どちらかと言えば後者の方が強かったかも知れない。それはカレン=T=オールドリッチの根幹的価値観、技術観を覆してあまりあるものだったから。
「電脳の外で、
驚愕に見開く瞳に、この光景は現実だと突き付けられる。揺れる瞳孔。明確な事実は前にある。けれど、エンボルトがどの様にこれを行使するのか、原理が不明瞭に過ぎた。分からない。ありえない。意志力が
走った思案を
「挨拶も無しか」
肩を竦める微笑の男、咬切ヨシカゲと同じ相貌をした男、無数の名を持つ男。名を、クローク=F=エンボルト。
無言。幾度と叩きつけられる
だが、まるで出現位置が分かっているように出現する防壁が
「…………」
斬れないのならどうしようもない。距離をとる。此処もやはり一瞬。瞬きをすれば既にといった風。
ただ、無言で睨めつける。視線が呪詛を運ぶなら、エンボルトの脳天は吹き飛んでいるだろう。
「せっかちはいけないなァ……」
人差し指が
満足気に「よしよし」と頷けば、エンボルトは軽く首を投げた。空、真上。くるくると回る軌道もみる間に失われた。軌道が安定したのだ。あの螺旋がどうやらコントロールしているらしい。各部にするすると移動して、姿勢を正す――顎先を前方、頭頂部を後方に見立て――と渦が内側から膨らめば――――ぶわりと一瞬の加速。常人には残像すら見える程の速度で路地に痕跡とばかりに突風だけを残していった。
「――させるか」
許す程、ケンゴ/狩人は遅くない。その程度の加速、欠伸一つしながらでも回り込める。雷光を迸らせる
「やらせないとも」
しかし、横槍とばかりに眼前と翳された青の輝きが、また、ケンゴ/狩人の行動を阻害する。
「知るか」
同時にそれを蹴る。蹴って三角跳びめいて跳ね上がり、頭上を迂回しようとした頭部へと
愚直なまでに、ケンゴ/狩人は狩人としての使命を優先していた。立ち塞がるかつての象徴をここまで無視し、猟犬のように追うのは並大抵ではないだろう。
だが、スルーされた側には不満も募るものだ。不服で無碍にされたと感じるだろう。誰だってそうだ。親しき仲にも礼儀ありという。顔見知りでも声を掛けられれば、会釈でもなんでも一つは返すべきだ。
「まあ、そんなこと、教えてはなかったがね」
唇歪めた相貌が、その切っ先を指で挟み込んでいた。天地逆転。脳天を地に向けた形でエンボルトは居た。ケンゴ/狩人との距離は、幾ばくとない。力を込めても無意味だと直ぐ様悟るケンゴ/狩人は
――だが、そうも行かせないと衝撃が一つ。その生じた一つは、ケンゴ/狩人を虚空から地へと叩き落とす。強かと打ち据えた頬と胸から腹にかけての衝撃は、ケンゴ/狩人が砕けた路面の破片が落ち切るか落ちきらないかの内に、
ダメージ。間違いなく異形による一撃。しかし、異形は躰を持っていない。ならば、答えは一つ。見れば、強烈な振り下ろしが追撃とばかりに繰り出されて、破片の落下と同時に地へ突き刺さる――つまり空振り――かと思えば、青の粒子が吹き荒れて、ごうっと靴底がケンゴ/狩人の眼前にあった。
傾けた首。爪先が頬を抉らんと擦過し、沈む――前に掴む。勢いを乗せて身を捻り、
路地は音がよく響いた。衝撃音が路面を砕き、亀裂を入れていく。確かな感触をケンゴ/狩人は感じていた。手応え、芯に響かせるに値する一撃だと彼は確信する。
が、直ぐに間違いに気づく。
――発狂/変形――
吹き荒れた常世の風は、条理を逸していた。
蕾が花開くように。エンボルトという存在を覆っていた狂気という花弁は、その中枢を顕す為に大きく広がっていく。広がっていく過程が些か以上に問題だった。破壊の嵐。質量を得た狂気という波動。狂気とは一種の精神エネルギーである。発狂とは精神エネルギーの放出を経た変身プロセスに他ならない。物質界と異界の性質を併せ持つ装甲の展開こそが真髄だ。
ならば、今、目の前で花開く狂気は何か。あまりにも大規模な発狂のエネルギーは空間を砕きながら展開されていた。只、纏うにはあまりに膨大で、過剰。いやこれこそがエンボルトの変身プロセスなのかもしれない。膨大で過剰なそれは余波でしかないのか。
ついに、花弁が彩られる。確かな質量として顕現していく。路地などもう跡形もない。砕けた瓦礫の山々の最中に咲き誇る大輪の色は、混沌。異形のその様は見る者の目を捉えて離さず、そのまま覆い尽くす。
『カレン』呼べば『もう行ってる!』と望む返答『あれくらいなら追えるから』
『頼む』信頼一言。すると『そっちこそ、死ぬんじゃねーぞ!』発破をかけられる。
『負けるかよ』強気に啖呵一つ『分かってる――僕のダーリンだもの!』
また背中を押してくれる言葉。
「――そうか」思わず肉声に、苦く微笑めば『そうだ』同音同句が返る。全く、兄妹揃って。と内心でケンゴは苦笑。
『じゃあ、行ってくる』タッと地を蹴ると『いってらっしゃい』――追い風が背中を優しく押した。
確かな言葉を、勝利を掲げるに値する理由を背中に受けて――――
目指すは、大輪の中枢。そこに立つ、何か。何か――そう、エンボルト。花弁を一蹴り、二蹴り、
眼前。ケンゴ/狩人、到達。何かがその姿を曝け出す。
黒鉄の面立ち。光を呑み込む真実暗黒の装甲。それは、史上、一度も世界に姿を現さす事無かった何か。
エンボルトは微笑う。未だ、自身を受け入れてくれる世界への感謝を込め。両の口端を持ち上げて、瞳に喜びを乗せる。併せ、両腕は広げて、掌を歓喜するような仕草でゆっくり頭上に広げる。抱擁を求める赤子が如し動作。ケンゴ/狩人が迫ろうと構わずするのは、強者の余裕か、若輩の狩人たるケンゴを侮っているのか。それもこれも、この一瞬を待たずに解ることだろう。
激突――花弁が散ッと勢い良く吹き荒れた。その中心に彼らは居て、彼らが嵐の中心だ。
ケンゴ/狩人の眼の前で、エンボルトが身に纏う何かに呑み込まれていった。首を登り、顎を掴み、後頭部から大きく喰らいつくように。すれば、視線が切られる。合間に挟まるものがケンゴ/狩人とエンボルトの物理的な接触点を奪い去る。
高く、がしゃりと噛み合う音がした。
覆い尽くした黒鉄兜に、左右斜めの
即座と黒鉄の各部を淡い青の燐光が駆け巡っていく。
そして、顕現するのは一つの鎧。人が手繰るもので最も近しい言葉を充てがえば、やはり、一つだろう。
「
「正であって否だ! ケンゴ!」
動かす口無く、言葉は発せられた。エンボルトの声だ。間違いなく。音源は無論、そこにある。
「
喝と叫ぶ。叫べば、
接敵と瞬時、コンパクトに、素早く繰り出された
対する、エンボルトはどうか。疑問符を付けるまでもなく、緩く翳された片の掌が、
「ッ――!」ケンゴ/狩人の瞳が苛立ち細まり「なんとまあ、弱い太刀筋。雛鳥と大差ないね」せせら笑って。
帯びて絡ませる
「言うものだ……!」
〈
「ハッ――」鼻先掠る様に嗤い「弱い! か弱いなあ! 小鳥と見間違うばかりだ!」
暗黒の装甲より、
だから、突き立つのは青の燐光。
ぞんッ! 空気を裂く音はそうだった。
して、状況はどうかと問われれば、ケンゴ/狩人はこう答えるだろう。
『最低だ』、と。
眼の前のあれを、エンボルトを打ち破る術が今此処には無かった。生成される無数の戦術。しかし、反映されたとしても未だ結合を完全としていないケンゴ/狩人には付け焼き刃だ。
しかし、打開は必須だ。打開した上で、確実に打破しなければならない。此処に敗北の二文字は無かった。
じりじりと脳裏を焼く焦り。焦ろうと歯噛みしようと無意味だとは知っていても、せざる得ない現状は、無力の意味をケンゴ/狩人が知るに相応しい状況だろう。
青ざめた月光を湛える揃いの眼球が、槍もかくあらんとケンゴ/狩人を貫く。釘を打ち据えられたような感覚を覚えるも、幻覚だ、惑わされぬと振り捨てた。
――っと、気づく。脚下まで届こうとする氷結の支配。見渡せばいつの間にか、エンボルトを中心に氷結の支配が広がっていた。
脚は止めていけない。言い聞かせる。何よりもそれだけではない。距離を図り、隙を作らせ、一撃必殺を狙う。これこそ狩人の作法だ。
だが、相手はその狩人だ。その狩人の中でも最も古い一人だ。知り尽くしているに違いない。こんな初歩の初歩。心構えの一つ。
けれど、抜けてから幾ばく経つだろうか。抜けたのも極最近の事ではないだろう。あの男は。ケンゴ/狩人の脳裏にふっと浮かぶ思考。現状とあまり関係ないような、関係があるような。取り留めなく、浮かぶ。
『何故』をケンゴ/狩人は知らない。空白だ。底無しに見える
知らないこと。ヤツが知らないこと。
沈黙と収束の彼方で――――雷光は瞬いた。
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クローク=F=エンボルトは裏切り者だ。
エンボルトはそうして、総体から個へと逆戻りした。一つの思想と思考の下に駆動する生命体への回帰だ。だが、もう彼は生命体と云えるものではなかった。一度狩人に成ったのならば、肉体はもう物質界のものではない。しかし、狩人から脱した以上、狩人のようなある種の安定性は無い。
つまるところ、異形と大差なかった。一つ、違いがあるとすれば明確な理性と目的があった。人と異民の結びつきに生じる途方もない、底無しの、制御不能な欲望は携えていなかった。
――
ただ、理性があった。際限なくばら撒き、狂気で塗り固めるのではなく。指向性を持たせる理性という鎖と羅針盤がある。それがエンボルトをエンボルトとして在らしめていた。
狂気=目的。切っても切り離せない。別離は不可能不可避の存在。これは形作る為の骨だ。頭蓋にして背骨であり肋骨で、腰骨にして四肢の隅まで伸びるもの。なら理性は統合するもの。内に収まる臓腑にして、頂点に座する彼が彼である神経達の要――脳であろう。
エンボルトはそう在った。そう在って、物質界に楔が如く食い込んだ。特異点として揺るぎなく。食い込んだ楔は強く深く、根強かった。
しかし、最初に拒んだのは、世界ではなく。古巣――
その身を隠すのは自然な流れだった。総体である狩人達に対して、エンボルトは既に個である。離反に際して幾らかのリソースを奪い去ったにしても大海に沈めたバケツを引き上げるの如き行為だ。奪ったと評するにしてはあまりにも相手が巨大過ぎだ。
無数の人魂と無数の異民の意思を統合し、束ねた存在、言わば
だから、彼は身を隠した。隠蔽に隠蔽を重ね、暗躍を選んだ。真っ向からの目標の成就は無理無謀と決め、奪った知恵と己の知性を重ねて、殺戮の坩堝を成した。こうして、第一次企業群戦争における
そこに、目的の達成への道筋が、曙光が見えると信じ。
……過程で、己の限界をエンボルトは感じた。リソースの底尽き。燃やす薪木の不足。奪ったものが奪われていくのを。そうして、あの体は生まれた。異形の二の轍を踏み、人を屠って喰らって無理矢理焚べても無意味と分かり、電脳へ、映し身へ、自身の
それは、何者でもないエンボルトを、終にエンボルトと足らしめた。
全ては、只一つ。掲げた目標のため。その一念を成し遂げるために。
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