第25話 ビギンズ・ナイト

 

 

 

 

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 逃げるのに手一杯だったと、ケンゴは誰かに問われればそう言うだろう。

 そして、その彼は追い詰められつつあった。

 唐突と巻き上がった破壊の坩堝。尽くを鏖殺せんとばかりに迸ったそれらはケンゴの視界にも映り込んでいた。只人の視覚に捉えられるのは壊れていくという結果だけだったが。

 脇を走り抜ける。破壊の余波。降り注ぐ瓦礫の雨霰。冗談ではない。これではまるで。

 

 「世界の終わりか、なんかかよ……!!」

 

 暇潰しにレンタルした大昔の米国製ムービーがケンゴの脳裏を掠めて、側に落下した人二人分ほどの瓦礫に押し潰された。足の回転を上げる。どこに逃げても無駄に思えるけれど、背後のアレからも逃げている今現在。足を止める気にはなれなかった。

 アレの何とも解らぬ触手で弄ばれるくらいなら、今降り注ぐ隕石めいた崩壊の渦で頭部を押し潰されるほうがまだ楽に死ねるだろう。

 しかし、まだ死ぬ気はない。何を成すつもりも予定も無いが。兎も角、まだこんな所で死にたくはなかった。

 なんだかんだ。今は楽しいのだ。生まれてこの方。このメガフロートに来て、初めて得た感情なのだ。

 ……まだ、失いたくはない。

 懸命と言えた。瓦礫が散乱する道を行く足取りに淀みはまだ見えない。倒れる鉄柵。先の通り、雨の代わりの瓦礫。同時に炎。

 ケンゴの走りは、生まれ持った足と変わりゆく現状を凌ぐ運と諸々に支えられていた。

 

 とすれば、懸念されるのは間違いなく他者の介入であろう。現状を、破壊を巻き起こす者らとは別の要因。


 一つ、ケンゴを追う異形。

 ――最もこれを彼は警戒すべきだろう。今の所、どうにか撒いたのか、背後にそれは見えない。だが、何時姿を現すか、襲ってくるかが想定出来ないということにもなる。見えない恐怖として以前それは脅威に他ならなかった。

 

 二つ、それ以外の異形。

 ――他にも居るかも知れない。居て欲しくはないが。ケンゴに過る可能性。考えても無駄なことにはなるが、どうしても浮上する。一体であればいい。しかし、この異常事態。一体であるという確信はない。だから常に纏わりついて離れない。

 

 どっちにしろ異形に収束する。異形と呼称されていることは彼も知らぬだろうが、見れば、必ず口をついて出るのはこれだろう。後は、怪物やクリーチャー。まあ、何にせよ同意だ。

 

 だから、此処から脱出するべきなのだ。目標としてはこの商業特区の何処かにあるモノレール。もしくは準ずる移動手段……この地獄の最中でマトモな形を保っているのが必須であるけれども。

 大きな破片だけではない。なによりも、拳大の落石を頭部に受ければ人は死ぬ。故、この土砂降りは死へ直結しているのは明白。こうやって避け続けれているのも、またあの異形に遭遇していないのも、まとめて全て奇跡。

 焦りが濃く現れる。走り続けの体には目に見えて疲労が蓄積する。

 積みは、近かった。

 

 ――と、その時。

 

 ぐらりと一撃。目を剥き、体勢を意思の下に引き戻そうと――「ッ!」そこからまた、バランスが大きく崩れる。

 

 更に強烈な地均しが彼の足を掬ったのだ。いや、もうそんな次元のレベルではない。連続する破滅が如く。地が揺れ、構造物が纏めて砕けていく。走ることも、立つこともままならない。ただ、無様に転がされる。

 

 世界が壊れる音を、ケンゴはただ地に這いつくばって聞くしかできなかった。

 只々、それだけ。自身に降り注ぐ死を恐れて、身動きの一つできない。させてくれない。世界が敵に回ったような――いや違う。これはただ、巻き込まれただけ。

 運命のうねりに、ケンゴは足を取られて、転ばされたのだ。

 

 そう。致命的な運命の端に、爪先を。

 

 振動が止んだ。炎の揺らめきと弾ける音と未だゆっくりと崩れる高層建築物達の悲鳴が虚ろに残響していた。

 ゆっくりとケンゴは体を起こす――しかし、直ぐに思い出す。こんな場合ではないのだ。

 

 「逃げ――「コンニチワ」――――」湿った音「――――な「コンバンワ」け―――」蠢く音「――れ「オハヨウ」ば――――」

 

 喉奥から迫り上がった何かが、ごぽりと気泡が湖面に浮き上がるように、引き絞った唇を突き抜けて溢れ出た。

 赤。朱。赫。まるでそれは無限の水瓶から溢れ出るが如く現れい出て。自由落下のまま、地に落ちて、舗装された道が水分を吸収する。けれどその鮮烈さは液体としての役割を奪われても存在を強調させた。

 ずるりと極自然にケンゴの内側に入り込んだそれは、赤が吐き出されるのが嬉しくて仕方ない様子。だからか、公園を走り回る子供たちのように無邪気に掻き回す。結果、声成らぬ絶叫と悲鳴がケンゴを強く痙攣させた。暴れまわる手足。筋骨の限界を超えた駆動から生じる断裂と破損。

 それが終われば、次に来たのは末期の震え、陸に上げられた魚類の様相、打楽器達が鳴り止む寸前の余韻。

 すなわち、静止への刹那。これはその道行きの最中に出た余剰物に過ぎない。

 

 ケンゴの瞳が「ァ……」肺に溜まった息を絞り出す音と共に「―――――」裏返る。

 

 肺が、心臓が、胃が、十二指腸が。咬切ケンゴという生物を維持し続けたそれは今この瞬間、生まれて初めて世界を肌で感じていた。外気を、暖かい風を、それが連れてきた煤臭さを全身で感じていた。

  

 そこからもたらされるのは、唯一つの事象のみ――絶命以外ありえない。

 

 「糞、が」

 

 ケンゴはそう呟いていた。真っ白く染まった筈の双眸に揺れる限りなき呪詛が異形を射抜いていた。即死して当然の残虐に晒された瞳は、比類なき意志力の下に駆動していた。

 

 「俺、は、ま――」

 

 だが、只の残響。もう数秒と待たずに瞳は曇った硝子玉同然になるだろう。人類種、人であり物質界に命を育む只人に過ぎない以上、至極当然の末路。

 鼓動を刻めず、熱量を発することの出来ぬモノに意思力は宿らない。それこそがこの世の理なのだから。

 そういう絶対は、秒針よりも早く到達する。

 故に、誰も知らず、誰とも知らない死体が一つ転がった。澱んだ瞳が空中を差し、陵辱に手足が跳ねる。

 嫌らしい咀嚼音と衝撃に骸が地を叩く音。誰の耳にも届かず、聴かれる事無く事は済まされるだろう。ただ、赤黒い血痕だけが証として残り、いずれ舗装ごと引き剥がされるだろう。

 

 そして、パッと新たな彩りが路上に加わった。それはごろりごろりと、奇っ怪なオブジェの様を見せる。


 ――老若男女の腕が幾つも散らばっていた。


 ぴたりと異形が静止「……コンバンワ?」疑問符が首傾げに零れ落ちて――斬り刻まれた。

 微塵など生温く、塵一つ残さないほど丹念に。見えざる手に慈悲はなく、怨敵を包み込んで斬り刻む。抵抗など許されていなかった。

 死の抱擁は平等で、咬切ケンゴを蹂躙した悪意はこうしていとも容易く斬滅の憂き目にあった。

 かつりと静かに路面を叩く音が、異形の居た場所に鳴った。

 

 「…………」

 

 無言で見下ろす瞳。見るも無残な死体。咬切ケンゴの成れの果てを見つめる。

 その彼も、さしてケンゴと変わりない様だった。残った腕は片方。足など肉の殆どを削ぎ落とされている。美しかった容姿に面影はない。ある筈のものを幾つも欠損した姿は見るに堪えない。

 

 『…………嘘だろ』

 

 声がした。黒色の球体、ドローンから男勝りの少女の、呆然とした声、現在を理解できない声。ケンゴに意識があれば、声の主がカレンだと直ぐに判断しただろう。

 しかし、仮定である。仮定が現実ならば、カレンの声がこんな感情を帯びてはいない。

 

 「……友達か」

 

 掠れた問。眼の前の彼とさして変わらない。燻っているか完全に消えているか。カウントダウンは始まっていた。

 

 『………………え、ぁ』返りは声とも判別つかない。

 

 「そうか」察し、静かに残った瞼を閉じて「――――俺は、もう保たない」告げる。

 

 『…………嘘だ。嘘だよ。そんなの嘘に決まって……』

 

 溢れ返った感情がスピーカーから零れ落ちる。けれど彼は、コールドは首を横に振った。現実を呑み込めとばかりに、残酷に。

 

 「お前にはもう俺は必要ない。必要なのは――」瞼を上げて「彼だろう」言葉はケンゴを指し示していた。

 

 「でも、ダーリンは……」

 

 ……ダーリン、ダーリンと来たか。不意を打たれたとばかりにコールドは苦く微笑を口端に浮かべる。

 

 「俺という狩人の維持は不可能だ。狩人の因子は兎も角、俺という、コールド=J=オールドリッチの存在が摩耗しすぎている。存在情報が異形に奪われすぎた」

 

 故に。

 

 「この男を、俺の後継にしよう」自嘲気味に「はは、実働時間寿命の短さには文句の一つでも言われかねないね」

 

 最短かもしれないねえ。呟き、思わず笑み零れる。するとカレンの神経を逆なでしたらしい。

 

 『巫山戯るな……!』烈火の如き怒りが彩る『なにも、おかしくなんてない……!!』

 

 けれど、その叫びは悲痛だ。

 

 『分かるだろ、兄さん! 残された側の気持ちくらい! 兄さんは、ボクなんかよりよっぽど人の心が分かるくせに、こんな時ばかり理解しようとしないなんて卑怯だ……!!』 

 

 「――ああ、ごめんな。カレン」視線の一つも向けず「分かってるんだ。だけど、時間がない」

 

 すっとドローンのカメラに入るように自身の手を持ち上げる。血塗れの掌。幾度とカレンの頭を優しく撫でた掌。けれど、その指先は解れ、結び目が解けていく様に内側の虚ろを晒していた。肉も骨も神経も見えない、ただの伽藍堂。

 

 「限界なんだ」寂しげに呟いて「ごめんな。本当に」

 

 二度目の謝罪を口にする。

 

 「……ほんと、最低」やるせなさげに「そんな風に言われて、見せられたらもう何も言えないだろ」

 

 「……ごめん」三度目「最低だ。ほんと、最低」嗚咽混じりの罵倒。

 

 「じゃあ、」

 

 漸くコールドは、カレンの方へ振り向いて

 

 「行くよ」

 

 「…………さようなら」

 

 絞り出したような声に、コールドは消えゆく手を伸ばした。面影が浮かぶ。あの日から決して涙を流していない妹の姿を彼は幻視していた。指を伸ばす。決して届かない事は理解できていてもそうしていた。

 血染めの指が黒い糸のように解けて、虚ろを示すから。

 

 「さようなら――俺のカレン。愛してる」

 

 言葉の終わりには、もうそこには彼は居なくて――唯一人残された少女の、罅割れた慟哭だけがどこまでも響いていた。

 

 

 

 

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 かくして、再誕の日ビギンズナイトは相成った。

 

 この後、ケンゴは数日眠り続ける事となる。彼が起きたのは目覚めの日に他ならず、最初の狩りファーストハンティング、その執行日だった。

 この夜が再誕にあたるならば、血染めの学び舎こそが人という殻を打ち壊す為の孵化であろう。

 

 そして、此度の復活こそが――――。

 

 

 

 

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